Act6:三厄災
「なあ、ノウェムのヒショ? だっけ。あいつはこの後どうなるんだ?」
ヴァルプルギス・ナハトでの用件を済ませ、二人はメイザースの中心部に向けて車を走らせていた。
次に向かう先は、千里眼として知られる魔眼使いオクトラスが経営する情報センター、プロヴィデンス・ヒューマンネットワークのオフィスである。
一ヶ月前の一件で廃車同然に成り果てたデュールの愛車もすっかり元の姿を取り戻し、ステアリングを握るデュールの手が噛み締めるようにその帰還を言祝いでいるところ、クラブでの一件に何やら思う部分があるらしいアンが問いを投げてきた。
「まあ間違いなく命はねえだろうな。店の金をちょろまかすだけでも極刑モンの狼藉だが、野郎に関しちゃ手口が悪質すぎる。よりにもよってテメーのボスを横領の踏み台にしたんだからな。ま、それも証拠如何ではあるが」
「ふーん。でもそれって、取ったカネを返せば丸く収まる話なんじゃねーの?」
ごもっともと言えなくもない理屈ではあるが、この世界における絶対の不文律を知るデュールにとって、それがいかに甘い幻想なのか、考えるまでもなく明らかな事だった。
「物事の筋ってのはな、ただ取った取られたの物々交換だけじゃ語れねえんだ。とりわけこの裏社会において、メンツってのは時に命に直結する。連中はストリートでファックファック連呼してるチンピラ達とは違って、テメーの顔に泥を塗られようもんなら、例え命のやり取りをしてでも必ず借りを返す。それを怠ったが最後、組織ってのは内側から腐って崩壊していく。マフィアやカルテルなんて連中はその極北だな」
「ナメられたら終わりってやつ?」
デュールが語る裏社会独自の掟を、アンは実に端的な理解で咀嚼した。
「ま、そんなとこだ。とりあえずお前にはこの街で絶対に喧嘩を売っちゃならねえ相手を三つ教えとく」
「三つくらいならアタシにも覚えられるな」
「ひとつはカルテル、ひとつはシンジケート、そしてもうひとつは事件屋リルフィンゲルだ」
「カルテルとシンジケート、デュールが世話になってるイービスとノウェムってやつの組織だよな? もう一つの事件屋ってのはなんだ?」
先の二つに関しては、アンにとっても覚えはあった。いずれもデュールが懇意にしている二大組織であり、片方に関してはついさっき御目通りしたばかりであるが、人慣れしていない彼女から見ても、その二人が放つ凄みは、常道の人間がまともに受けるには過激すぎる代物だ。
そんなのに比肩するレベルの「事件屋」とは、一体どんな怪物なのだろうか。
「リルフィンゲルはなんつーか、カルテルやシンジケートとは違うというか、むしろ正反対と言えなくもない奴なんだが」
「正義の味方ってやつ?」
「ううん、まあ、そうなのかなぁ。言葉にすると俺が馬鹿に見えちまうんだが……まあとにかく、ヤクだの女だのを食い扶持にしてはいないって点ではそうかもな」
妙に歯切れの悪い言い方をするデュールに、ますますアンは食い下がる。
「なんだよ、はっきり言えよ」
「まあなんだ、奴は別に組織だって動いてるわけでも、野放図に暴れ回るチンピラでもない。この街では宇宙人よりも珍しい『善人』ってやつなんだが、奴のヤバさはその腕っぷしの強さだ」
生身の人間について語る口調とは思えない様子で話すデュールに対し、アンは眉に唾しながらその先を促した。
「そんなに?」
「ああ、以前奴が往来で強盗犯と喧嘩してるのを見た事があるんだが、奴のパンチを食らった犯人が見た事もない速度で回転しながらコンクリを突き破って、そのまま向かいのビルの外壁でペシャンコになってやがった。ガキが壁にカエルを叩きつける感覚で、奴は人間を平に均しちまう。全く信じられねえバケモンだぜ」
「そいつ、本当に人間か?」
「形はヒトのメスだがな。ほら、ちょうどあんな感じの赤毛で黒いスーツ着た……て、ええっ!?」
自身が説明した通りの造形の人物が往来を横切っていくのを目にしてしまったデュールは、まるで怪獣とでも出くわしたかのような驚愕を露わにする。かの者を知る立場としては相当の衝撃だったのだろう。
驚愕の弾みで思わずハンドル操作を誤ったデュールは、そのまま前を颯爽と歩く黒スーツ姿を目掛けて車を突っ込ませてしまっていた。
「うわああッ!」
喧しくがなり立てる摩擦音と共に、デュールは悲鳴が追い縋るように響き渡る。唐突な急ハンドル、踏み遅れたブレーキ、ほとんど肉薄に近い距離は、どう足掻いても衝突の結末しか待っていない絶望的な状況を演出していた。
