Prologue
──銃声。
白衣の男が、少女の手を引いて駆ける。
鬱蒼とした闇夜に雨が降っていた。
雨粒が跳ね返って漂うペトリコールに混じり、鉄錆のような血の匂いと、灼けた銃創の焦げた匂いが、赤黒く滲む白衣からねっとりと立ち昇る。
握りしめられた手から伝わる切実な祈りが、振り切られまいと少女の足を走らせる。
雨音に交じって聞こえてくるのは、いくつもの獰猛な足音と、「逃がすな」「必ず捕まえろ」という男たちの叫び声。その足音は疾く、手つなぎでの逃亡がそう長くはもたないことを言外に物語っていた。
それでも、男は痛む傷口に顔を歪めながらも「止まるな! とにかく走れ」と声を荒げる。少女としては、本当はもっと速く走ることもできた。
しかし彼女自身にそうするだけの理由がなかったので、ただ言われるがまま、手を引かれるがまま、雨風にたなびく血の滲んだ白衣の後を追っていたのだ。
思えば、もしかしたらあれは彼女にではなく自分自身に向けて発していた言葉だったのではないか。男は見るからに貧弱で、こんな土砂降りの中を走り回れるほどに機敏なわけでもなさそうだ。
ましてや彼はその痩身に銃弾を撃ち込まれ、その傷を庇う余裕もなく血を失うがまま。にも拘らず、男は足を止めない。その必死さと切実さが何を意味するのかを少女はまだ理解できていないが、それに抗うことを彼女の本能が許さなかった。
しかしそれは、彼らが無事に逃げ果せる結末をなんら保証するものではなかった。
追手の怒号と足音は近づくばかりで、もう間もなく、彼女たちは追いつかれる。現実とは常に理想の敵で、容赦なく彼女たちを責め立てる。
それを証すかのように、一発の銃弾が男の大腿部を掠めた。肉が弾け、血の匂いが一層濃くなると、男の意思とは無関係にその体は地面に転げだし、それに引っ張られた少女もまた、泥まみれの大地に額づくことになった。
倒れ伏した男は、すでに立ち上がる力を失っていた。重傷を負いながらもこれだけの距離を走れていたのは、ひとえに男の気力が、脚の回転を止めるまいと動かし続けていたからに過ぎない。
一度止まってしまった推進力に再び点火するだけの体力は、もう彼には残されていなかった。
しかし、男は倒れ伏したまま、泥濘るんだ地面を這ってでも距離を稼ごうと足掻き、その目に抱いた逃亡の意思は依然変わらぬ火を灯し続けている。
「どうして……?」
少女は純粋な疑問のまま男に問う。男は彼女の他人事のような問いに、少しだけ困ったような顔をした。
今は少しでも追手を撒かなければいけないのに、こんな雑談に興じている暇などないのに。しかしそうは言っても、もはや立ち上がることさえ叶わぬ身。このままでは天地がひっくり返っても彼女を逃がすことなど出来はしない。
そういえば……。どうして僕たちは逃げているのだろう。
血を失いすぎた男の意識がにわかに遠のく。思考と意思が溶け出し、目的と動機が曖昧になっていく。
研究職の自分にこんな激しい運動は向いていない。女の子を施設から連れ出して、雨の中を走り回るような柄でもない。それが銃を持った警備との追いかけっこともなればなおさらだ。
どうして自分は、彼女を連れ出すのだろう。雨音とともに流れ、薄れていく意識の中で、男は返す言葉を探し続けるが、突如としてその思案は中断され、気がつけば男は少女の体を抱きかかえながら道の向こうへと飛び出していた。
そこから刹那に遅れて、彼らがいた地面が銃弾によって弾け飛ぶ。
不運なことに、二人が飛び出した道のはずれは急勾配の斜面になっており、二人は泥に塗れながら落石のように転げ落ちていき、その麓で待ち構えていたのは轟音を上げながら流れていく真っ黒な急流だ。
重傷を負い、さらに滑落による負傷も重なった男の意識は、もはや風前の灯火。そんな中にあって、男は震える体を起こしながら、自分が着ていた白衣を少女に被せた。
「ごめんな……まともに服も用意してあげられなくて。今はこれが精いっぱいだ」
