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そんなつもりや おまへんでした

神様はこの世を作るときどんなおもいであったのか?

神様は人を導くときどんなおもいがあったのか?

人というものは、神様であっても中々思い通りにはいかないものらしい・・・

そんなつもりや おまへんでした


宮本 野熊


「どう言うたらええのんか……。なんや言い訳みたいになってしまうんも悔しいんですけど、ホンマにそんなつもりやおまへんでしたんや……」

と老人は視線を伏し目がちに地面に落とし、手に持つ杖で土の上に何度も円を描きながら呟いた。

 何がそんなつもりでなかったのかは、わからない。僕は、眉をしかめた怪訝な表情を露わにしながらも老人の次の言葉を不覚にも待っていた。


 その老人を僕が以前から知っていたわけではない。偶然の出会いと行き掛かり上から、必然的に話を聞かなくてはならない状況に陥ってしまっていたのである。

 老人との出会いはこうであった―。

その日僕は、仕事が休みで、一日中家にクスぶっているのもなにかと思い、日ごろ気にも留めることの少ない春の太陽の暖かな陽気に誘われて久しぶりに散歩でもしようと宛てもなく近所をブラブラと歩いていた。通勤で通る乾燥な道を避け、気の向くままに歩いていたのだった。そんな時、子供の時分によく遊んでいた神社の前を通りがかった。懐かしさも手伝って、境内に入ってみた。木々に囲まれたお社の前に広がるスペースは思った以上に狭く感じられた。子供にとってはこれでも十分な広さの遊び場だったのだろうかと三十年以上も前の時間を思い出していた。お社の前の石畳の上で、メンコをした。その傍らに土で均した広場があり、女の子たちがゴム飛びをしていた。その土の広場の隅の方、少し硬くなった土の上では、時々、地面に小さな穴を幾つも掘って、ビー玉遊びをしたことがあった。遊び疲れるとお社に向かい並べてある古い木のベンチに友達と並んで座り近所の駄菓子屋で買ってきたアイスを食べた。一昔前ならどこにでも見られた子供たちの日常があった。ところが今では木々に囲まれ道路からも見通しの悪いこの場所は、どんな危険があるかもしれないからと、子供たちの遊ぶ姿もすっかり見ることはなくなってしまった。もっとも、子供たちは遊びよりも塾や習い事の方が忙しいのかもしれない。数百年以上の歴史を持つと言われるこの神社にお祀りされている筈の八幡様でさえも最近は留守をしているかのように境内の中は深と静まり返っていた。

僕は久しぶりに訪れた神社からそのまま立ち去るのも気が引けて、霊験あらたかとされる神様の鎮座するお社のお賽銭箱に少しばかりの小銭を投げ入れた。コインが箱の底に辿りついた音が妙な響きを立てた後、風一つ吹かない静まり返った境内の空気には、時の止まることのあるのかもしれないと思わせるようであった。そんな雰囲気に包まれながら、僕はもしかしたら神様も随分と留守をしているのかもしれないと思いつつ柏手を打った。

ここで懐かしい日々を過ごしたことを思い出し心の中でお礼を言った。

「いつか結婚をして、子供ができたらきっとその子を連れて遊びに来ます」といつ果たされるかわからない約束を念じて、恥ずかしさを感じながら、鼻から息を漏らした。

ふと零れた笑気を含んだ息に、気を取り直すかのようにお社に向かい下げた頭を持ち上げ、振り返るといつの間にそこにいたのか老人が古い木のベンチに座っていた。必然その老人と目が合った。ぼくとその老人は、昔なら誰もがそうしていたように


会釈を交わした。

「こんにちは。ごくろうさんです」

と老人は、これも昔なら神社では誰もが見知らぬ人とでもそうしていたように挨拶の言葉をかけてきた。関西訛りの抑揚であった。

僕は、その声に応えてまた会釈をし、お社からの数段の階段を降り、石畳を鳥居の方へと足を進めた。自然、老人の座るお社に向かって据えてあるベンチの脇を通ることになった。老人の横を通り過ぎようとしたとき、老人と再び目が合い、僕はまた会釈をした。

「ようこそ、お参りで。ご近所の方ですか?」

行き過ぎようとした僕に老人が目を細め、今度はなんとなく柔らかな関西訛りの言葉で訊ねてきた。

「えぇ」

と僕は立ち止まり答えると

「そうですか、どうりでどっかでお見かけしたことがあると思いました。昔は、ここいらで子供さんらがよ~遊んではったものですが、今では……」

と老人は、こちらの都合など気にすることなく訥々と話し始めた。

もっとも都合と言っても、これといった都合も宛ても僕にある訳ではなく、ただ、見知らぬ老人に対して面倒を感じたか、多少の警戒をしていただけのこと。僕のそんな内心を理解しようと気遣うこともなく老人は、ベンチから僕を見上げ更に言葉を継いだ。

