Act5:カオス・シンギュラリティ
◆15分前・クレイマンズハウス・メインホール◆
まんまと嵌められた。
閉会間もないオークションの熱気にさらされながら、悔恨に歯噛みするバルサモはひとり佇んでいた。
入札のパターンを操作し、こちらに意図を気づかせる思考の誘導。後から考えればあからさま過ぎるブラフではあるが、現にそれに引っかかってしまったバルサモのミスは、もうどうあっても取り返すことは出来ない。
ノウェムと言ったか。こんな大胆な勝負を、一切金を惜しむ素振りも見せずに決めきった胆力と狡猾さ。なるほどかの悪名高いシンジケートのトップに相応しい器の持ち主と言わざるを得ない。
バルサモにとって、言うまでもなく彼女の横入りは痛恨の極みであったが、それでも作戦の一プランが破綻したに過ぎない。オークションに参加し、正攻法でエリクサーを競り落とすのがプランAとするなら、実力行使をもって秘密裏に標的を強奪するのがプランB。特殊なマナ防壁によって無線も思考通信も使えない今、プランAの失敗と同時に日雇いの傭兵部隊のヒットマンが行動を開始しているはず。
なにやらノウェムと談笑していたらしいドットが、改めてスタッフエリアに戻っていくのを影から見ていたヒットマンが、滑り込むようにドットの後に続いて扉の向こうへ消えていった。
「しくじるなよ……」
バルサモの無言の圧が届いたかは分からない。しかしヒットマンにとって、ひと仕事終えて浮かれきった道化の背後を取る程度のことは、もはや誇るまでもなく容易な工程であった。
このまま気づかれないように距離を保ちながら、ドットが向かうはずの保管室まで尾行する。そうすれば後の事は容易い。奪った品を現地の運び屋に掴ませ、自分は何食わぬ顔で会場に戻ってバルサモに報告をする。無線が使えないのがやや難儀ではあるが、そもそも札束の殴り合い自体を目的としたオークションという性質上、会場内の警備は驚くほどザルだった。
「──おや?」
スタッフエリアの廊下を通って控室に向かう道中にある女子トイレの前。無造作に放置された運搬用ワゴンがドットの足を止め、それに合わせてヒットマンも物陰に隠れた。
「おいおい、誰だよ。こんなとこに品物放置しやがって、不用心にも程があるだろ……」
一人ぶつくさと文句を垂れながら、ドットがワゴンに寄る。そして次の瞬間に狼狽しながら後ずさるドットの姿を、ヒットマンの男はしかと眼に捉えていた。
「バカ野郎が……よりにもよってこいつを放置かよ」
狼狽するドットの背中越しにわずかに見えた瓶の形。それは紛れもなく先程のオークションに出品されていたエリクサーの瓶そのもの。この予想外の偶然に、ヒットマンの口角がにやりと吊り上がった。
ラッキーだ。ここであの道化から薬を奪い取れば、面倒な尾行なんてもうする必要はない──そう確信したヒットマンは、ぬらりとドットの背後の至近にまで迫り、手にしていた銃のバレルを握りしめ、一切の躊躇もなくドットの後頭部に銃把を叩きつけたのである。
「…………ぐぉ」
完全な無防備をさらしていたドットが、くぐもったうめき声と共に地面に崩れ落ちる。頭蓋が陥没するほどの勢いで殴りつけたので、この時点でドットの生命機能は深刻な異常を来していた。もはや意識の維持さえままならないドットに待ち受けていたのは、残り僅かな呼吸を断ち切るトドメの一撃。仰臥したドットの頚椎を砕く無慈悲なヒールスタンプであった。
「ふん、ちょろいもんだ」
ドットの死亡を確認したヒットマンは、ワゴンに載せられたエリクサーを掠め取り、ほとんどダッシュに近い速度の速歩きで施設裏の資材搬入口にまで向かう。
そこにはあらかじめ現地で雇っていた運び屋が待機しており、撹乱作戦が完了するまでの間、エリクサーを別の市内の場所に移動させるよう仕組んでいたのだ。
「おい」
運び屋の背中にヒットマンが声を掛けると、まるで冷水を浴びせられたような反応で運び屋が「ヒイッ」と身をすくめた。
