Act1:女帝の来訪
─DAY.3─
雨季の前の暑い夏の、黄昏に暮れる暗黒街。一人の女が、屋根を借りているモーテルの門をふらりと出て、思い惑うかのようにのろのろと橋の方へと歩いていた。
蒸した温室のような熱気が、潮風に乗ってジワリと纏わりつき、海鳥の鳴く声さえもが胸の内をささくれ立たせる。当て所ない苛つきと焦燥感が喉から潤いを奪い去り、もはや何度目なのかも分からない電話先の不在信号が、無情にも鼓膜を揺らし続けていた。
寄る辺も縁も絶え果てて、ひたすらの孤独が西日のように心に照り付ける。もはや取り返しのつかない過ちに苛まれながら、女はただ橋の方へと歩き続けた。その道程はまるで、墓標を背負いながら自らが入る墓穴を目指すかのような、一片の希望もない旅路だ。
一歩踏み占めるごとに後悔が押し寄せて、涙が滂沱と溢れ出てくる。しかしこの局面で、彼女に真に懺悔の心があったのなら、あるいは彼女に待ち受けていた結末はもっと違っていたのかもしれない。彼女にとっての最大の瑕疵は、そう言った後悔のすべてを、次の拍子には他者への怒りに転嫁してしまう無責任さだった。
「あいつのせいだ……あいつの」
そう、全部──全部あいつのせいなのだ。あいつが、あの男が、シャムロック・ザイドリッツが、あの時余計な真似をしなければこうはならなかった。
殺してやる──殺してやる──殺してやる──
「殺してやるッ! 使いっ走りのクソデュールが!」
湿った空の彼方に、女の魂を切るような叫びがこだますら残さず消えていく。
しかしそこにただ一人、その言葉を聞き届ける影があった。
「おいおい、そいつはテメエの逆恨みってもんだろ。ええ?」
女が振り向いたその先。陽炎揺らめく橋の向こうから、真っ黒なコート姿が死神もかくやとにじり寄る。コツリ、コツリと。血溜りと潮の匂いを纏わせながら、男は迷うことなくその銃把に手をかける。
その姿はまるで、死と断罪を司る地獄の判事のようだった。
◇
─DAY.1─
これはまた、ずいぶんと難儀な来客があったものだ。
廃ビル同然の寂れたテナントの一室に設けられた応接室も、居座る人間によっては、一挙に華やかな雰囲気を醸し出すという事実は確かに意外であったが、それでもその人物が、このメイザースにおいて知る人ぞ知る大物とあっては、迎えたこちら側が逆に無礼であるかのような錯覚を覚える。
机に置かれたヴァルプルギス・ナハトのオーナーの名刺は冗談のつもりなのか、もはや互いに自己紹介をするまでもない顔見知りが、妖艶な笑みをたたえてソファに腰かけていた。
「ええっと、なんかの余興か? 姐さん」
デュールが言葉に窮するのも無理はない。護衛を引き連れ、アポなしでいきなり事務所に押しかけてきたのはメイザース二大巨頭が一翼「スタシオン・アルク・ドレ」の女帝、ノウェムだったのだから。
「あのね、一応ショークラブのオーナーよ、あたし。エンタメに関してはそれなりの心得はあるつもりなんだけど」
「面白味のねえ家で悪かったな」
開口一番悪口かよ、というセリフはまでは言い切らない。それなりに砕けた間柄とはいえ、あんまり調子に乗って不興を買おうものなら、早晩そこらの水路に浮かぶのがオチだ。出しかけた悪態を飲み込んだところで、別に腹を壊すわけでもあるまい。
とはいえだ、こんな異質な来訪ともなれば、隠しきれない怪訝のまなざしで遇するというのはむしろ自然の反応だろう。シンジケートといえばそれなりの得意先ではあるが、いつもなら大体クラブに呼び出されるか、代理人を寄越してくるかのどちらかだ。なのに今日は一体なんだ? どういう風の吹き回しで、こんな吹き溜まりまで女帝様がご下向召されるというのだろうか。
絶対にろくな話ではない。だから今のうちからそれらしい断り文句を二百ほど用意しておこうと、この時点でデュールは決意していた。
「改めてだけど、こないだは知恵を貸してくれてありがとうね。これだけはどうしても直接言っておきたくて」
そう言いながら、ノウェムは控えさせていた護衛に下知を送ると、すかさず護衛が小脇に抱えていた木箱を机に置いて差し出した。
「これは?」
「お礼よ。後こっちはアンちゃんへのお土産。後で渡しておいて頂戴」
ノウェムはさらに、木箱の横に小ぶりな紙袋を添えた。袋からわずかに漂ってくる甘い匂い、焼き菓子か何かだろうか。そして瀟洒な装飾の施されたダークオークのケースに掘られているNEW MAKEの刻印。おそらくはデュールが好んで飲むシャルバチアニューメイクのボトルだ。
