Act.6:笑撃の真相
◆クレイマンズハウス・裏口◆
ガス漏れ騒ぎでパニックになった会場から、続々とゲストが避難する一方で、何やら入り用とばかりにアンに手を引かれながら、デュールは施設の裏口にまで来ていた。
さては限界に達した尿意がついに決壊し、至急替えの下着が必要にでもなったのか。そんな無粋なことを考えながら、デュールは本日何本目かも分からないタバコに火を灯す。実際、一向にこちらに目を合わせようとしないアンの表情は、失禁直後もかくやとばかりに切迫したものであった。
何とも言えない沈黙の中、もじもじと身じろぐアンと、ジリジリと燃えるタバコの先端が、喧騒の裏で時間の経過だけを告げている。それに耐えかねたデュールが一際大きなため息をつくと、先端に溜まった灰が弾けて地に落ちた。
「なんだよ、用があってここまで連れてきたんだろ?」
沈黙を破ったデュールの低い声に、アンがすくみ上がる。日頃飛んで跳ねてばかりの彼女が、こうもしおらしくまごつく姿はデュールとて見たことない。そして、こと彼に限って、こういった「異変」とはすなわち、トラブルの符牒に他ならない。
そして、目下このクレイマンズハウスで進行しているトラブル。そんなものは一つしかありえなかった。
「お前、ドットの件に関してなんか知ってんのか?」
「うっ……」
直感的に導き出された確信に、アンの表情がますます翳る。もともと嘘が得意な性格ではない彼女が今の一言でここまであからさまな狼狽を見せるということは、つまり──*そういうことだ*。
デュールはアンの両肩を掴んで問い質す。
「ドットをやったのはお前か?」
「違う」
「奴を殺した犯人を見たのか?」
「見てない」
「ドットがやられる瞬間、お前はその場にいたのか?」
「……いなかった」
アンが一瞬間を置いた。これは思案ではない、韜晦だ。そこに何かあると確信したデュールが、更に踏み込んでいく。アンの小さな肩にかけられた指先にも力がこもる。
「お前の立ち回り次第では、こんなことにはならなかった。そう考えているのか?」
「…………」
「どうなんだ?」
デュールの問いが鋭くアンの心に滑り込む。それは頭ごなしの叱責ではなく、もっと切実な何かだった。それを悟った時、彼女は自分の心の中にある、氷のように閉ざされていた部分がゆっくりと溶けていくのを感じた。
「少なくともあと五分、アタシが便所を堪えてたら、少なくともドットは死ななかった……と思う」
「……そうか。なら質問はあとふたつだ。一つ、シンジケートの連中にパクられたあの変態野郎。奴をやったのはお前か?」
「うん……ドットが死んでて、それで瓶が失くなってることに気づいたから、真っ先にノウェムさんの瓶を探して……無我夢中になってたらドットの血溜まりで汚れてて、それで通りかかったアイツが銃を向けてきたんだ」
「…………」
断片的なアンの告解が、時間の裏で起きていた空白の謎の輪郭を象っていく。
そうか、そういうことか──たしかにこれは不運という他ない。思えばずっとその予兆はあった。開宴からずっと忙しなく動き回っていたアンは、ほんの五分トイレに行く時間もないまま、数時間にわたって会場に缶詰であった。結局オークションの終了までフロアに出ずっぱりだったアンが、フロアマネージャーにブツの運搬を指示されたのは、まさに天啓に等しいチャンスだったに違いない。
会場から保管室へと続くスタッフ用の廊下の途中には、確かにスタッフ用の化粧室がある。会場から保管室までの距離はたった数十メートル。既に限界に達していた膀胱事情を抱えていたアンが道中でトイレを見つけた時に何を思うか、もはや想像には難くなかった。
「最後の質問だ。奴にあの格好をさせたのは、お前なのか?」
「うん……意味不明な奴を一人置いておけば、あたしのミスも有耶無耶に出来ると思って。そうすればデュール、あんたにも累は及ばねえって思ったんだ」
アンのその言葉に、デュールは直ぐに反応をしなかった。何かを考えているのか、それとも状況を反芻しているのか、ともかくアンにとっては針の筵も同然の沈黙が訪れていた。冷静に考えれば、対策と呼ぶにはあまりにもお粗末な筋書きだ。遅かれ早かれ、あの男はどこかのタイミングで必ず口を割る。まだこの街に来て数ヶ月程度しか経っていないアンでは、到底想像もつかないような熾烈なる責め苦の果てに、あの可愛そうなバニー男は事の次第を詳らかにするに違いなかった。
「ぷ……」
「ぷ……?」
「ブハハハハハ。アン、お前ってやつは。マジで誰も思いつきやしねえって、そんな珍作戦」