「何ビビってんだ、お前」
あからさまにおどおどしている運び屋に一抹の不安を抱く。急ごしらえのプラン故、現地の運び屋をリサーチするための十分な時間を取れなかったのは正直痛手なのだが、この天下の悪人外で運び屋をやる人間なら、もう少しシャンとして欲しいのがヒットマンの本音であった。
とはいえ、今さら別の人間を手配する時間も無いのだが。
「こいつを持って事前に伝えた地点で待機しろ。こちらの用事が済んだら改めてお前と合流する」
「は……はい。た、待機でいいんですね」
「そうだ。ガキの使いよりも楽な仕事だ。いいか? 余計な気を起こして中身をくすねようとか、ケチなことは考えるんじゃねえぞ? そん時はお前の体をつま先から切り刻んでやる。それもハンマーでだ」
「無理です無理です。ぼ、僕にそんな度胸ありませんから!」
「いい子だ。わかったらさっさと行け」
最低限の脅しをかけて運び屋を見送り、ヒットマンはそのまま来た道を辿って会場へと戻っていく。後は適当に騒ぎを散らしながら、バルサモを連れて所定の地点で運び屋と合流。はっきり言って楽勝である。
しかしその帰り道、ヒットマンは異様な光景を目にすることになる。
先ほど自分が始末したドットの遺体をまさぐる白髪の女。バニーガールの格好をしていることから本日雇われたコンパニオンであることは間違いない。
その女が、両手を血に染めながら鬼気迫る顔で右往左往しているのだ。
そして次の瞬間、ヒットマンの動揺が伝わってしまったのか、前後不覚気味の女とバッチリ目が合ってしまったのだ。
「お前……ここで何してる?」
女のあまりの異様さが、ヒットマンの喉からあらん限りの潤いを奪い去っていく。
ここはメイザース。欲望と狂気の渦巻く退廃の都。死体でママゴトをするイカレ女がいても何ら不思議ではないと頭ではわかっていた。しかし、実際にそれを眼にするのとではまるで話が違うということを、この男は今になってやっと理解したのだ。
「いや、違うんだ……。アタシじゃない」
引きつった顔の女が一歩近づき、それに合わせて男は二歩後ずさる。
言葉を話してはいるが、会話が通じる相手とは到底思えなかった。
「寄るな……お前、それ以上足を動かすんじゃねえ」
故にヒットマンが示したのは、これ以上無いほどに明確な拒絶の態度と、無骨な銃口による威嚇であった。
銃爪に指をかけ、女が一歩でも動こうものなら、即座に撃つ。
しかし、その硬い決心を結ぶところまでが、彼の記憶の最後の一ページとなるのであった。
◆30分後・クレイマンズハウス・メインホール◆
会場が異様なざわつきを見せ始めると同時に、バルサモの脳裏に嫌な予感が過る。
オークションに参加し、正攻法でエリクサーを競り落とすという、最も波風の立たない手段が失敗に終わった今、彼の講じたのは刃傷沙汰も辞さない強奪。会場規定により無線も思考通信も絶たれているこの状況では、正確な指揮を発揮することは困難を極める。
そのため、あらかじめ雇っていた傭兵部隊のヒットマンをひとりスタッフとして潜り込ませ、競り落としプランが失敗すると同時に第二段階への移行をする形で取り決めをしていたのだが、予定時刻を過ぎてもヒットマンが合流しないのだ。
まさか──この期に及んで秘薬を持ち逃げたのではあるまいか。
可能性としては十分にありえる。所詮は金銭目当てのゴロツキ集団。バルサモの目的の品の持つ価値が自分たちのペイを上回ると知ったなら、依頼そっちのけにエリクサーを横取りする動機としては十分だ。
だからこそ、バルサモは事前に部隊全員の心臓に契約式の呪術を仕掛けていた。もし契約に反する行動を取った場合、心臓に施された術式が起動し、即座に心停止に至らしめるそれは、魔術師間同士における呪術契約の中でも一等苛烈な代物だ。
