Act4:バタフライ・エフェクト
◆現在・PHN本社◆
「まさかあの女帝様がねえ」
ダンテの報告に一旦の区切りを見出したオクトラスは、深い嘆息とともに肩をすくめる。その一方で、中身が飲み干されたカップの底に残った紅茶の水滴が、どうにも浮かないダンテの顔を反射していた。
不老不死の妙薬、賢者の遺産、伝説のエリクサー。
公に口にしようものなら天下のうつけ呼ばわりも免れない代物に、二億という大金を積んだ女。犯罪シンジケート「スタシオン・アルク・ドレ」の首魁にしてナイトクラブ「ヴァルプルギス・ナハト」のオーナー、そして件のクレイマンズハウスのオークションショーにも出資しているメイザース屈指の超大物、ノウェム。
彼女にしてみれば、オークションの参戦はほんの気まぐれ。根っからのゴシップ趣味と散財を目的とした悪ふざけに過ぎなかったのだろうが、今回ばかりはからかう相手を間違えたと言わざるを得ない。
が、オクトラスもダンテも、一概に彼女の軽率を咎めようという気分にはなれなかった。
「いや、あんなの本気にする方が馬鹿でしょ。このメイザースでそんな薬が出回るなんて話を信じるとか、世間知らずにもほどがあるよ」
「ところが、それを本気で信じるに値する根拠を持ち合わせた人間が、不幸にもこの街に紛れ込んでしまった。Dr.バルサモ──本名はなんでしたっけ?」
「ロッソ・バルサモ。アルカディア帝国魔導化学研究所の元メンバーで、専門は魔導薬学。といっても生粋の研究者と言うよりは、特許ビジネスに傾注した知財ゴロって側面のほうが強いね。もっとも、不老不死の研究に関しては以上な執着を見せていて、特許ビジネスで築いた財産の殆どをその研究に注ぎ込んでたみたいだよ」
さすがはPHN随一の情報収集者といったところか。かのクレイマンズハウスに現れた謎の男の素性を浚う程度のことは朝飯前とでも言わんばかりに、ダンテはバルサモの詳細なプロフィールを上げていった。
「不老不死研究のための特許ビジネス……ですか。知財ゴロと蔑まれてまで彼が追求し続けた途方もない夢。彼があのオークションに出されたエリクサーに執着した事実が、荒唐無稽な秘薬の信憑性を高めていたと言えなくもないですよ」
「まあ、そこだけ切り取ればね。問題はそんな男が血眼になって探していた秘薬が、どうしてドットのオークションに出品されたのかって話だよ。その部分だけは、どういうわけか手がかりがすっぽり抜けていた。出品者が誰なのかも結局分からず終いだからね」
少ない情報からここまで調べ上げた自らの手腕を、しかしてダンテは誇る気にはなれない。実際、バルサモの素性そのものを突き止めること自体はそう難しい話ではなかった。帝国魔導化学研究所は別段秘匿された組織でもなんでもなく、ただの国営研究機関の一つでしか無い。適当にあたりを付けたところから一つずつ紐解いていけば、いずれたどり着けることは初めから分かりきっていた。
ダンテにとって、そんな出来レース同然の真実にはなんの価値もない。
「とはいえ、ノウェムさんの火遊びが、結果的にかの御仁の闘志に完全に火をつけてしまった。というわけですね」
「そうだね、バルサモはあくまでもエリクサーを諦めなかった。オークションでノウェムに競り負けたのも、単に正攻法で手に入れるプランが崩れただけ。正攻法がダメなら別の手段で──故に奴は次手を講じた。まさかそれが地獄への第一歩になるなんて考えもせずにね」
ダンテの語気に僅かな緊張が滲む。それが一体何を意味するのかを知ることが、上司たるオクトラスの務め。オクトラスはあくまでも柔和な表情を崩さないままに、空いたカップに新たな紅茶を注いで続きを促した。
「それではダンテ、報告を続けてください」
◆一週間前・クレイマンズハウス◆
まずい……これは実にまずいことになった。
何もかもが遅きに失した現場を前に、アンはただ滝のような冷や汗と共に立ち尽くすしかなかった。