こんな手土産まで持参して、いよいよもって怪しい事この上ない。
「わざわざ良いのに。俺が知恵絞るのはいつものことじゃないか」
「それはまあ、そうなのだけど。たまにはこういう形で礼を尽くすというのも大切な事よ? 特にあたし達のような日陰者にとってはね」
それは大変結構なことだが、そう言いながらもノウェムが艶麗な微笑の下にわずかな毒気を滲ませたのをデュールは見逃さなかった。
ノウェムはその卓越した社交術と生まれ持っての美貌を駆使し、政財界の裏庭に巣食う妖怪たちを幾人も絡め落とした正真正銘の毒婦である。
カルテルを束ねるイービスが見せる天険の如き強さとはまた別種の、甘やかさと芳醇さのヴェールに忍ばせた毒気は、さながら息だけで岩石をも溶かすバジリスクが如しだ。
いくら交渉事でそれなりの場数を踏んでいるとはいえ、ノウェムにかかればデュールなど田舎の小僧も同然だ。こんな蟒蛇女と正面切ってポーカーに興じるほど、デュールもおめでたくはない。さっさとフォールドして勝負を切り上げるのがこの場では最善の判断だ。
だが、天上におわす彼の者は、この大一番であっさりとデュールを見放した。
「あれ、ノウェムさんじゃん」
別室から応接室に繋がる扉の向こうから、邪気のない声が快活に鳴り響く。そこには男性用の大ぶりなシャツだけを被り、白い前髪をカチューシャでかきあげた、完全な部屋着姿のアンの姿があった。
「あらあ、アンちゃん。こないだ振りね。ちゃんとさん付けが出来て偉いわね」
ここにきてのアンの登場に、我が意を得たりとノウェムが声のトーンを上げた。
「仕事の話?」
「ちょっとした世間話よ。ところでアンちゃん、あなた家では眼鏡なんてしてるのね」
アンが掛けていた大振りのオーバルグラスに目聡く気付いたノウェムが他意のない様子で問い返した。先日の酒場の一件で発覚したアンの正体を憂慮したデュールは、ホムンクルス特有の赤い目を誤魔化すために特注したのが、今彼女が掛けている眼鏡である。
一見なんの変哲もない眼鏡だが、その実レンズには瞳の色を別の色に偽装する特殊な加工がされた、一種の魔眼殺しとして機能している。これをかけている間、アンの深紅の瞳は、傍目にはくすんだチェリーブラウンにしか見えない。
だが、すでに面識があるノウェムにこの姿を見せるのは、デュールとしては完全に悪手だった。これでは後ろ暗い事情があることを白状しているようなものだ。
かといって、ここでデュールが言い訳がましく事情を説明するのはもっと不自然だ。まことに遺憾な事ながら、ノウェムの気を逸らすという大仕事はアンの機転に委ねるしかなかった。
が、だ。
「どう? 似合う?」
「めっちゃ可愛い。うちで働かない?」
たった一往復のガールズトークで万事解決といった雰囲気だ。ゆるみきった部屋着姿だったことが功を奏したのだろうか、とにもかくにもアンの正体の偽装については、ファッションのカテゴリ内に納めることで目聡いノウェムの追及を免れることに成功したらしい。
しかし、真の意味での山場はここではなかった。
持ち前の無邪気さでまんまとノウェムの懐に入ったアンは、ノウェムに促されるまま彼女の隣に腰かける。そうなれば必然、彼女の視界にはテーブルに置かれた紙袋が目に入る。
マズいと、デュールは内心で滝のような汗をかいていた。もしノウェムが何かしらの交渉を仕掛けてくるにあたって、この状況をも予測していたのだとしたら、なるほど敵う道理などあるはずもない。
「なんか甘い匂いがする」
ほら、馬鹿が早速エサに釣られ出した。こうなってはもうお手上げだ。このメイザースをまだ自由に歩けるだけの処世術を身に付けていないアンにとって、食べ物は栄養摂取と嗜好を両立する格好の娯楽だ。
そんな彼女の目の前には、見るからに美味そうな焼き菓子の包みが行儀よく鎮座している。なまじ目上の者に対する礼儀を教え込まれた彼女が、暢気に目を輝かせながら開封の許可をきちんとノウェムに求めるのは、まっこと自然な流れであった。
「開けていい?」
「ふふふ、いいわよ」
「馬鹿お前! 後にしろ」
「なーによー、あたしがいいって言ってるんだからいいじゃないの。これはアンちゃんへのお土産なんだから」
デュールの制止をものともせず、朗らかに対応するノウェムの言い様は、姪っ子を甘やかしに来た叔母のようであった。嗚呼、もはやもうだめだ。この手の交渉事において、話が決まる前に差し入れに手を出してしまったら最後。よほどのことがない限り、以降の主導権の一切を相手方に明け渡すことになる。