術式の発動条件はいくつかあるが、その中でも最も重要なのが、エリクサーとバルサモのいずれか片方のみがメイザースの街を離れること。オークションの開始タイミングで展示されたエリクサーはバルサモの術式によって紐づけされており、これによりどちらか片方が一定以上の距離を隔てると、契約対象たる傭兵部隊全員にペナルティが降りかかる。
つまり彼らは事実上、バルサモとエリクサーをセットで街の外に出さなければならず、ペナルティ回避のためには何があってもエリクサーの無事を確保しなければならない立場にあった。
部隊の誰も死んでいない以上、少なくともエリクサーはまだこの街の何処かにある。連中との契約もまだ生きている──だが。
バルサモの目に飛び込んできたのは、彼の想定を一笑に付すかのような驚愕の光景であった。
「あい……つ、一体何を巫山戯ているのだ!?」
見るとそこには、明らかにサイズの合っていないハイレグのコスチュームを身に纏った、変わり果てたヒットマンが連行されている光景があった。
一体何がどうなってこんな事態になったのか。この場面だけで全容を把握することはさしものバルサモでも不可能。しかし、この侮辱的なヒットマンの有り様を見るに、エリクサーが何者かに強奪された事だけは、もはや確定的だろう。
怒りが、沸騰した腹の底からグツグツと音を立てて湧き上がってくる。こんな街だ、絶対に安全と呼べる手段を期待することの愚かしさを理解していないわけではない。バルサモと同じようなことを考え、破格の値を付けられた品を狙う匹夫が現れても、何ら不思議ではなかった。
だが、誰だか知らないがそいつはこのバルサモを心底舐め腐っている。日雇いの部下に対する情は微塵もないが、こうもあからさまに喧嘩を売られて黙っていられるほど、バルサモの闘争心は枯れてはいなかった。
──実際には、ヒットマンは恙無くエリクサーを奪取し、現地の運び屋に引き渡したその後で、不運にも全く関係のない女に襲われたなど、今のバルサモではどう逆立ちしても思い至ることは出来ない。
無線も思考通信も使えず、口頭での伝令を頼りにせざるを得ないデメリットが、ここに来て致命的なボトルネックとなってバルサモの身に降り掛かったのだ。こうして見世物同然にKOされたヒットマンの屈辱的な有り様から、バルサモが全く見当違いな解釈を導き出してしまうのは、まったく不思議ではなかった。
そして、彼の怒りに匹敵するほどの激情に青筋を立てていたのが、この度のオークションでエリクサーを競り落とした夜の女王。スタシオン・アルク・ドレ最高経営責任者たるノウェムであった。
表情こそ艷麗な美貌をたたえてはいたが、彼女の全身から漂う不可視無臭の怒気が、あらゆる干渉を断絶する重力場を形成していた。
まるで深海の底、無限の水圧に晒された潜水艇のように会場の空気は重く沈み、ほんの僅かな刺激──たった一言でも口を開けば、それを引き金にして一気に爆縮に向かうのではないかと思えるほどに。
「舐めたことしてくれるわね……。そう、どこの誰の仕業なのか知らないけれど、そんなにあたしと戦争がしたいのね」
いまだかつて聞いたことのないような低い声が、ノウェムの口から這い出るように発せられる。それも無理からぬ。彼女からしてみれば、落札品が奪われただけでなく、シンジケートの大事な稼ぎ柱の一人を無惨にも殺されているのだ。その怒りと憎しみは、この天上天下において誰とも共有することの出来ない高みにまで、ノウェムを押し上げてしまっていた。
此処から先は戦争だ。どんな手を使ってでも、シンジケートに唾を吐いた仁義外れからは必ずケジメを取る。
さしあたってはまず、あのふざけた格好で伸びている間抜け面の男からだ。
「その男を拘束しなさい。それから捜索隊を編成し、逃げ果せたネズミ共を一匹残らずあたしの前に連れてくるのよ。現刻よりメイザースに布陣するシンジケート全構成員は、事態の収拾まで最大警戒態勢をもって事に当たりなさい」