「え……これアタシが悪いんか? ほんのちょっと──ほんのちょっと目離してただけだぞ? こんなことってアリなのか?」
うわ言のような自問に、当然ながら答えは帰ってこない。というより、もはや問の是非に微塵の意味もなかった。全てはもう「起きてしまっている」。その事実の前に、自身の行動の是非を問うことの無意味さを理解できないほど、アンは馬鹿ではなかった。
眼の前に転がるドット・クレイマンの撲殺死体。運搬ワゴンから綺麗さっぱり消えてしまったエリクサーの瓶。そんな異常事態が、自分の目と鼻の先で発生してしまっていた。
「瓶! まずは瓶だ!」
いや、どう考えても救急が先だ。しかしそんな常識的な倫理の持ち合わせは残念ながらアンにはなかった。
すでにドットが負っていた傷は絶命を確信させるには十分な深さに達していた。陥没した頭蓋骨と出血量、血の流れの止まった頭部の傷口は、脳挫傷による生命活動の停止と心拍の停止を同時に物語っていた。アンがドットを発見した時点で、彼はもう物言わぬ死体と化していたのだ。そんなものに今さら拘泥する理由は、残念ながら彼女には微塵も存在していなかった。
なぜなら、現場から失くなったエリクサーの瓶を競り落としたのは、他でもないあのノウェムだ。それが一体どれだけの価値を持つのかはアンには分からなかったが、少なくとも彼女が所属する便利屋の得意先で、かつこのメイザースで絶大な影響力を持つ女帝の持ち物を、アン自らの失態によって紛失してしまった。それが一体何を意味するのか……もはや想像するだに恐ろしい。
「殺される……マジでこれシャレになってねえって」
まずはデュールからこってり絞られるだろう。日頃から何かと口うるさい男だが、とりわけ上下関係に関しては一切容赦がない。初めてシンジケートのクラブへ挨拶回りに駆り出された際、無謀にもアンがノウェムを「ババア」呼ばわりした次の瞬間には、デュール渾身の鉄拳が飛んできたものだ。
決して権力にへりくだっている訳では無いが、両者が対等でいるために払うべき敬意は決して疎かにしない。それがデュールが言うところの仁義であり、わずかながらもその意義について、アンも最近ようやく理解し始めたところであった。
して、その流儀に照らし合わせた上で今の現状を見てみよう。
見た。五秒とかからず理解した。どう考えてもこれは仁義外れの大ポカでしか無い。
タコ殴りでは済まされないレベルの大失態。そして事はそれだけでは当然収まらない。デュールの大目玉の先に待ち受けているのは、怒り心頭に発したノウェムからの容赦ない粛清だ。その場合、アンだけでなく使用者責任を問われたデュールもろともメイザース湾で仲良く魚の餌としてその生涯を終えることになる。
だからアンは探した。エリクサーの瓶を。運搬用ワゴンをひっくり返し、ドットの死体をひっくり返し、血溜まりに手を突っ込んでまさぐりながら、廊下の端から端まで眼を皿にして。
だが、どれだけ探してもエリクサーのエの字もそこにはなかった。奪われた──奪われたのだ。どこの誰かも知らない何者かに。
どうしてこんな事になってしまったのか……。理由はともかく原因だけははっきりとしていた。それはほんの些細で、実にありふれた、誰にでも犯しうる小さなミスに過ぎなかった。
.◆十五分前・クレイマンズハウス、スタッフエリア◆
大盛況のままに終わったクレイマンズハウスのオークション。全ての演目を果たし終えたドットは、かつて無いほどに満ち足りた感覚に酔いしれていた。
過去最高額の二億ミスルの落札。オーナー直々の参戦と謎の新参者との一騎打ち。間違いなくここ数年で最も血が滾ったベストバウトに違いなかった。
それを証すかのように、オークションが終わった後のパーティー席の様子は、興奮冷めやらぬ熱気と充足感に湧いていた。
オークションで出品物を捌く瞬間が自身にとって最高の瞬間であることは揺るぎないが、ゲストたちの満足げな表情を一望できるこのアフタータイムが、彼の仕事の中で二番目に好きな光景であった。