「お散歩ですか?」


僕は、「えぇ」と答えると。

なんとなく柔らかな関西訛りの声に誘われるように老人の座るベンチに近づいていた。ただ、あてもなく歩くということに結構疲れていたのかもしれなかった。平日の昼間に三十を過ぎたいい年をした大人の男の姿を近所の人はどう思うだろう。見知らぬ人というよりも、近所とはいえ見知った人の少なくなってしまったこの場所では、不審人物が徘徊しているとでも思われて、物騒な男がフラフラと歩いているとでも思われかねないと気を遣ってもいた。今では、散歩をするにも何かと気を遣わなくてはならない世の中に不自由を感じていた。子供の頃からここらへんに住んでいるのはうち位なもので、見慣れた顔はいつの間にか時の流れにさらわれて殆ど誰もいなくなってしまっていた。古い家は壊され、多くはマンションになっていった。五年前に両親が他界してからは、一人暮らし。家族のいない僕には近所付き合いも殆どない。老人の顔にも見覚えはなかった。ただ、なんとなく僕は老人に近づいて行った。

「隣、いいですか」

と僕が言うと老人は、どうぞというように老人の隣に手を差し出した。そして、僕は、古木が組まれた懐かしいベンチに数十年ぶりに腰を下ろした。

老人と僕は、お社を眺めながら窮屈でない程度に話を始めた。

老人は、意外にも昔ここで遊んでいた子供たちの話をさも自分も一緒に遊んでいたことがあったかのように話をした。そして、最近では、子供の笑い声や、喧嘩をした時の泣き声が聞こえなくなったことを淋しそうな表情で呟いた。子供のいない土の広場を見つめる老人の目には、僕がさっき思い出を懐かしんだのと同じように、子供たちの遊ぶ姿が映っているようにも感じられた。

二人の間の会話が途切れると境内には、物音一つ立つこともなかった。時が相変わらず止まっているようであった。沈黙が続いて、少し気まずく感じ始めたとき、丁度涼やかな風が葉擦れを誘い始めた。風に背中を押されたように感じたこともあり、僕はそろそろ帰ろうと思い立った。老人に僕の暇の意思を知らせるように僕は息を鼻から大きく吸って、口から細くフ~っと吐いた。その時、僕と老人の間を背中の方から抜けるように、モンシロチョウが飛んできた。昔は、どこにでもいた蝶々であった。僕が「それじゃ……」と言いかけるよりも先に老人が蝶々に向けて言葉をかけた。

「遅い、春のお告げのようですな」

と老人は、目を細めて脇に置いてあった杖を取り、土の上に立てた。そして、杖のグリップに両手を重ね、その上に顎を載せた。まるで、初めからそのままの姿でいたのではないかと思ったくらいに一瞬間の動作であった。

老人は今にも消えてしまいそうな淋しい顔をしながら微笑んでいた。

今では、中々見かけることも少なくなったモンシロチョウの姿に僕は上げかけた腰を再び据えることとなった。

すると、老人が

「はぁ~っ」

と深く溜息をついた。そして、何か、考え込むような様子で目を閉じた。僕は、この時その場を立ち去るタイミングを逃してしまったことに気づくこととなった。

老人は暫くして、目を開くと静かに言葉を継いで言った。

「ほんまに、そんなつもりやおまへんでしたんや。どう言うたらええんか、わしにもわからしませんのやけど、なんや言い訳みたいになってしまうんも悔しいもんですけど、そんなつもりやなかったんですわ―……。ホンマにそんなつもりやおまへんでしたんや……」


老人のどこか思いつめたような表情に、早く帰ってしまえばよかったと後悔もしたが、ことの成り行き上、何がそんなつもりじゃなかったのかを僕は訊ねなければならない状況になっていたことは明らかであった。

「どうかされたんですか」

と聞くと老人は見え透いた作り笑いをしながらも

「聞いてくれはりますか」

と杖のグリップに乗せていた重ねた両手から誇らしげに顎を持ち上げた。老人の目は、明らかにこの時を待っていたと言わんばかりに輝いているようにも見えた。

もう嫌とは言えない状況に、僕は

「僕でよければ」と老人の話を誘って言った。


「私ね、悩んでますねん。話せば長いことになりますんやけど―」

そう言うと老人は、再び話し相手ができたことに満足するかのようにニッコリと笑った。そしてその後その老人はとんでもないことを話し始めたのである。


「おにいさん、神話って知ってはりますやろ」

「えぇ、まぁ」

「聖書の創世記とか、日本でいうと天地開闢とかもご存じですわな」

「多少は」

「その中の神さんていてますやろ」

「えぇ」

「実は、あれ私のことでんねん」


老人のその言葉を聞いた時、僕はもっと早くにこの場を立ち去っていた方がよかったと後悔せずにはいられなかった。それまで顔に出していた作り笑いも一気に蒸発したように僕の表情からは消えてしまっていた。代わりに無意識に眉間に皺のよる自分の表情が目に浮かんできた。その時僕は、無邪気に飛んできたモンシロチョウにさえ何か意図された悪意を感じてもいた。


2)