「うんま! 何これ!」
無情にも、ノウェムの土産を幸せそうに頬張るアンの声が聞こえる。おうとも、嬉しそうで何よりだ。今後も懇意にしてもらうがいい、無邪気なホムンクルスよ。おかげで俺は大ピンチだ。そんな言葉が譫言のように脳裏を過ぎ去り、完敗を噛み締めながら天井を仰ぐデュールであった。
「ほら、デュールも食ってみって」
親切のつもりだったのだろう。アンは食べさしの残り一欠片をデュールの口の中にねじ込んだ。健啖家の彼女が食べ物のおすそ分けとは、まさに目を見張る成長だと喜ぶべきところなのだろうが、今現在この瞬間に限って、彼女のその親切心は、デュールがこの席で後生抗い続けてきた既成事実の成立に加担する行為でしかなかった。
「敵わねえぜ。まったくよ」
仮にもノウェムからの差し入れを吐き出すわけにもいかず、もちゃもちゃとケーキを咀嚼しながらデュールは降参の意を示した。
「ふふん。あたしから逃げようだなんて十年早いわよ」
決まり切ったようなセリフを吐きながら、これ見よがしにノウェムはウィンクを決める。今年三十三にもなる女が何をやってるのやら。
「それで、こんな絡め手まで使ってうちに白羽の矢を立てた案件ってのは何なのさ」
ものの見事に交渉の席につかされたデュールが、覚悟を決めて本題へと切り込む。本音を言えば、上手いこと理由をこじつけてお帰り願いたいのだが、ここまで綺麗にレールを敷かれてしまった以上、最早抵抗は野暮というものだ。何事も切り替えが大切である。
「あなたが知恵を貸してくれた秘書の横領疑惑。結果から言うとクロだったわ」
女優の仮面を外し、女帝本来の夜の目になったノウェムが事の次第を語る。彼ら二人の間に交わされた個人的な取引。そこに乗っかり、ケチな横領に手を染めたばかりか、横合いから二人の信頼関係に泥をかけた不埒な秘書の疑惑の件だ。
「当たりを引けて良かった……とまではさすがに言えないが。野郎が熱した鉄板の上で踊ったストリップの感想でも聞かせてもらえるのかな?」
「往生際が悪いわよ、デュール」
「ただの世間話」という一縷の望みに賭けたデュールを、ノウェムは子供を叱るように諫める。
「分かってるさ、冗談だよ」
「ま、本音としてはあたしもその話が出来れば痛快だったのだけれど。例のネズミさん、勘はいいみたいであの後すぐ行方をくらましていたわ」
「姐さんが直々に帳簿のチェックを始めたあたりから逃げの算段はつけていたんだろうな。ネズミらしいと言えばらしい話だが」
「そうね」
嘆息するノウェムも、甚だ不本意といった風情だ。まあ、彼女の立場を思えば、こんな猫糞同然の些事の始末に血道を上げる時間など無駄でしかないというのは理解できる。が、問題はここからだ。
「その馬鹿の行方を追えって話でもないんだろう? その程度の追跡、情報屋に任せて茶でも啜ってりゃ、半日とかからず歯クソ穿った楊枝まで回収してくることだろうよ」
情報屋の腕の良さは、デュールが一番理解している。そしてその程度の対応を、この女が怠るわけがない。ほぼ確実にノウェムは逃げだした秘書の行方を探し当てており、その上でこの話をデュールに持ち出してきたのだ。
それが意味するところは、この先には飛び切り厄介で危険な話が待ち受けていることを意味している。
よもや駆け引きでどうにかなるラインはとっくに超えている。そう判断したデュールは一切の韜晦を捨てた直球勝負で深淵の淵に手をかけた。
「で、野郎の逐電先は?」
そう、それが最大の難関だ。居場所が分かっていても手の出せない状況に、彼女は今陥っている。そしてこのメイザースにおいて、スタシオン・アルク・ドレを正面から牽制できる勢力などただ一つだ。
言葉でそれを語るのは実に簡単なことだが、それを暴き立てることがどれだけのリスクを伴うか。そんな、他の一切の理屈を超越した世界の真理に頬被りを決められるほど、デュールの頭はおめでたくはなかった。
核心に足を踏み入れたデュールの問いを覚悟と受け取ったノウェムは、諱の如き魔境の名を静かな語り口で告げる。
「エルドラ共和国。ご存じロス・サングレの母体組織、FLPE、エルドラ人民解放戦線の本拠地よ」
「……最悪の冗談だな、そりゃ」
ノウェムの差し入れた例のボトル。シャルバチアニューメイクのカクテル言葉は「あなたに幸運を」だ。
彼女が詫びや礼以外の意図も含めてそれを持参してきたのなら、そいつはきっと、祈りと餞を込めた彼女なりの鎮魂だったのだろう。