これまでの真剣な眼差しが嘘であったかのように、目に涙を浮かべながらデュールが腹を捩らせた。そんな彼の姿に、他ならぬアンがもっとも混乱していた。
てっきりどやされるかと思った。拳骨の一発でもくれながら、あらん限りの罵詈雑言をぶつけられるか、それとも失望と諦観の眼差しで静かに睥睨されるか、そのどちらかだと、アンは信じて疑わなかった。
だが、デュールの反応はそのどれとも違う。まるでオークションの最中に堪えていた、不慣れなアンのバニー姿に対する笑いをここに来て全部開放するかのように、デュールは体をくの字に降りながら笑いまくっていた。
「アッハハハ……マジ、腹痛えって。ハハ、ハッハハハ……」
「……お、お前! いくらなんでも笑いすぎだろ!」
「いや、だってよお。あの馬鹿が着せられたバニー衣装、つまりお前のなんだろ? 一五五ちょいのタッパのお前の服を、あんなでけえ男が着たらよお、その、ブッ……色々パッツンパッツン……アッヒャヒャヒャ!」
もはや想像すれば想像するほど笑いが込み上げてくる。ドットには悪いが、シンジケートに釣れられた例の男の姿は、それだけ衝撃的──否、笑撃的なインパクトを誇っていた。はじめこそ状況の異様さに唖然とするばかりであったが、こうしてその裏にあった因果を紐解いた今、そこに残ったのは純度満点のシュールレアリスムだけだ。こんなの笑うなという方が無理がある。
だが、それはそれとしてである。それなりに真剣に悩んだ挙げ句、意を決してもっとも信頼する男に打ち明けたその見返りがこれでは、アンとしても得心しかねるものがあった。
「てめえデュール! いい加減にしやがれ」
なおも笑い続けるデュールに、ついに堪忍袋の緒が切れたアンは、身を捩るデュールに組み付いた。
「痛って! 何しやがる」
「いつまで笑ってんだ。あたしが馬鹿みてえじゃねえか」
「いや、馬鹿だろ。どう考えても」
「こいつ!」
恥じらいから転化した怒りのままに決まったアンのコブラツイストが、デュールの呼気を強引にねじ伏せる。そこでようやく落ち着きを取り戻したデュールは、深呼吸ひとつ冷静な眼差しでアンに向き直った。
「とはいえだ、状況はよりシビアになっちまったわけだが──。ここでひとつ、お前には朗報と言えなくもない仮説が一つある」
「朗報?」
「お前がとっちめたその男、多分ドットを殺してブツを奪った実行犯だ」
「は?」
突拍子のないデュールの断定が、まとまりかけていたアンの思考を再び掻き乱す。
しかし、先の彼女の打ち上げた話の中にあった一つの違和感を、デュールは的確に見抜いていた。
「会場裏から保管室までのエリアなんだが、あそこ金属類の持ち込みが厳しくチェックされんだよ」
「うん……? うん」
「それは警備スタッフも例外じゃない。ところが、お前と鉢合わせたその男は銃を持っていた。隠し持っていたのか通路を固めてた警備を買収したのか、手段は分からねえ。だがそいつは、少なくとも*バックヤードに銃を持ち込みてえ事情*を腹の中に抱えてたって事になる」
デュールの推理に呼応して、アンの記憶が当時の現場に立ち戻る。血に濡れながら狼狽するアンを目撃したあの男は、アンの異様さにばかり目がいき、側で倒れているドットについては言及どころか一瞥すらしていなかった。
まるで彼の死が、すでに確定済みの既成事実であったかのように。
「じゃあ、アタシはそうと知らず犯人を捕まえちまったってこと?」
「結果だけを見れば、な。究極的には奴が何者であるにせよ、奴が口を割っちまえばその時点でお前の不在が確定する。どの道野郎の口を封じる事に変わりはねえが、奴が俺の推理通り、ドット殺害の実行犯なのだとしなら、ただの一般人を締め上げて吐かせるよりも面倒な手順を、シンジケートの連中は講じなけりゃならねえ。──つまり」
もし男が実行犯であれば、おいそれと口を割るはずがない。一般人なら即根を上げるような拷問にかけられたとしても、そいつはある程度の時間、耐えることができる。
もっとも、冥府の使いもかくやと恐れられるノウェムの配下たちの容赦のなさからして、そう長い時間を耐えられるとも思えないが、少なくとも初めのうちは、連中も初めのうちはある程度手加減するはずだ。
したがって、バニー男がシンジケートの尋問に耐える時間は、デュールたちが男を始末するための猶予時間として機能する事になる。
惨劇の始まりを招いた空白の五分間。その現場にアンがいたという事実を、この世から完全に消す。
混迷極まるエリクサー騒動におけるデュール達の指針が、完全に固まった瞬間であった。