一見壮健そうな老人であっても、決して、侮ってはいけないのである。

身の上話であれば、優しい言葉をかけ、多少同情の気持ちをもって接すれば相手も納得し、またお会いしましょう、お元気でと別れることもできる。

しかし、実は自分は神様だというこの老人に、セラピストでもカウンセラーでもない僕には、頭にスイッチが入っているとしか思われない老人への対処法は持ち合わせてはいない。戸惑いを隠せず、疑念の表情を払いきれない僕に向かって老人はこちらの受けた衝撃と、焦燥にはなんら構う気配も見せずに言葉を続けた。


「まぁ、信じてもらわれへんのは仕方のないことです。せやけど、これホンマのことだんねん。今まで、もうカミングアウトせなあかん、そうして言おう言おうと思うても誰に言うたらええんかわからんし、中々言い出せんかったんですわ。せやけど、近頃の世の中見てて、そろそろホンマのこと言わんとあかんようになったんちゃうかと思いましてな。誰か、来るのここで長~い事、待ってましてん―。あぁ、この言葉ですか。私なりに色々と考えましてんけど、標準語で話してもよろしおますんやけど、仰々しいなってしまうのもなんやと思いましてな。柔らかい関西弁なら、深刻な話でも聞き安うなるんちゃうか思いましてな。そやから、わざとこういうしゃべり方にしてますんや。もし、気になるようでしたら。戻しますけど―」


僕にとっては、関西弁とか方言とかそういう問題ではない。これから、この老人がどんなとんでもない話をするのか見当もつかない戸惑いと、できるだけ早く話を切り上げさせるようにするにはどうすればよいのかという思いで頭の中が一杯になっていた。


微笑んでいる老人の顔がどこか憎らしく感じられ始めていた。


「時間のことは心配しはらいでもよろしいです。私とこうしてたらどれだけ長うおっても時間は経ちません。それよりや、神さんが身の上話っちゅうのも可笑しなもんですけど暫くつきおうておくれなはれ―。神さん直々に話するのを聞けるんでっせ、あんたは幸せもんや、こうしてわざわざお参りに来た甲斐があったちゅうもんですわ……」


この時、僕は、普段持ち歩いている筈の携帯を散歩の邪魔になるかもしれないからと、いつになく家に置いてきてしまったことを後悔していた。携帯さえ持っていれば、かかって来もしない電話を取り上げて、「すぐ行きます」と言い訳をし早々にこの場を立ち去れるのにと後悔した。今のところ話を切り上げるための言い訳は見つかりそうもない。

 そんなことを考えている僕の表情を見て老人は言った。

「もう、諦めなはれ。どれだけ考えてもここで話を切り上げることなんてできまへんわ」

と老人は僕の心を見透かしたかのような笑顔を僕に向けながら言葉を継いだ。

「あんたには少し申し訳ない気持ちがないこともない。けど、さっきも言いましたやろ。中々神さん直々っていうこともありません。これも神縁やと思うてもらわんと私も折角思い切って話す気になったんやから、このままあんたが行ってしもたらなんや余計に切のうなってしまいますがな」


この人は、僕の考えていることがわかるのだろうかと考えていると。

「そら、当たり前やがな、あんたが信じようと信じまいと私―、神さんやもん」

と老人は、自信ありげに微笑んだ顔を僕に向けた。

「もう、前置きはこれくらいにしてな。そろそろ始めてもよろしぃか。あっ、そやそや、もし途中で何か質問があったらいつでも言うてくださいね」

そう言うと老人は、満足げな表情で背凭れに体を預けるように座りなおした。


「どこから話しをさせて諸田らええもんかな……」

 と本当に考えているのか、考えている振りをしているだけなのか僕には見当もつかなかった。

「最初から、話を始めた方がわかりやすいよって。そこからいきますわ……」

老人は、そう言うと、木々の間から差し込む陽の光を眩しそうに眺め僕の気持ちなどまるで眼中にないかのように話をし始めた。


「『初めに神があった』言うて大抵どんな神話にも出て来ますやろ。でもあれ、本当は違いますねん。なんや、なんにもない所から神さんがなんでもかんでも作り出したように思われてますけど、ホンマのこと言うたら人が初めにおったんですわ。そらもちろん神さんはいてますよ、人がおるずぅっと前から。せやけどね、この星や人は、ホンマは私ら神さんが作ったんと違いますねん。自然の成り行き言うんかな。風が吹いたら、あるところに塵や埃がたまりますやろ。それを長い事ほっといたらどんどん大きゅうなりますわな。それと同じや。宇宙にも風もあれば磁場もある、熱があればやっぱり気も流れるそれが流れおうて、引きおうて、一処に溜まって固まったんが、この星ですわ。まぁ、ここだけやおまへん。簡単に言うてしまうと宇宙にある星は大概そうしてでけたもんなんですわ。まぁそうした偶然を神の力言うたらいわれへんこともないんやけど……。わたしら神さんが嘘言うたらおかしおますやろ……」


―おかしい、この人はおかしい

と僕は思わずにはいられなかった。すると老人は、

「やっぱりそうなりますわな、いきなりこんなこと言われても。せやけどにいさんが知ってはる聖人って呼ばれる人達がいてはりますやろ。メジャーなところで言うたらキリストや釈迦やな。ホンマはその前にもその後にも仰山おったんやけど、なんや知らんけどあの二人はよう知られるようになったんですな……。まぁ、そんなことはええとして、あの人らも初めは、にいさんと同じ反応やった。それが、私の話、よう聞くようになって、あそこまで行ったんですわ。せやから、にいさんも先ずは気を楽にして聞いとくなはれ。中々、言葉で理解する言うても難しいことやろうから……」


―なんで、なんでこの人は口にも出してない僕の言葉がわかるんだ?

