Act.8:パラケルススの追憶
◆二十年前・レヴィ地区◆
ある錬金術師がいた。
妻と子の二人と共に、帝国の辺境にひっそりと。決して裕福ではないが、飢えに喘ぐこともない。静かで清い暮らしをしていた。
錬金術師には夢があった。
体の弱い妻が、病に怯えることなく暮らせるような薬を作るという夢。あらゆる病をたちどころに治癒させる万能の薬を。
錬金術師はひたすらに研究を続けた。
昼も夜もなく、日がな一日工房に籠り、幾千の蔵書と幾万の実験に自らの身命を賭して、ただひたむきに研究に没頭していた。
幾年の時が過ぎただろう。一人息子が初めて寝返りを打った日も、立ち上がって歩いた日も錬金術師は知らない。我が子が最初に名を呼んだのが母だったのか父だったのかすら、もはや記憶の中にはなかった。息子のあらゆる成長の兆しに、終ぞ錬金術師は立ち会うことは叶わず、膨大な蔵書と増え続ける白髪、家族との空白の時間だけが積み上がっていった。
息子が生まれてから十五年。妻が病死した。薬の完成を待つことなく、庭先で倒れていたのを近所の者が発見したらしい。
妻の葬儀を経ても、錬金術師は研究をやめなかった。むしろその夢の向ける先は、より多くの患者たちのためにと拡大していった。
幸いにして、研究の傍で発表した複数の論文の特許を高額で買ってくれるパトロンの存在が、崩れかけの彼の生活の基盤となっていた。
しかしそれは残された息子にとって、終わらない孤独の日々に他ならなかった。
妻に先立たれてからさらに三年が経ち、息子が家を出ていった。
行き先は知らない。それでも錬金術師は研究をやめなかった。
祈りは呪いに、矜持は執着に。失うものすら失った錬金術師に、もはや退路はなかった。
それでも錬金術師は、研究をやめなかった。
◆一週間前・ギャングストリート◆
「まあ、そういうわけで、流れに流れてこのメイザースにたどり着いたってわけさ」
マッケイの断片的な追想を、リルフィンゲルはただ静かに聴いていた。別段何か面白みがあったわけでもない。特別珍しくもない、ありふれて重い家庭崩壊の独白。幼き日のマッケイ少年がどのように孤独を背負ったのか、それ以上でも以下でもない話だった。
「親はまだ生きているのか?」
「どうだろう、出ていく時ですら顔は見なかったな。案外本を墓標にしてくたばってるのかもしれない」
「そうか。ここの暮らしは大変だろう」
「そうでもないさ。欲を出したら死ぬだけだけど、危ない橋を渡らずに無力なままでいれば、この街の連中は俺のことなんか眼中にも留めない。自然界にもいるだろ? ただじっとしている事に生存の全てを委ねて、食物連鎖の中で透明になるような種類のやつが。あれと同じようなもんだよ」
そう語るマッケイの言葉に、やはりリルフィンゲルは静かに耳を傾けている。当たり前と言えば当たり前の話だが、この街で暮らす人間の全てが、切った張ったの修羅場に身を投じているわけではない。マフィアたちの支配権の中で、己の分を弁えて慎ましく生きる。盗みも殺しもせず、そうして無害で居続ける分には、納税の必要がない分楽な街ではある。
無論、それは隕石が直撃する程ではないにせよ、それなりの確率で流れ弾が飛んでくる危険との同居である事を忘れてはならないが。
「父に会いたいとは思わないのか?」
「残念ながらそういう気持ちはもうないね。一緒に暮らしてる時ですら顔もあやふやだったし、感覚としては、同じ敷地に住んでいるやつれたおじさんでしかない。そんな人間にどう愛着を抱けばいい?」
「それはまた、寂しい話だな」
「そういうあんたはどうなのさ」
「私か? そうだな、私はそもそも生まれた時点で親がいなかった。帝国の施設で育ったから、その時の寮母が一応親と呼べる存在ではあるかもな。その人ももう死んでしまったが」
「そうなのか……でもあんたくらい強ければ、その人もそう心配することはないんだろうな」
「そうであって欲しいものだな」
ほんの少しだけ切なげな顔を見せるリルフィンゲルに、マッケイはかける言葉を見出せない。
というより、そもそもマッケイの言葉などなくても問題などないとさえ思えてしまう。
そんな彼女が、マッケイは少しだけ羨ましかった。
「でも、そんな俺にも誇りはある」
「ほう? それはどんな?」
「与えられた仕事を投げ出さないことだ。それがどんなに取るに足らないものでもな。だから俺はここで待つこともやめない。それが俺がこの街で通せる最低限の筋だからね」
まあ、本当は下手を打ってソンブラに殺されるのが嫌なだけというのもあるが。それでもそうしていることで、少なくともメイザースに流れ着いてからの二年は五体満足でやっていけているのだから、あながち間違った作法ではないのだろう──と、マッケイは考えていた。
それに対し、リルフィンゲルは一瞬だけ呆気にとられたかのように口を開け、そして今度は朗らかな笑みを以ってしてマッケイを讃えた。
「ははっ。お前、なかなか見どころのある男だな。さすがは忍耐を旨とする錬金術師の血筋とでもいうべきか。血は争えないとはよく言ったものだな」
「え? 今の話に俺の家系関係あるのか?」
「お前としては不本意かもしれんがな。努そのあり方を損なうなよ。お前のその誇りには、いずれダイヤモンドの輝きが宿る事になるからな」
「ちょっと、それってどういう──」
マッケイが追求しようとした時、それを遮るかのようにリルフィンゲルの懐で着信音が鳴った。リルフィンゲルはすかさず端末を開くと、一瞬その顔を曇らせてからマッケイの方を向いた。
「すまない、少し出ていいか?」
「え? ああ、どうぞ」
「すまないな」
マッケイの許可を得たリルフィンゲルは通話ボタンを押し、そのまま背を向けて応答した。
「私だ──なんだ、あんたか。──ああ、別にそれは構わないが──ああ──ああ、わかった。とにかくいつでも出られるようにしていればいいのだな? ────そうか、了承した。それなら何か分かったらまた。ああ、切るぞ」
そんな感じのやりとりを経て通話を切ると、リルフィンゲルはいまいち釈然としない雰囲気の面持ちでマッケイに向き直った。
「なにかトラブルでも?」
「さてな、詳しいことは教えられないが、もしかしたらこの後私は出動しなければならないかもしれない。その時は申し訳ないが、お前の護衛はそこで終わりという事になってしまう」
「そうなのか……。いやまあ、俺は別に構わないんだけど。今にしてみたってあんたに金を払っているわけではないから」
「すまないな。とはいえしばらくは待機とのことだ。まあ、いざという時はあちらに埋め合わせをさせるさ」
「はぁ……」
いまいち核心の掴めない物言いに、若干の困惑を見せるマッケイではあったが、とは言え彼のやる事が何か変わるという話でもない。
リルフィンゲルがそばにいようといなかろうと、預かった荷物を持って指定の場所で待つという任務には、それは何ら関わりのない事なのだから。