有無を言わせないノウェムの指示とともに、会場に待機していた構成員たちが一挙に動き出し、分厚い雲のような沈黙が破られた。
部下への指示を終えたノウェムは、その歩みを迷うことなくバルサモの方へと向け、圧倒的な威圧感をもってその懐にまで潜り込んでいく。
「Mr.バルサモ。申し訳ないけれど、あなたをここから出すわけには行かなくなったわ」
「ほう、なぜ私だけ?」
ノウェムの圧に、バルサモも負けじと睨み返す。
「あなたはあの薬に随分と執着していた。こんな札束の散らし合うだけのお遊びに、あなただけが違う目的をもって参加していた。これだけでも動機としては十分なの」
「面白い推理をするお嬢さんだ。して、それだけで私が納得すると思っているのかね」
「あら、ごめんなさいね。初めに言っておくべきだったわ。あたしはあなたを説得したくてこんな話をしているわけじゃないの」
「ほう? 説得でなければなんだというのかね?」
「命令よ」
冷酷の度をより増していくノウェムの声が、氷獄の如き冷気をもってバルサモの心臓を撫でる。老獪なバルサモの強かさを、正面から凍りつかせるような圧倒的な威圧感。これが世界最悪の暗黒街を統べる二大巨頭の一角の放つオーラなのだとしたら、なるほどその器になんら異論を差し込む余地もない。
だが、バルサモもさる者。ただ黙って脅迫に屈するほど甘い男ではなかった。
ヒットマンが捕まった今、自身との関連が明るみになるのは時間の問題。その時の備えは、既にこの男は打っていた。
「──おい! 何だ?」
会場の何処かから、困惑の叫び声が響く。カランコロンと、どこからか転がされてきた何かの缶が、その次の瞬間には一斉に煙を吹き出していた。
「すまないがここは引かせてもらおう。この歳にもなると正座で放置されるだけでもしんどいのでね。それに私にはまだこの街でやらなければならないことがある」
会場全体を包むように立ち上る煙の中、バルサモは老獪な笑みを浮かべながら撤退宣言を言ってのけた。
「クッ──待ちなさい!」
唐突な奇襲。まさかここまで周到に準備をしていたとは思いもしなかったノウェムに、この状況を即座に打破できるだけの備えはなかった。眼前のバルサモはまるで溶け込むように煙の向こうへと姿を消し、空調が緊急排気を済ませた頃には、その姿はもうどこにも残っては居なかった。
「チッ……やってくれるわね」
だが、これではっきりした。少なくともあの老人は、ドット殺害とエリクサーの失逸に対して確実に関与している。
目的はエリクサーの奪取──? いや、それだけではないようにも思える。
なぜならあの時、バルサモは姿を消す直前にこう言っていた。
「まだこの街でやらなければならないことがある」と。
薬を手に入れることだけが目的ではない……?
それとも彼もまた何かしらのトラブルを抱え、街から出るわけには行かなくなった?
現場に放置されていたもう一人の男。明らかにサイズの合ってないバニーコスを着せられたパツンパツンの変態が、もしバルサモの関係者であれば、そいつもまた何者かに襲われ、エリクサーを更に横取りされたと見ることが出来る。
まあいい。もとよりノウェムは、エリクサーの価値になど微塵も興味はなかった。彼女を駆り立てるのは、そんな胡乱な品の真贋などではなく、もっとシンプルで違約しようのない絶対的な摂理に基づく価値観であった。
「この私に粉をかけておいて、五体満足で帰るどころか、悪戯計画の続行まで成せると思い上がってるワケ? 心底舐められたものね」
女帝の双肩が怒りに震える。青い瞳が絶対零度の冷気を帯び、口の端が狂気に釣り上がる。
愚か者め。このメイザースで火遊び気分でピクニックしに来た馬鹿どものうち、一体どれだけの人数がランチョンマットに尻を乗せる前に墓場へ直行したか。全身の神経を笹掻きに削りながら、じっくりと思い知らせてやらねばなるまい。