「なんでって、せやから言うてますやん。……私、神様やねんって」


老人のその言葉が終わらない内に僕は老人から咄嗟に視線を外した。すると、さっきまで目の前を飛んでいたモンシロチョウが、空中に羽ばたきもせず留まっていた。葉擦れに揺れていた木漏れ日も絵の中の景色のように表情を変えることを拒んでいた。同じように僕の体もまるで金縛りにでもあっているように眼だけは動いても、その他は指一本動かすことができなかった。ただ、目の前にいる老人だけが、口を動かし、身振り手振りを交え話をする唯一の動態物であった。それでも、僕の思考は動かない体に囚われることなく活発に働いていた。


「ちょっとの間、不自由かもしれへんけどそのまま居といてください。生体の反応は不要ですさかい。ここからは阿吽の呼吸や。体通して、気ぃ使うて差しさわりのない言葉並べるよりも、隠し事のでけへん心と心で話した方が早いよってにな。どのみち、にいさんの考えることは、全部私にお見通しなんやから一緒のこっちゃし」

と老人は、眉ひとつさえ動かすことができない僕に向かって春風のような爽快な笑顔で微笑んだ。

 

 

「さて、ここからや問題は……。さっき言いましたやろ。塵とか埃が風に流されて溜まってできたんが星やって。これは間違いおまへんねん。星は塵や埃、いうても部屋の中にあるような小さなものとちゃいまっせ、例えば月や、あれかて宇宙から見たら塵みたいなもんですわ、地球もそうかもしれんし、太陽かてそうや、小さいもんから見たら大きゅうても、大きいもんから見たらやっぱり小さいんやな。わかりますやろ、この理屈。私はそう言うことが言いたかっただけなんや。せやけどな、これがどうも勘違いされてしもたみたいやねん。初めはよかったんですわ、なんとなくみんなわかったようなわからんような、それでもわかってもらえてましてん。ところが、長い年月の間、人から人へと語り継がれていく内にや、この塵や埃いう考え方が、いつの間にかこの星だけやのうて、どうも人や動物も塵や埃から造られたっちゅうことになってしもうてましてん。それも神様が造ったいうことになってしもてましてん。これを聞いた時、わたしも正直焦りましたわ。そんなことある訳おまへんやん、常識で考えたかてわかりそうなもんですわな。というよりも考える必要もない位やないですか?よりによって、土で作った人形が突然動き出したら怖いですやろ。そんなことが起こったら、いくら神さんでもビックリしますわ。そらホラーでっせ、あぁ怖……。そんなつもりで言うたんとちゃうのに話が時代時代に伝わるに従うて、いつの間にかこんな風になってしもたんですな。私らがね、話するのにはいくつか話し方がおまんねん。事実を事実のままに伝える方法、これはよっぽど賢うないと理解してもらわれへんねん。せやから、誰にでもわかってもらうために説話いう話し方をします。どうやらこれが、いかんかったみたいですわ。いかんかった言うても、その話をした時はそれでよかったんですな。せやけど、何世代か過ぎると生活の仕方も余程変わりますやろ、そうなるとまた違った話し方をせなあかんようになるんですわ。そうすると、話す人の都合に合わせて色々脚色されながら伝えられてきてたことと矛盾の出てくることもおますわな。私らも、土地に合わせて、時代に合わせて、人に合わせてわかりやすう話をしてきたつもりです。せやけど、悲しいことにこうした私らの涙ぐましい努力は中々報われんもんなんですな……。それどころか思いもよらん方へといってしまいよる。まぁ、しかたおまへんのかもしれまへん。どうやって、人が生まれたかなんて、耳で聞いて頭で理解せぇ言うてもできるもんやおまへんもん」

 

―じゃ、どうやって人は生まれたんですか?

「あんたもそうなるかやっぱり?でもな、あんまりそんなこと考えんとき、所詮、後戻りができんのが生き物の性や、生き物だけやない私ら神さんかて同じや先を見んといかんのや」

―でも……。

「でもってやぱり気になるか。まぁ、そうやろな。言うても中々、理解はできんと思うけど少しだけ聞かせてあげるわ」



3)

 この神様だという老人はどことなく満足気な表情を湛えながら僕を見ていた。この時僕は体を動かすことができないということと、話さなくとも老人が僕の意思を理解しているらしいことから、もしかするとこの人は本当の神様なんじゃないかという思いでいた。

