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第2話 記憶の都

ロビーの端でロシア語とウクライナ語が絡み合い、若い男が拳を握る。

寮スタッフが青ざめ、周囲は息を呑む。

星野絵里はスーツケースを押し出した。


“言葉の壁”が崩れかける、その瞬間に割って入るのは――銃でも盾でもなく、

彼女の声だけだ。






第1章:記憶の都








2008年9月、モスクワ

飛行機が滑走路に着地した瞬間、星野絵里の胸の奥で、何かが小さく弾けた。

それは機内の空調でも、長旅の疲労でもなかった。もっとずっと内側──言葉にできない震えが、喉の奥に残っていた。


モスクワ。その地名だけで、胸の底に波紋が広がっていく。自動ドアが開き、外の空気が顔を撫でる。東京の冬など比較にならないほど鋭く冷たい。頬を刺す風に眉をひそめながら、絵里は人波を縫うように歩き出す。


耳に飛び込んでくるロシア語の会話が、どこか懐かしく響いた。母語ではない。けれど、まるでそうだったかのような柔らかさで、意識の奥へと染みこんでいく。


手荷物を受け取り、国際交流学生向けのピックアップバスに乗り込む。車窓の向こうには、雪を纏った街路樹と、ちらつくキリル文字の看板。どこを見ても見知らぬ風景なのに、胸の奥で微かな既視感が灯った。


「……あの道を、通ったことがある気がする」


無意識のつぶやきに、自分で驚き、思わず首を横に振る。"そんなはずない"──けれど、心のどこかが否定しきれない。


遠ざかる雪原、その先に金色のドームを戴いた聖堂が現れる。旧ソ連式のアパート群、その頭上に黒い影のような銅像が浮かぶ。風雪に晒されながらも、なお毅然と、何かを見つめ続けているようだった。


君は、この街の"未来"を見に来たのか。それとも、"過去"を確かめに来たのか、そう問われている気分だった。


──答えは、まだ出ない。


寮に着くと、暖房の効いたロビーに外国人学生たちの姿があった。絵里は受付に書類を差し出し、慎重にロシア語で自己紹介する。


「Здравствуйте. Меня зовут Эри Хошино. Я приехала из Японии…(こんにちは。私は星野絵里と申します。日本から参りました……)」


女性職員が驚いたように微笑んだ。


「発音、きれいね。もうずっと勉強してたの?」

「……はい。でも、なぜか"聞いたことがある気がする言葉"だったんです」


その言葉に、職員は一瞬だけ何かを感じたように頷き、カードキーを手渡した。ロビーの奥で、やや荒い声のやり取りが聞こえる。耳に引っかかるのは、聞き慣れない訛り。──ウクライナ語だ。


ソファの前で、二人の青年が言い争っていた。一人は整った身なりのロシア人。鼻にかかった声で、理路整然とした口調に熱がこもる。もう一人は、スラブ系の短髪青年。表情は険しく、手の動きも荒い。


「また"私たちの勝利"の話か? あんたらの勝利のせいで、俺たちは何度"喪失"を味わってきたと思ってる?」

「じゃあ、君の国はいつ"国家"になった? ツァーリの時代か? ナチスの残滓を誇っていた時か?」


──周囲の空気が、凍った。


絵里は、手にしていた荷物をそっと受付に置き、二人のあいだへと歩を進める。


「すみません、ちょっと通りますね」


わざとらしいけれど、やさしい演技。流れを断ち切るための、小さな楔。ロシア人の青年が眉をひそめ、口を閉じる。ウクライナ側の青年は、絵里を一瞥してから、少しだけ表情を緩めた。