「今夜もお疲れ様、ドット」
そんなドットに声を掛ける者があった。振り返った先にいたのは、今宵のショーの熱狂を最大まで高めた立役者。クレイマンズハウスのオーナーたるノウェムであった。
「これはこれはノウェム様。ご機嫌麗しゅう」
道化じみた所作のボウアンドスクレープにて首を垂れながら、ドットは最大限の敬意を持ってノウェムを迎えた。彼女に見出されて早数年、泥棒市のケチな転売屋からシンジケートの一大興行の一角を預かるに至ったドットがノウェムに対して抱く敬意と忠誠心は、並の構成員のそれとは次元を異にしていた。その心酔ぶりは、もはや耽溺に等しい領域にまで達していると言ってもいい。
「突然ごめんなさいね。邪魔にならなかったかしら」
「滅相もございません。今宵このクレイマンズハウスの熱狂を作り上げたのは、紛れもなくノウェム様、貴方でございます。老獪な挑戦者を型に嵌めた手練手管は見事と言う他ありません。讃えこそすれ、邪険にする理由など何処にもございません」
「相変わらず褒めるのが上手ね。それが口八丁じゃないところがあなたの最大の魅力。ふざけたボキャブラリーの中にある飾りのない本心が、あなたを最高のアジテーターに仕立て上げたのよ。その事に誇りを持ちなさい、ザ・ピエロ」
最大級の賛辞と取って何ら差し支えないノウェムの言葉に、ドットは腹の底からの感動に打ち震えていた。常に深淵の世界を往来する彼女がどこまで本気で言っていたのか、それこそドットには計り知れない。しかし、仮に彼女の言葉が嘘八百であったとしても、それが今後のドットに懸けられた期待故であることだけは揺るがない。本心からの激励であれ、舌先三寸の人心掌握術であれ、自身の価値が彼女の口によって証明されたそれ自体が、ドットにとっては重要だった。
まさに人生の絶頂とも言える瞬間に、ドットは今立っていた。なればこそ、ここは涙ではなく、真の道化としての在り方をもって、彼女の賛辞に報いるべきだろう。
ドットは不敵に笑う。あくまでも道化として、胡散臭い所作にて再び頭を垂れた。
「感謝の極み」
「それじゃ、後のことはよろしくね」
「仰せのままに、我が主君」
踵を返すノウェムを見送り、胸の奥に確かな充足感を抱きながら、ドットはステージ袖を抜けてスタッフエリアへと向かう。ショーは終わったが、彼の仕事はまだ終わってはいない。この後は今日のオークションで競り落とされた出品物のチェックと決済の作業が待っている。それが終わって、ようやく今夜のドットの仕事は幕を閉じるのだ。
正直いつも以上の盛り上がりで疲労もかなり溜まっていたが、先のノウェムの激励が効いている今、もう一幕ショーをぶち上げても問題ないくらいには、ドットは気合に満ちていた。残りの事務作業を片付ける程度、もはや労働のうちには入らない。
「──おや?」
スタッフエリアの廊下を通って控室に向かう道中にある女子トイレの前。無造作に放置された運搬用ワゴンがドットの視界に止まる。おそらくこの先にある保管室に運ばれるものであることは明白ではあるのだが──果たして。
「おいおい、誰だよ。こんなとこに品物放置しやがって、不用心にも程があるだろ……」
不真面目なスタッフにぶつくさと文句を垂れながら、ドットがワゴンに寄る。そして次の瞬間、彼の背中に強烈な寒気が襲いかかった。
「バカ野郎が……よりにもよってこいつを放置かよ」
寒気の正体。それは先程のラストショーでノウェムが競り落としたエリクサーであった。なんとこのワゴンの運搬係は、今宵のオークションで最高落札額を叩き出した出品物を放置してどこかに行ってしまっているのだ。根っからのノウェムの信奉者であるところのドットにとって、それは単なる職務怠慢以上の侮辱に他ならなかった。
もしこれが盗まれでもしたら……その先をドットは想像することは出来なかった。想像したくもなかった。今はともかく、ここにエリクサーが無事でいてくれたことだけが何よりの救いだ。