 すると老人は、嬉しそうな表情で一度頷き話を続け始めた。

「簡単に言うたらな運ばれて来たんや。一人の人間の中に仰山の生き物を詰め込んで遠い遠い所から運ばれてきたんや。どう言うことって言われても、そういうことと言うしかないんやけどな。誤解を承知でいうとノアの話は知ってるますやろ、まぁ言うたらあの箱舟が人の体っちゅうところです。あんたも、人の受精から誕生までのことを何かで見たことありますやろ。なんや、妙やと思わしませんでしたか。精子と卵子もそうやし、受精してから人の形になるまでに魚類、両生類、哺乳類と形が変わるんでっせ、ホンマやったらそんな面倒なことせんかてえぇようなもんや。せやけどなそこが生命の神秘や、まだあんたらには理解が難しい思うけど、つまり人の体にはこの星の全部の生き物の命の初めから誕生までの記憶が表れてますねん。生き物だけのっちゅうよりも宇宙の記憶っちゅうんかな、それをこの世に出てくるまでに段々に篩にかけながら生んでいきますねんな。初めは、卵、と精子を別々にぽちゃんと水の中に落とします。するとあら不思議、何年も何百年も何千年も落とし続けると水の中に何か動くものが出て来よる。命が育つようになったら次の篩や、今度は受精したもんをまたぽちゃんと水の中に落としてやる、そして、その命が育つらしきようになったら、次、また、次。途方もない時間がかかります。それでもわたしらからしたらそうでもないからでけたんやね。一生懸命心を込めて一つ一つの命がちゃんと前に向かって生きられますようにっちゅう願いを込めてね、わたしらもがんばりましたんや、本当に」

 ここまで話をすると老人は、空を見上げた。

「長い長い時間をかけて、育てて来たんですわ」

感慨深げな表情で今にも涙が零れそうな程に瞳が潤んでいるようでもあった。

「あんたも、結婚して子供を育ててみるとわかりますやろ。わたしらのこの気持ち……」

 そう言うと老人は暫く口を閉ざした。老人が黙ってしまうとまるで自分が写真の中に焼き付けられたかのように何も動くものがなかった。音も風景も何もかもが止まってしまっていた。耳鳴りすらも聞こえては来なかった。

 どれくらいかの時が過ぎ、また、老人が話しし始めた。

「ごめんなさいね、振り返ると色々あったなぁて思うと感傷的になってしまいまして。気を取り直して始めましょか。えぇとどこまで話したんやったかな……。そやそや、命の初めやったな。とにかく簡単にいうとそうして、この星に命が芽生えたいうことなんです。そんで次や、今の生き物がどうしてこうなったか言うことです。世間では進化言うて言われてますわな、あれはええ言葉には違いない、ちゃんと前に向かって生きられますようにっちゅう神さんの願い言うもんが感じられます。せやけど一方で誤解も生じる。なんでや言うと、生き物は順応変化はしても進化はしませんからや。断言します。生き物は順応変化はしても進化はしません。長い時をかけてかなり変態することもあります。けど、魚はどこまでいっても魚やし、鳥は鳥、犬は犬、猫はやっぱり猫のままなんです。猿はサルのまま。当然、人は人なんですわ。しかし、人はすべての命を含んでます。人の中の記憶から、魚は、魚であるための記憶のところで放され、鳥は鳥であるための記憶で、犬、猫、猿も同じです。人間の体に記憶させた記録の期間でこの世に放たれた。せやから、それ以上になることはどうしてもできないんです。なんせ、それ以降の記憶がその命の中には残ってないんやから。それでも、悲しいかな、ゆらぎっちゅうか、例外ちゅうのがあるからややこしぃなることもあるけどね。まぁ、それはまた機会があったら話してあげましょ、さっき言いましたやろ。箱舟は人の体やて。人は人なんですけど、人の中には魚もいてるし、鳥もいてる、犬もいれば猫もおるんです。もちろん、象やキリンやライオン、イルカもクジラもサメもいてます。なんせこれらの記憶はみんな人の中にしまわれてきたんですから……。また、誤解されてしまうかなぁ、でも、大雑把にいうてしまうとこの地球の総ての生き物のもとは一人の人間やったいうても過言ではないんです。でも、それが、全部一人の人間からかっちゅうとそうでもないところがまたややこしゅうなるとこなんですけどな。まぁ、初心者向けの話や思うて今日のところは聞いといてな。どの神話や聖典を読んでもろてもわかる思うけどいつのまにか色んな人が出て来ますやろ。つまり何人かの人がどっかからやってきて、体の中に蓄えられた生き物としての情報をこの地球にぶちまけたっちゅうたら乱暴やけどわかりやすいんとちゃうやろか。そのどっかちゅうんは、今はまだ言うてええ時とちゃうから言われへんけどその内わかる時が来るやろな、近いうちに。

 あぁ、また、いらん話してしもた。この話は、また、機会があったら聞かせてあげますわ。全部話ししとったら、どんだけでも時間がいってまいます。

 今日はこんな話をするために来たんちゃうんですわ。

 そんなつもりやなかったって言いましたやろ。あの話をせなあきませんのんや」

 

 僕の頭の中は混乱していた。それにも関わらず取り乱すことのなかったのは思考以外の何も活動をしていなかったからかもしれない。ちょうどそれは“夢”を見ているような状態なのかもしれない。気持ちの焦りはするが、起きている時のように鼓動が早くなるわけでもなければ、体温が上がったり、赤面したりというようなことがない。その分だけ、冷静にいられるというところなのだろうか。

 

「にいさんもやっとその状態に慣れたみたいやな」

「慣れた訳ではないですけどどうしようもないですよね。動くこともできないし」

「せや、どうしようもない。不自由になってようやくわかることです。どうしようもないということの本当の意味が……」


「いかんいかん、また、余計なこと言うてしまうところやった」

 

 こうして見ると神様というのも意外と飄々として面白い存在だと僕は思った。


 そうですやろ、せやから関西弁は正解やと思うたんですわ。


 いや、そういう意味ではないのですけれど。


 えっ、じゃぁどういう意味?