もはやぼろ布も同然の白衣を、少女は申し訳程度に羽織る。その時初めて、彼女は自分が一糸纏わぬ裸のまま、こんなところまで逃げてきたことを思い出したが、それよりも気がかりだったのは、これから自分がどうすればいいのかというぼんやりとした不安の方だ。
それに、男はさっきの自分の質問にも答えていない。
「ねえ、教えて?」
再度少女は問いを投げる。しかし男の表情はすでにうつろで、血と泥の匂いに交じって死の匂いも漂ってきていた。
ああ、この人はじきに死ぬのだ。自分の問いには答えてくれないまま、こんな襤褸切れだけを寄越して死んでしまうのだ。いったいこの時間は何だったのだろう。この人は一体何のために、その命を投げ出したのだろう。自分には最初から、どこにも行くところなんてないというのに。
ほら、束の間遠のいていた足音が坂を下って追いついてくる。自分は捕らえられ、男はこの闇の中でゴミのように放置されるのだ。ならせめて、質問には答えてほしい。
この時間に、一体何の意味があったのかを。
それを察してか否か、男は少女の目をまっすぐと見据えながら、血反吐混じりにこう言った。
「生きるんだ」
その声はひどくか細く、ややもすればこの雨と川の音に掻き消えてしまうほどに弱弱しかったが、男は確かにそう言うと、今度こそ最後の力を振り絞って、彼女の体を闇と泥が入り混じる濁流の中へと突き飛ばした。
「生きろ……アン。生きろ……そして君が、必ず世界を──」
荒れ狂う奔流の中で、最後に聞こえたのはそんな言葉だった。しかしその言葉を遮るかのように銃声が響き、金輪際男の声は聞こえなくなった。
骨の芯まで冷えるような水温が、裸の肌の肌理の一片にまで染み渡って、少女の体力を秒ごとに奪っていく。そして頭蓋を割るような衝撃が襲い掛かってきたのを最後に、少女はその意識を打ち付けるような水の中へと手放していった。
一か八かの賭けで少女を川へと突き落とした男の意識は、それを司る脳を収めた頭部ごと吹き飛ばされていた。彼を撃った追手の兵士は、面倒を起こした男に対して心底憎しみを込めながら、その骸を蹴り上げた。
「この裏切り者。地獄で焼かれるがいい」
おまけとばかりに唾を吐きかけた兵士に遅れてやってきたもう一人が、少女が流されていった暗黒の水面の向こうへと視線をやる。
「隊長、追いますか?」
「いや、この濁流では無理だ。暗くて岸との境目すら分からん。夜が明けてから下流に捜索隊を出すしかない」
隊長と呼ばれた兵士は臍を噛み潰すが如き形相で答える。
「うまく岸に打ちあがってればいいんですけどね。死んでなけりゃですが」
「アレはこの程度で死ねるように出来ていない。問題はどこにも打ち上がることなく下流を流れ切っちまう場合だ」
「海に流されて捜索が難しくなるって話ですか?」
どうにも呑み込みが悪い部下に対し、隊長の男は忌々《いまいま》し気に闇夜を睨みつけた。
「お前、地図は頭に入ってないのか?」
「ええ、すみません。配属されたばかりでまだ覚えきってないんですよ」
なるほど、それは仕方ないと片付けるにはやや問題のある発言ではあったが、それを咎めるだけの余裕は今の彼にはなかった。
「この川が流れつく先は海じゃない。今回の場合その方がまずいんだ。なんせこの川を下った先にあるのは、メイザースなんだからな」
「メイザース……?」
「お前……メイザースも知らんのか?」
部下の返答に、今度こそ呆れたとばかりに隊長はかぶりを振る。新兵の無知ぶりにはほとほと困ったものだが、そう思う一方でこの世には知らずに済むならそれに越したこともないという気持ちもあったのも事実。故に隊長は、頭ごなしに新兵の無知を責める気にはなれなかった。
「栄華を極める我らがアルカディア帝国の、その最果てに佇む街がメイザースだ。この世のあらん限りの腐敗と悪徳を詰め込んだ、世界最悪の無法地帯。人はその地をこう呼ぶ──」
畏怖とも嫌悪ともいえぬ沈黙を挟んだ後、隊長はまるで吐き捨てるようにしてこう言った。
──『神に見捨てられた地』と。