もはや誰かに運搬を任せること自体をリスクと判断したドットは、サボり魔を見つけて締め上げることよりも先に、まずは自らの手で確実にエリクサーを保管室に収める。それが一番確実で、一番安心できる対応であった。
あるいはその正しい判断こそが、彼の運命を決定的に変えてしまう。
「…………ぐぉ」
最初に襲いかかったのは、視界が反転するかのような強烈な目眩。痛みよりも尚激しい衝撃が頭全体を覆い、周囲の環境音を飲み込む耳鳴りが感覚の全てとなった。
この時点で、ドットはもう何も考えられなかった。腹の底から湧き上がるような吐き気も、目の奥をかき乱すような痛みも、確かに自身の体感として知覚しているのに理解が及ばない。まるで自分の中で別の誰かが死んでいくような乖離感の中で、ドットは地に仰臥することにも気づかないまま、意識の輪郭を手放していった。
──ああ、眠いな。
──まだ事務作業が残っているのに。そうだ、あのエリクサーを保管室に運ばなければ。
──まったく運搬係は何をやってるのやら。この薬はノウェム様の大切な──
ドットの意識は、そこで唐突に光を落とした。二度目の衝撃に痛みはなかった。
そして二度と、彼が闇から戻ってくることはなかった。
◆十五分後・クレイマンズハウス、スタッフエリア◆
無惨に撲殺されたドットの死体を前に、アンはただただ途方に暮れていた。
絵に書いたような強盗殺人。しかも犯人が持ち去った品物は、この世のあらん限りの災いを詰め込んだ伝説の箱より、なお剣呑な災厄を呼び込みかねない代物だ。
無論、その破滅を運んでくるのはこのメイザースで最も恐れられる冥界の女帝。この先に待ち受けている結末に直面した未来の自分が、無言のうちに語っている。もし神が終焉を告げるなら、きっと金管七重奏を伴って降り立つだろう、と。
ほんの五分。ほんの五分だ。いやむしろそれよりも短い可能性だってある。ともかく彼女は、オークションの間ずっと我慢していた尿意の限界を、ショーが終わって客足が掃け始め、スタッフルームに引っ込めるこの時間に開放することを待ち続けていた。
正直なところ、こんな運搬作業なんて他の誰に任せても変わりはしない。しかし間が悪いことに、たまたま近くにいた現場マネージャーに白羽の矢を立てられ、他に代わる者もいなかったがために、アンはこの限界ギリギリの瀬戸際で余計なタスクを抱える羽目になったのだ。
しかし幸か不幸か。舞台裏から保管室までの専用通路の道中には、スタッフ専用の化粧室の前を横切る作りになっていた。
最短でトイレに行くなら、今この瞬間以外にはありえない。もうあと一歩の浪費もままならないほどに我慢していたアンは、化粧室前にワゴンを放置してほぼ一足で個室に駆け込んだのだ。
「ああ~。なんとか間に合ったぜ」
張り詰めていた下腹部から抜けていく緊張感と開放感に身を委ねながら、アホとケツを丸出しにした呆け面でアンは一息つく。際どいバニーコスとも慣れないピンヒールともようやくおさらばだ。もう金輪際コンパニオンなんかやってたまるものかと、決意も露わに外に出てみたらこの有り様だ。
たった五分、されど五分。この短い油断の果に、アンはこの世の希望から最も遠い深淵の縁へと立たされることになったのだ。
「ヤバいヤバいヤバいヤバい──マジでこれどうすんだよ」
一生分の「ヤバい」を心の中で唱えながら、アンは必死になって脳を回しまくった。
まず、まずだ。このドットの死体はどうしようもない。死んだ。こいつはもう死んだ。かわいそうだがアンに出来ることは何も無い、諦めよう。
次にアンが考えたのは、この事を──具体的には運搬係がアンであることを知る人物がどれだけいるのかだ。
アンに直接運搬を指示したのは現場マネージャーだが、あれはとりあえず手近な人間に適当に指示を出したというニュアンスのほうが近い。うまくシラを切れば、もしかしたら責任の所在を有耶無耶に出来るかも知れない。