 うまく説明できないですけど、中々親しみやすいというかお茶目というか……。


「なんやようわからんけど、まぁ、よろしいわ。また、横道に逸れてしまいそうやさかい。……あっ、わかった。あんたさっきわたしが、またおいおい話し聞かせてあげるいうたこと根に持ってんのとちゃう?せやから、うまく説明できないなんて、上手言うてんのとちゃうん?」


 神様だという老人は、僕の目を疑わしそうに見つめてきたが、表情をつくれないことが幸いした。決して、上手を言ったわけではなかったが、体の自由が利いたとしたらどんな反応をするのか自分でもわからなかった。老人は、そんな僕の目を見つめて、ニッコリと微笑んだ。


「まぁ、ええわ。でも、おもろいなこうして話をするんも。ホンマ久しぶりやわ。人の目ぇ見ながら話するなんて。なんで、これまでこうして話さへんかったんかと思うと後悔してしまいますわ。色んな奇跡見せて、信じなさい言うても世の中は、いつまで経ってもこのありさまや。あちこちで戦争は起こるし、私利私欲に忙しいもんばっかりがエエ目して、ちゃんと皆が幸せになる道を教えた筈やったのに……。それをわかってもらわれへんかった私らの気持ちどうなります?」


―どうなりますと聞かれてもぼくにはどうとも答えようがなかった。


「そら、そうですわな。せやけどホンマはそれがあかんねんな。他人事みたいに考えたらなんもようなることはないいうことに気づかなあかんのです……。ホンマ、人には言いたいこと仰山ありますけど、全部言うてたら何百年、いや、何千年時間もろうても足りん位ですわ。ハァ~」


 神様も溜め息つくんだとぼくが思っていると

「そらそうですやろ、一生懸命に色々教えてもいつまで経っても何も変わらへんのです。いくら神様やいうたかて溜め息の一つも出てしまいますがな……」



「わたしらね、ホンマにそんなつもりで道を説いて来た訳やあらしまへんのんや。いつまで経っても、人間同士いがみおうて、奪いおうてばっかりで……。

 私らね、いつも言うてましてんで、偶像を拝むな、寺を建てるな言うてね。なんでかわかります?ところ変われば形も変わりますやろ、それに形を作ってしまうとやっぱり立派に見える居心地のよさそうなところへ人は集まってしまいますわな。そうするとこっちが正しい言うて誰もが言いたなります、人情として。そやから、形はいらん言うてきましたんや。拝むところが欲しかったら、山や海、空と大地のどこでもよろしい。それに、どうしても神さんの姿みたかったら鏡見てたらよろしいがな。なんせ人は神さんに似せて造られたんやから。そう言うても、聞いたその時はちゃんと皆守るのになんでや知らんけど世代が変わるといつの間にか立派な寺を建てるし、偶像も作りよる。そうすると目に見えるもんしか信じられへんようになるから、あ・か・ん、て何べん言うても直らん、困ったことですわ。挙句の果てに言うに事欠いて宗教戦争やて、なんや私らが悪いみたいに思われますやろ、ホンマかなんことです。宗教戦争やなんて、言いがかりも大概にしてもらわんと。信仰と宗教とは別モンやのに……。結局は、言い訳にされてしもうただけなんですわ。えっ、なんのって?そんなこと簡単ですがな、金儲けのためですがな。民族の繁栄、国の繁栄、神の教えの布教やってなんやもっともらしい事言うて、その元にはどれだけ金、富を生み出すかいうことしかあらしまへん。そら、貧乏より金持った方がええに決まってますわな誰も。せやけど、みんながみんな金持ちで裕福なんてことありえへんがな。貧乏人がおっての金持ち、金持ちおっての貧乏人や。その当たり前のことが、どこかで歪を生むことになってしまう。全員、金持ちなんていうのはありえへんことやさかいにな。それに、よう考えてもみてください。どこのどんな経典に金を稼げ言うて教えてます?おまへんやろ?」

 

4)

 僕は相変わらず身動き一つできなかったが、老人の嘆きの言葉はもっともなことのようにも思えてきた。

 

