第3話 火花
モスクワの秋は、東京よりも一足早く訪れる。大通りのプラタナスが黄色く色づき、風に吹かれて歩道に舞い落ちるたび、絵里はその音にどこか懐かしい記憶を揺さぶられる。
赤茶けた煉瓦造りの大学本館──スターリン様式の高い塔を背に、モスクワ大学のキャンパスは荘厳で、どこか威圧的でもあった。だが、その冷たさの奥に、学生たちの笑い声や自転車のベルの音、カフェの香ばしい匂いが混ざり合い、ここが”学びの場所なのだ”と実感させてくれる。
政治学部は、大学の広い敷地の中でも比較的新しい建物に入っていた。ガラス張りの近代的な外観は、かつての冷戦時代の硬直したイメージとは異なり、"世界へ開かれたロシア"を象徴するようでもある。
廊下を歩くと、掲示板には各国からの交流イベントや、学内ディベート大会のポスターが並び、その横ではスーツ姿のロシア人学生が真剣な表情でプレゼン資料をまとめていた。
「……これが、私の学ぶ場所」
日本での穏やかで自由な高校生活とは違う。ここでは、一言一句が国家の未来に触れる議論になり得る。足元がすこしだけ震えるような感覚を覚えながら、絵里は深呼吸をひとつして、ゼミ室のドアに手をかけた。
扉を開けた瞬間、部屋の空気が変わった。
革張りの椅子、木の温もりを残した机、そして中央に設えられた大きな地球儀。壁には”世界政治と現代ロシア”というタイトルの横断幕がかかっており、その下で、既に数人の学生たちが着席していた。
その中にタブレットを覗き込みながら、静かに周囲の話を聞いている女子学生がいる。すこし地味だが、芯の強さを感じさせる横顔。──アレクサンドラ・"サーシャ"・イワノワ。
絵里は一瞬、彼らの視線に気圧されそうになったが、笑顔を作って席につこうとして、気づく。ロシア系とそれ以外で席が別れていることに。絵里自然に、その間に座った。少しだけ、異物を見るような視線を感じる。
絵里は内心でため息を一つ。彼らがまだ"味方"かどうかは分からない。けれど、この部屋が、世界とつながる場所であることは間違いなかった。
そしてその時──部屋の後方で、ロシア語で何か言い合う声が聞こえた。
場にピリついた空気が流れ始める。
「……また君は西側のロジックを持ち込むのか」
「論点はそこじゃない。君は聞く気がないだけだろう」
ふと振り返ると、黒縁メガネをかけた青年が、背筋を伸ばし鋭い目つきで、ウクライナ訛りの強い学生と静かに、しかし明らかに火花を散らしていた。そのウクライナ語訛りの学生に、絵里は覚えがあった。
──イヴァン・シェフチェンコ。
絵里は、咄嗟に立ち上がった。
イヴァン・シェフチェンコ。寮で最初に言葉を交わした、あの青年。けれど、今は穏やかな表情ではない。唇の端に怒気を抑えたような硬さが宿っていた。
彼の向かいにいたのは、いかにもロシアのエリート然とした男子学生。名前は確か、コンスタンチン・マレフだったか?。寮のロビーでも、誰かがそう呼んでいたのを思い出す。
「──ウクライナの独立性は、君たちの"歴史観"の中にあるんじゃなくて、現実の政治の中にある。いつまでも大国の視点からものを語らないでくれ」
「我々の視点が"歴史を踏まえている"ことがそんなに悪いことか?」
二人の間に、ピリピリとした空気が走っていた。教室の他の学生たちは距離を置くように視線を逸らし、あるいは静観している。
絵里は、一歩踏み出していた。こういう時、自分でも理由は分からない。でも身体が先に動いていた。
「お二人とも、落ち着いて。論争することと、対話することは違うと思うんです」
その声に、二人が一瞬振り向く。イヴァンが絵里に気づき、わずかに目を見開いた。
「……君、あの時の……」
「ええ。モスクワに来たばかりの、日本からの留学生です」
マレフが眉をひそめたまま尋ねた。
「中立のつもりで割って入ったのか?」
「中立ではないです。ただ、どちらも正しい部分があると思ったから。それぞれの立場に"どうしてそう考えるのか"を知る方が、ずっと意味がある」
教室の空気が一瞬、変わった。議論の温度が下がったわけじゃない。けれど、互いに呼吸が戻った。イヴァンが軽く肩をすくめて、