頭の悪いアンに出来る「対策」は、せいぜいこの程度であった。はたから見ればあまりにも杜撰であまりにも稚拙な穴だらけの手段だが、これが彼女にとっての精一杯だった。
決まった以上、後は実行あるのみ。アンは死体もワゴンもそのままに、何食わぬ顔で控室に戻ろうと踵を返した──まさにその時であった。
動揺のあまり周囲に気を配る余裕を喪失していたアンは、自身に近づく人の気配に全く気づいていなかった。そして彼女は平静を装う前の動揺丸出しの顔のまま振り返った先で、すぐ背後まで迫っていた男とバッチリ目があってしまったのである。
「お前……ここで何してる?」
男もまた動揺の眼差しで声を発し、二人の時間が停止する。男の動揺はアンに輪をかけて壮絶だったに違いない。なぜなら彼の目に写ったのはただのコンパニオンの女ではない。両手を血で真っ赤に染めた、どう考えても異常としかいえない姿と形相でそこに立っていたのだから。
「いや、違うんだ……。アタシじゃない」
止まりかかった思考を必死に回しながら、アンが弁明のために一歩足を踏み出し、それに合わせて男が二歩後ずさる。
まさか彼女が紛失したエリクサーを探すため、自身が血に汚れるのも厭わずに現場を物色していたなどとは思うまい。いま彼の眼に映るアンの姿は、死体を弄ぶ狂人のそれと解釈するのになんら支障のないものであった。
「寄るな……お前、それ以上足を動かすんじゃねえ」
男が示したのは、これ以上無いほどに明確な拒絶の態度と、無骨な銃口による威嚇であった。
もはや対話の余地はない。こうして相手が光り物を出してしまった以上、アンとしても黙ってはいられなかった。そして不幸なことに、たとえ至近距離で銃を構えられたとしても、銃爪にかけられた指が絞りきられるよりも早く敵を制圧する反射神経と、それを可能にする体をアンは持っていた。
全身が床に叩きつけられる鈍い音が通路を伝ってこだまする。受け身もままならないほどの速度で制圧された男は叫び声一つなく意識を手放し、渋面を浮かべるアンだけがひとりそこに立っていた。
まさに電光石火の制圧劇。きっと男は何が起きたのかも理解する間もないまま、目が覚めたときには知らない天井を拝むことになるだろう。
「クッソ。面倒こさえやがって」
流石に殺しはしなかったが、これで事態をごまかすのが一気に難しくなった。というより、初めから隠し立てできることとは思ってはいない。この限られた状況の中でアンが一貫して考えていたことは、以下にして自身への追求を躱すかという一点のみであり、実際それは、ある側面では理にかなった思考とも言えた。
だが、こうして目撃者が出てしまった今、ただ白を切るだけではどうしようもない。いっそのこと殺してしまう選択肢もあったが、状況が確定しないままに新たな死体をこさえるのは得策とは言えなかった。
ただでさえ訳がわからない状況にこれ以上余計な問題を突っ込んだら、いよいよアンの手には負えなくなる。
……いや。
「あ、そっか」
アンの脳裏に何かがよぎる。
あるいはとっくに馬鹿になっていただけなのかも知れないが、ともかくここに来て、アンは発想の転換点に至ったのだ。
「もっと訳わかんなくすりゃいいんだ」
唐突に閃いたアンは、さながら天啓を得たかのような顔で控室へと走る。一見それはただの逃亡にも思えたが、しかし彼女は程なくして現場へと戻ってきていた。
先ほどと違うのは、アンはバニーコスを脱いで私服に着替え直しており、その手には先程まで自分が来ていたコスチュームが携えられていることくらいだ。
何を考えているのやら、アンは今しがた気絶させた男を抱え上げ、そのまま女子トイレの個室へと連れ込むと、いきなり服を脱がせ始めたのである。
「悪いなオッサン。こっちも生きるか死ぬかなんだ」
──もっと訳のわからない状況を作る。そこに一縷の光明を見出した彼女がとった奇策。
それはこの男にバニーコスを着せて現場に放置するという、斜め上にもほどがある奇行であった。