しかし、激突の先でデュールが見たものは、先刻ノウェムの元で冷やした肝をさらなる氷点へと至らせるに足るほどに壮絶な光景であった。
「ま、マジかよ」
不自然なほどに潰れたボンネットと前部バンパーが衝突の威力を物語る。
ここまで車体が変形するような衝突ともなれば、生身でぶつかられた方は最早人の形を保っているかさえ疑わしい。通常であれば弁解の余地もないデュールの過失事故であったが、しかし被害の度合いだけで言うなら、彼らの方が圧倒的な損失と言って相違ない。
なぜなら、猛スピードで激突されて吹き飛ばされるでもなく、潰されるでもなく、涼しげな顔で真正面からデュールの車体を片足で受け止める女がそこにいたからだ。
「危ないな、私じゃなかったら死んでいるぞ」
女はそう言いながら車を押し戻す。当たり前のように、脚でだ。そんなありうべからざる現実に車までもがその機能を忘れていたのか、押し戻された衝撃で今更になって開いたエアバックが、呆気に取られる二人の視界に叩きつけられた。
その様子を事もなげに見つめる彼女こそ、このメイザースで厄災の如く畏れられる三勢力の一翼を預かる女傑。事件屋ことリルフィンゲルであった。
「怪我はないか?」
どう考えてもドライバー側が言うべきセリフを吐きながら、リルフィンゲルがウィンドウを小突く。その声かけでようやく現実に引き戻されたデュールは、置き去りの時間の中で目の前の状況を整理し、そして最も端的で最も悲しき結末を見出すこととなった。
「車……先週修理から戻ってきたばっかなのに……」
フロントガラス越しに垣間見える変わり果てた愛車の姿を目にし、ここに来てデュールはようやく確信した。
今日こそがまさに人生最大の厄日なのだと。
◇
ここメイザースでまことしやかに語られる三つの厄災は、その名から連想されるように天災級の暴威をもたらす者たちとして恐れられている。
大陸北部、エルドラ共和国で活動するゲリラ組織、エルドラ人民解放戦線を母体とする国際麻薬カルテル「ロス・サングレ」
政財界に広範なコネクションを有し、人身売買とマネーロンダリングにも食指を伸ばす賭博シンジケート「スタシオン・アルク・ドレ」
メイザースに君臨するこの二組織は言わずもがな、その強大な組織力と苛烈な暴力性からくる恐怖に由来するものだが、事件屋リルフィンゲルに関しては趣が違う。彼女はどちらかと言えば黒社会に対するカウンターだ。
その指向性は専らこの街の悪党にのみ向けられたものだが、異質なのは彼女はどの派閥のどの組織に属すこともなく、単独での圧倒的な戦闘能力のみを指標に厄災の名を冠するに至り、これまでいくつもの組織が彼女一人の手によって粉砕されている。
警察機関が裏社会との癒着によって治安維持機能を喪失し、それでもこの街が辛うじて都市としての機能を保っていられるのは、リルフィンゲルという抑止力あってこそといっても過言ではない。
要するに彼女は、市井の人々を悪党の魔の手から守る正義の味方。などと歯の浮くような与太を本気で実行している変わり者である。
しかしながら、所詮は無法の胎から生まれた無頼者である点において他の二者との違いはなく、むしろ単独で行動する分制御が効かないという点では、他の誰よりもタチが悪いとも言える。
彼女の戦闘能力に関しては数多くの逸話があり、やれギャングの根城に雷を落として黒焦げにしただの、やれ外から入り込んできた外国人部隊をまとめて天まで吹っ飛ばしただの、例を挙げ始めたらキリがないが、げに恐ろしきはそこまで徹底的に打ちのめしておきながら死者を出していないという点だ。
つまり彼女は、手加減した状態の戦闘能力で厄災と呼ばれるに至った、正真正銘の怪物というわけである。
「それで、大正義リルフィンゲル様が、こんな昼間っから何してんだよ」
自らの過失のせいとはいえ、修理直後の車を再び傷物にされてむくれているデュールが水を向ける。
「別に大した用があったわけではない。近頃のギャング共は昼も夜もないからな。野暮用ついでに街を巡回していた」
本当にヒーローでもやってそうな事を、リルフィンゲル平然と言ってのける。ウルフカットの赤髪にパンツスタイルの黒スーツ。すらりとした無駄のない出で立ちは、一見そこらのボーイと区別つかないが、コンバットグローブ越しでも分かるその手は完全に人間を撲殺するために最適化された形状をしている。
凛烈とした紫紺の瞳は真っ直ぐでありながら、一度怒りの念を覗かせれば一瞥するだけで身の竦むような鋭さを宿していた。