「まあ、そういうのも悪くない」
と小さく笑う。
その時、教壇のドアが開いた。背の高い男が、コートの裾を揺らしながら教室に入ってくる。鋭い目、深い皺、抑制された気品。──ドミートリー・ヴォロビヨフ教授だ。
「論争は講義の後でもできる。だが、私の時間を割ってまでするなら、相応の内容を期待するぞ」
学生たちが一斉に椅子に座る。絵里も慌てて席につき、イヴァンは一度だけこちらを見て、小さく頷いた。
歴史の古びた匂いと、磨かれた床の微かな光。モスクワ大学・世界政治学部の一角にあるゼミ室は、重厚な木の机が並び、背後の棚には色あせた書物がぎっしりと詰め込まれていた。窓の外には初秋の風が吹き、スズメたちが赤煉瓦の屋根を駆け回っている。
(……これが、"世界の中のロシア"を考える場所ね)
星野絵里は、まだ馴染みきらないロシア語で書かれた課題プリントを指でなぞりながら、隣の席の女子学生──アレクサンドラ・"サーシャ"・イワノワの横顔をちらりと見た。長いまつ毛の奥に、観察するような静かな瞳。口数は少ないが、ただの優等生ではない。
「座ってる場所、変わる?」
と声をかけてきたのは、少し話したばかりの青年──イヴァン・シェフチェンコだった。ウクライナからの留学生で、姿勢が真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐ。今日もその目には、少しだけ鋭い光が宿っている。
「ううん、いいの。ここで」
軽く微笑んだその瞬間、ヴォロビヨフ教授の声が響く。
「皆さん。少し寒いが、思考は熱く頼むよ」
コートを脱ぎかけながら、ドミートリー・ヴォロビヨフ教授はそういった。スーツの上から淡いグレーのカーディガンを羽織りなおし、白髪混じりの頭を撫でつけながら、ゆっくりと講義机に立つ。
「今日のテーマは、"2008年、南オセチア紛争──主権とは誰のものか"」
その言葉が発せられた瞬間、教室内に一瞬だけ静寂が走った。
「コンスタンチン、まずは君の見解を」
教授が視線を向けると、教室の一角で背筋を伸ばしていた男子学生が立ち上がった。金髪を短く刈り上げ、軍人のような気配をまとったコンスタンチン・マレフは、流麗に喋りだす。
「南オセチアの住民の大半はロシア国籍保有者です。彼らが自らロシアとの統合を望んだ以上、ロシアの軍事介入は正当化される。むしろ、グルジア(ジョージア)政府がその主権を暴力で押し付けようとしたのが誤りです」
静かな声だったが、語気は鋭かった。続けざま、イヴァンが席を蹴るようにして立ち上がった。
「それは違う。ロシアは"保護"という名のもとに、他国の主権に介入した。南オセチアの人々がどう思っていたかはともかく、武力による"支援"は独立国家への侵略行為だ」
「君の国は、ロシアと"同じ言語"を話す民族がどうして分かれたかを、歴史のどこで習ったんだ?」
マレフが咎めるように口元を曲げる。イヴァンの拳が、机の下でぎゅっと握られる。
「……俺たちは、違う国家を選んだ。それを否定するなら、どこに"選択"の自由があるんだ?」
一触即発の空気に、教室内が張り詰める。
そのときだった。
「……あの」
静かに、けれどはっきりとした声で、絵里が口を開いた。
「南オセチアの人々にも、グルジア政府にも、それぞれの言い分がある。それは理解できる。けれど、ここにいる私たちが語るのは、"誰が正しいか"より、"どうすれば争いが繰り返されないか"ではないでしょうか?」
マレフが、一瞬、きょとんと絵里を見た。イヴァンは何かを言いかけたが、ふっと肩の力を抜いて座り直す。
「……賛成だよ。それが、本当に可能ならね」
サーシャが隣で小さく頷いた。
「正しさの争奪戦は、いつだって誰かを置き去りにするから」
沈黙。そして、ヴォロビヨフ教授が深く頷いた。
「なるほど。面白い意見だ。君たちは"若い"、だがその若さの中に、戦争よりも未来を見ている。絵里、君は"日本"の外から来た。だが君の言葉には、どこか"ここ"の匂いがある。……次回も楽しみにしているよ」
絵里はふと視線を落とした。"ここ"とはどこなのか──その問いは、胸の奥にずっと残った。