「にいさん、ちゃんと聞いてくれてますか。なんやボ~っとして」

と老人は言ったが動くことのできない僕にはどうにもならないことであった。

「そやった、そやった。ゴメン、ゴメン。私が、あんたを縛ってたんやった。ホッホッホ」

「ホッホッホじゃ、ないですよ」

「せやけど、その方がよろしいやろ。余計なこと考えへんかて済むし」


 確かにそうには違いなかった。

 この状態は不自由の中の自由さとでも言うものなのだろうか。考えただけで阿吽の呼吸でコミュニケーションができるのである。何も期待もしなければ、何も悩むこともない。ただ、自分がそこにあるという感覚であった。言い訳も、繕いもできない素の自分。それが僕には心地よくもありまた、心に蕭牆しょうしょうのないことが怖ろしくもあった。


「やっとその気になってくれはったみたいやな。これで少し話やすうなった。

 畏怖、簡単に言うたら恐れやな。やっぱり、自分の力ではなんともならんことに対する畏敬、畏怖、自然に対する崇敬を感じてもらうために私らは色んな奇跡を見せてきた。特別な人にだけやない。おにいさんとこうして話してることも、小さな奇跡言うたらいえることかもしれん。それもこれもなんでや言うたら人を人にするためやねんで、ホンマ言うたら。

 考えても見てください、いくら生めよ増やせよ繁栄せよ言うたかて限度ちゅうもんがあるのわかりますやろ。それを頭で理解できるのは、人だけやねん。食物連鎖で言うたら頂点の存在や。その頂点が、ブレてしもうて、好き勝手にしてみなさい。どないなことになると思いはります。羝羊藩に触れっちゅうことになってしまいますやろ。それもあって動物に限らず、生き物にはすべて天敵がいてるんです。

 ネコは、何も考えんと生めよ増やせよ言うと食いもんが無くなって自分らが生きていけんようになるまでいくらでも増えていきますやろ、犬も、ネズミも猿も虫もみ~んな一緒や自然に食物連鎖の中で淘汰されてしまうまでとことん行ってまいよる。それをコントロールしとるのが天敵っちゅう存在や。

人間も動物やさかいに動物的な性根はもってる。これは仕方ないことや。そやけど人間にはちゃんとした天敵いうもんがいてないんです。強いていうならば人間の天敵は人間しかおらんいうことになるんかな。と言うことは、ほっといたら人もやっぱり最後には誰も何もいいひんようになってしまう。これはええことない。地球的にみても、私ら神様的にみてもです。長い長い時間をかけてやっとのことでわたしらも人の中の記憶の底から陽の目をみようというところまで来たんです。そこでや、なんとかこの星で一番頂点に立つんは人やないでって教えなあかんようになった。そこで私らの出番ですわ。なんでやと思います?それはな、人が淘汰されるっちゅうことは、この星そのものが淘汰されるっちゅうことになってしまうからですわ。

ここからが確信に迫るとこやで、よう聞いといてください。

私ら神さんがな、どこにいてるかわかりますか?

わからんか……。

畏まって話聞くんは行儀ええけど、ちょっとは考えてや。

まぁ、今回は特別に教えてあげるけどな。

私らもね、他の動物と同じように実は人の中におるんです。人の持つ記憶と言う中にね。一つ違うところは肉体的な記憶やなくて心いう中におるいうことなんですわ。

人の中にいろんな生き物を記憶さしてそれをごっつい時間をかけて形にしてきたんは記憶を形にするためですねん。人はどれだけ昔であっても、これから先も人のままやて言いましたやろ、そら環境に適応してちょっとずつ形は違うてるかもしれへんけど、それでも人はいつまで経ってもどこまでいっても人やねん。せやけど人はただの動物いうだけのもんとは違います。もうわかりますやろ。人さえ居てたら、虫も、魚も、獣も植物もまた同じように途方もない時間をかけたら生まれてくることができるんですわ。しかし、人がおらんようになったらそれは無理や。猫には猫までの記憶しかない。犬にも、猿にも、クジラにも同じや。それ以上にはどうしてもなられへん生物的な限界がある。そやけど人にはな、それらが全部体の記憶の中に詰め込まれてますんや。その上やで、私ら神さんの記憶までもが一人一人の心に刻まれてるとしたらどうやろ。さっき言うたようにようやく私らが陽の目を見られるところまできたのにでっせ人が人を喰うてしもうたらまた最初からやり直しや。そら、私らも少しは真剣に考えますわ。

天使と悪魔っちゅうたら俗っぽい話になってしまうけど、あんたもそうやと思うけど、頭の中でこれしたらあかんって思う声が聞こえてくるときあるやろ。わかりやすう言うたらそれもわたしら神さんの記憶の一つやねん……」

「記憶の中に存在するって、どういうことなんですか」

「そら難しい質問ですな。まぁ、説明してあげてもよろしいけど、にいさんついてこられますか?」

「ついて来られますかって言われても、聞いてみないことにはわかりませんが」

「そやろな、みんなそう言うてましたわ。まぁ、あんたにはというよりも今の人らにはわからんことが多いかもしれへんから。今日のところは取り敢えずの部分だけでよろしいですやろか。この先にいさんがどんな風になるかは、わかりませんけど取り敢えず今知っておいて貰いたいことだけで……」

「何だか意味深な言葉ですね」

「そらあんた、神さんとしては何べんも同じ間違いを繰り返すわけにはいかしませんがな。もうこれ以上は……」

「わかりました。取り敢えずの部分だけ聞かせてください」


(僕の聞いた記憶に関する聖なる書)