「……君、どこから来た?」

「日本です。でも、ロシア語とウクライナ語は、少しだけ……勉強してます」


青年──イヴァン・シェフチェンコは、絵里をじっと見つめ、小さく肩をすくめた。


「じゃあ、君にはこのややこしい空気、意味がわかるのかい?」

「完璧には。でも……"怒り"って、どの国の言葉でも、似た響きを持ってますよね」


イヴァンは吹き出し、皮肉を滲ませた笑みを浮かべる。


「それは君が日本人だからだ。俺たちみたいに"失ったもの"が多すぎると、笑い方すら忘れる」


やがてロシア人の青年が無言で一礼し、ロビーを後にした。絵里とイヴァンは、静かに視線を交わす。


「……気まずいままは、よくないですよね。私も、歴史を"他人事"にできない人間なので」


イヴァンの目が、鋭くなる。


「それは……どういう意味だ?」

「うまく言えません。でも、"語られていない記憶"が世界にはたくさんあると思ってて。名前を与えられてこなかっただけだって」


イヴァンはもう一度、彼女の目を見つめ、ふっと笑った。


「君、面白いことを言うな。名前は?」

「星野絵里。政治学部です」

「イヴァン・シェフチェンコ。ウクライナから。君の名前、覚えておくよ」


イヴァンはソファに腰を下ろし、怒りの色をほんの少し残したまま、目を閉じた。絵里は荷物を手に取り、エレベーターへ向かう。上昇する箱の中、鏡に映った自分の顔を、無意識に見つめた。その頬には、まだ冷気の名残と、言葉にできない高ぶりが残っていた。


"対話って、こうして始まるんだ"


勝ち負けじゃない。ただ、誰かの間に立つ、その勇気だけが必要なんだ──


「……イヴァン・シェフチェンコ。ウクライナから、か」


そう小さく呟いた。また近く彼と合うなんて、絵里は想像していなかった。





モスクワ大学本館の奥、歴史を感じさせる重厚な木扉の前に、絵里は立っていた。金属の表札には、くすんだロシア語の文字が刻まれている。


『ドミートリー・I・ヴォロビヨフ 教授

 国際関係論・比較政治思想専攻』


「……ここか」


小さく息を吸い、扉をノックすると、間を置いて低く落ち着いた声が返ってきた。


「どうぞ」


ドアを開けた瞬間、外の空気とは別世界のような静けさが広がっていた。壁一面の本棚には古い書籍がぎっしりと並び、色褪せた地図が壁に掛かっている。その地図──旧ソ連時代の版図を示したもの──が、どこか重苦しい余韻を漂わせていた。


奥の机には、ひとりの男が座っていた。灰色の髪と深い眉間の皺。威圧的ではないが、目の奥には鋭い光が宿る。──この人が、ドミートリー・イワノヴィチ・ヴォロビヨフ教授。


「……日本から来た学生、ですね?」

「はい。星野絵里と申します。今学期から、国際関係論を履修させていただきます」


教授は手元の資料に目を通しながら、穏やかに頷いた。


「ふむ。履歴書は拝見しました。言語能力も高いようだ。英語、ロシア語……ウクライナ語も少し?」

「はい。日常会話程度ですが」


その瞬間、教授の目がわずかに和らいだ。


「……そうか。それは良い。言葉を知る者は、沈黙を壊す者でもある」


そう呟きながら、彼はゆっくりと立ち上がり、絵里に手を差し出した。


「ようこそ、モスクワ大学へ。私はドミートリー・イワノヴィチ・ヴォロビヨフ。君のような学生が来てくれて、心から歓迎したい」


絵里は差し出された手を握りながら、思わず尋ねた。


「教授は……ISCFともつながりがあると伺いました。本当でしょうか?」


ISCF、絵里がモスクワに留学するきっかけとなった機関。絵里の問いかけに

教授はわずかに口角を上げると、壁際のソファを示しながら答えた。


「"信頼されている"というより、"観察されている"と言ったほうが正確かもしれませんな。一方で、クレムリンにとって私は、"自由にものを言いすぎる男"だそうです」


その言葉に、絵里は思わず小さく笑った。教授も、それに気づいて笑みを返す。


「だが、私は国家を否定しているわけではない。むしろ、国家が持つべき"自制"と"倫理"を誰よりも信じているつもりだ。……それが、どれほど古臭く、無力に見えたとしてもね」


絵里はしばらく言葉を探して、静かに頷いた。この人物が、時代に抗いながらも"言葉"を武器に立ち続けているのが、ひしひしと伝わってくる。


「私はこのゼミで、世界を語るつもりはありません。学生たちに"語らせる"場を作るのが、私の役目です」


彼は言葉を続ける。


「だから君の言葉を聞かせて欲しい。日本語でも、ロシア語でも、ウクライナ語でも構わない。大切なのは、"誠実に語る"ことだから」


──そのとき、絵里は確信した。ここでなら、自分の声が届くかもしれない。この場所でなら、"記憶"の奥に沈んだままの思いに、名前を与えられるかもしれない。

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