「ったくよお。当て所ない人助けなんかのためにほっつき歩きやがって。おかげでフレームがガタガタじゃねえか」
デュールは歪んだボンネットを叩きながら嘆息する。
「だから、悪かったと言っているではないか。歪みも凹みも直したわけだし」
「あれを直したで済ませられるんなら修理屋なんていらねんだよ。飴細工みてえに車を捏ねるんじゃねえ。バケモノかお前は」
加害者の身でありながら随分な言いようだが、それも無理からぬ話だった。リルフィンゲルに受け止められたことでひしゃげた車体のフロント部分を、彼女は詫びだと宣いながら強引に元の形に戻したのだ。もちろん素手である。
まったくもって馬鹿げた腕力だが、おかげでいつぞやのような、あからさまに珍奇なシルエットよりはまだマシと言える程度にはなったものの、近目には修復不能な歪みが残っており、どの道今日の用が済んだらこの車はまた修理屋に回すことになる。
「ところで便利屋、ひょっとしたらだが、お前たちの目的地はこの先の情報センターじゃないのか?」
「そうだけど、それが何だよ」
「奇遇だな、私も乗せていってくれ。そこの少女についても話が聞きたいからな」
「え……いや、別に構わねえけど、面白い話なんて何もねえぞ?」
「構わん。たまには人と話さないとだからな」
デュールとしては、これ以上の厄ダネは御免被るのだが、かと言って事故を起こした手前無碍に扱うわけにもいかない。本音としては不本意も甚だしいのだが、ここで押し問答をしたところで一文の得にもならないため、渋々デュールはその申し出を受けることにした。
リルフィンゲルを加えた三人は車に乗り込み、PHNのオフィスに向けて発進する。今度こそ安全運転で、だ。
「それで、この少女はどこで拾ってきたんだ?」
「いきなり本題かよ……まあなんつーか、拾ったってよりカルテルから押し付けられたようなもんなんだが。結果的には誘拐屋から保護したって事になるのかな」
何も嘘は言っていないが、実態とは程遠い言い回しでデュールは答える。当然だ。ありのまま事のあらましを説明しようものなら、いつどのタイミングでリルフィンゲルの地雷を踏み抜くか知れたものではない。最悪人攫いのレッテルを貼り付けられ、今度こそこの車ごとスクラップにされる事請け合いだ。そうなっては目も当てられない。
「君、名前は? ここにくる前はどこにいたんだ?」
「アン。前にいたのがどこなのかアタシにも分からねえ。記憶がないんだ」
「そうか……ここの暮らしはしんどいだろう」
「一ヶ月くらい事務所に監禁されてた」
「馬鹿おめえ! 誤解を招く言い方すんじゃねえ!」
慌てふためいて制止するデュールの首が、唐突に座席ごと締め上げられる。デュールは即座に抵抗を試みるものの、万力のように固定されたリルフィンゲルの腕はびくともしない。
「説明してもらおうか、便利屋」
リルフィンゲルの無慈悲な問いが背後から襲う。
生身で走行中の車を止め、金属パーツを素手で捻じ曲げるような腕でチョークスリーパーなどされたら、人間の首など容易く轢断するに違いない。
「待て待て待て! 死ぬから! マジで死ぬから! つーか事故る!」
「安心しろ、そこの少女は私が責任をもって親元に返す」
「そういう事じゃねえ……」
鬱血により顔を赤黒くしながら、涙ながらにデュールは懇願する。話を聞くような奴ではないとは思っていたが、流石は厄災、実力行使までの判断が早すぎる。
そんなデュールの絶体絶命の窮地を救ったのは、意外なことにリルフィンゲルの言葉に反応したアンの一言だった。
「アタシに親なんていねーぞ」
「何だと?」
締め上げていた腕をリルフィンゲルが唐突に離した事で、デュールはこれ幸いと一生分とも思える酸素を吸い込んだ。
「しかしアン、君には記憶がないらしいじゃないか。単に親を覚えていないだけではないのか?」
「いやまあそうなんだけど、これに関しては多分本当だ。うっすら記憶に残ってるのは、昼も夜もない真っ白い部屋の中だけだよ」
「どういう事なんだ、便利屋」
リルフィンゲルが疑念の眼差しでデュールに水を向ける。とはいえ、デュールとしてもその話は初耳だったので返答に窮するしかなかった。
「俺もよく知らねえんだよ。こいつを攫った誘拐屋も、それを追いかけてた連中も、まとめてあの世に送っちまったし。ただ追っ手に関しては少しだけ覚えがある。あれはアルカディア魔導軍の軍用車だったな」
「魔導軍の……?」
軍という単語を聞いたリルフィンゲルがにわかに押し黙る。なにやら思うことでもあるのだろうが、下手に藪をつついて蛇を出しても面倒なので、デュールはそれ以上の言及を避けつつ、逆にリルフィンゲルに対して問いを投げる。
「そういうお前は何者なんだ? カタギってわけでもないだろうが、後ろに手回されてたわけでもねえんだろ?」
「私か? 私は元憲兵だ」
「憲兵!? アル帝のか?」
「昔の話さ。もはやあの国は私の帰る場所ではない」
バックミラー越しにそう語るリルフィンゲルの表情は、哀愁とも郷愁ともつかない、どこか切なげな色を帯びていた。しかし、彼女があくまでも正義を標榜する動機が、元憲兵という出自に関わっているという事は確かだろう。
「なあ、憲兵ってのは軍とは違うのか?」
リルフィンゲルに興味を持ったらしいアンが、遠慮もなく問いを投げる。本来この手の話題は避けるのが定石ではあるのだが、そんなことを忖度するだけの思慮を今の彼女に求めるのは、やや無理のある話であった。
「憲兵は簡単にいえば軍を対象とした警察組織だ。帝国の憲兵はそれに加えて国内に入り込んだ外国の脅威の調査と排除も兼任している」
「ふーん。よくわからんけど、あんたはいい奴なんだな」
「どうだろうな。君が思うほど綺麗な仕事ではないさ。いつでもどこでも不殺を貫けるほど、安穏な仕事でもない。やむを得ず人を殺めてしまったことも沢山ある。そういう意味では、私もこの街を支配する組織とで大きな違いはない」
「不殺ってお前、ありゃほとんど死んでるのと同義だぜ。お前が前にぶっ飛ばした強盗犯、未だに病院で管だらけになりながら点滴でメシ食ってるって話だぜ」
リルフィンゲルの価値観に水を差すかのように、デュールが割って入るが、それでもリルフィンゲルは決然と言い返す。
「それでも命あっての物種さ」
「まあ、考え方は人それぞれだからどうでもいいけどよ。結局のところ罪と罰なんて概念は、それを計る秩序って天秤があってこそのもんだ。そしてこの街において、その天秤を司るのは有無を言わさねえ力の法則だ」
「たしかに、国家の本質は突き詰めれば暴力の独占だからな。乱立した暴力と秩序の崩壊は同義語だ。ならば、私はその秩序の真空の中で、弱き者を守るためにこの力を振るう。それもまたお前の言う所の、この街を支配する力の法則だろう?」
「お前の場合、それを単独でやってのけちまうのがタチ悪いんだよ。ご先祖サマに神の血でも入ってんのか?」
ほとほと呆れ果てたかのようにデュールが嘆息する。リルフィンゲルの言う通り、力のあり方という点において彼女もまたこの街の不文律に則ったものである事は間違いない。その恩恵を受けるのが無法に生きる悪党なのか、無辜な市井の者たちなのかというかは、あくまで副次的な差異に過ぎない。
「まあ、お前に言われるまでもない。ここは酷い街だ。それは確かだ。だがどんな所にだって善い心というものはある。それがほんの気まぐれでもいい、どんなに小さな行いでもいい。この街ではその殆どは仇となって返ってくるのだろうし、それがこの街の常識だ」
理想と現実。清濁併せ吞む彼女の語り口は、傍らのアンの中に醸成されていた価値観を刺激した。
「だが、もしそんな中にあって善行が報われる瞬間に出会えれば、それは僅かながらも希望になる。希望があれば人は生きられる。絶望は死に至る病だ。私はこのどうしようもない日常の中の、ほんの僅かの希望の兆しであれれば、今はそれでいい」
「よくもまあそんなセリフを恥ずかしげもなく言えるもんだ」
そんなセリフを臆面もなく言えるのも、また力あってこそのものなのだが、そのあり方が眩しくないといえば嘘になる。
三厄災と恐れられる彼女の抱く信念のあり方は、きっとどこにあっても曲がる事はないのだろう。様々な思惑が入り乱れるこのメイザースという魔境において、彼女が魅せる強さのあり方は、とりわけアンという無垢な存在にとっては殊更眩しく見えたのだろう。普段の口の悪さもすっかり鳴りを潜めていた。
「かっこいいな、あんた」
「ははは、便利屋に嫌な事をされたらいつでも頼るといい。私が直々に灸を据えてやる」
「アンを誑かしてんじゃねえよ、アホが。お前に折檻されるくらいならこめかみにケツ穴こさえてくたばる方がマシってもんだ」
タチの悪い冗談を聞いたようにデュールは吐き捨ててアクセルを踏み込む。PHNのオフィスまでのごく短い時間が、とても長い人生の一編のように感じる車中のひと時であった。