この世がどうして生まれたかなどということは例えそれがわかったところでなんの意味もない。人がどうしてこの世に在るようになったのかということも同じである。神話は神話、理解できないことの許せない人の探究心が造り出した人の人によるインナートリップ、想像の産物。それが、神話というものの性格である。聖典と呼ばれる造作物もまた、同じ。おとぎ話のようなものである。この世に人の頭で理解できる絶対などありはしない。何故なら、人はいつか死ぬということすら認めることができないのだから。

こう言ってしまうと多くの人は神の説明不足、怠慢と憤慨するかもしれない。

ただ、人は知らなければならない。人は生まれ続け、そして、死に続けることを。

生まれる前に、人がどんな形をして、死んだ後に人がどのようになるのかということなど問題ではないことを人は知らなければならない。人のルーツを辿ったところで、そこには何も見出すことはできない。人は、肉となる前には、二つの精子と卵子という細胞であり、その細胞になる前には血液であり、その血の中に生命体としての記憶の欠片が連綿と受け継がれている器に過ぎない。人の根本は、記憶にあると言っても理解されないかもしれない。しかし、生命の生命たる由縁は、記憶の中にしか見出すことはできないということを知らなければならない。それが、唯一生命としての存在意義なのである。神は、記憶の中に存在する。それも人の記憶の中に。善悪は人の中にある。人は教えられなくともその生命に、善悪の種が刻まれている。記憶という中にである。記された聖典ではなく、記された法典の中にでもない。肉体という器に刻まれた記憶の中にである。どんな人間にも刻まれている記憶。記録に留まらない記憶。聖なる生き物としての記憶は、肉体に刻まれた記録と記憶からなる。肉体を引き継がせることの叶わない人は、記憶を引き継がせることにより連綿と受け継がれてゆく記憶の中に存在する意義がある。

記憶とはそれ程に大切なものなのである。

また、記憶は、それまでの経験によって無意識に次の世代に受け継がれるものでもある。故に、無垢なうちに記憶を受け継ぐ器を造らなければならない。経験を積めば積むほどに、記憶は無垢から離れる。すなわち記憶が穢されることにもつながる。


「とまぁ、おおまかに言うたらこういうことになります。体も心も記憶として代々受け継がれるゆうことです」

その話は僕には、わかったようなわからないようなというのが正直なところであった。

「それでよろしいんや。そんなつもりやおまへんでしたんやって初めに言いましたやろ。これまでは、事実を言うただけでした。それをしっかり理解せぇいうより事実は事実として受け止めたらええ言うてきただけです。ただ、まったく忘れてしまわん程度に知っといて、頭が窮屈にならへん程度に考えてさえいればよかっただけですんや。もっと言うたら人はいつのまにか生まれて、いつか死ぬということさえしっかり受け止めてたらええだけです。その間に理屈やのうて自分の心が良い、悪いって教えてくれます。良いに従って行動して、悪いを排除していくだけや。ところがや、そんな簡単なことがいつの間にか、なんかややこしいことになって、争いごとばっかりが多なってしもて。ホンマに悲しいことです。それにや、争いの原因が私らが教えてきた“道理”やったなんて、思いもかけんかったことになってしもて……」

「道理ですか?」

「そや、道理やねん。どういうことか言うてあげましょか」

「えぇ」

「善人にも悪人にも、金持ちにも貧乏にもそれぞれ道理がありますやろ。昔は、道理は天の理ただ一つや言うてどこの国行ってもそれが正義でよかったんですわ。簡単なことですわ。何処の世界へ行ってもそれで通じてました。人の嫌がることはするな。あかんことや、悪い事やと感じたら止めとき。みたいなもんですわ。子供への躾と同じや。せやけど、道理が“人の都合”で解釈されるようになってしもうてからおかしゅうなってしもたみたいですねん。人が仰山集まると、道理の解釈にもいろいろな違いができますわな。すると誰もが自分の解釈が正しいいうて言い出します。その内、口のたつもんや、力のあるもんの解釈が受け入れられるようになるんですな。そして、それが集団になる。するとそれが人対人から、集団対集団になっていきよる。ホンマにささいなことからですねん。例えば、お祈りを忘れたとか、仕方が違うとか言うようなもんですわ。

で争いが絶えんようになってしもたんです。ホンマはそんなつもりやおまへんでしたのに……。道理言うてもそんなに難しいことやないんですよ。道理なんていうたら堅苦しゅう聞こえますけどホンマは簡単なことの筈やのに、なんでこんな簡単なことが理解されへんのか。私らには皆目わかりません。どなられたら腹が立つ、嘘つかれたら嫌な気持ちになる、傷つけられたら痛い。当たり前のことです。これが道理いうもんです。道理守っていくだけでホンマは幸せになれる筈なんです。せやのに、こんな簡単なことが理解されへんのんですわ……、はぁ」

溜め息とともに老人の表情がみるみる曇っていった。

「なんでなんやろ、ホンマに?」

と老人がつぶやいた時、僕の髪が微かに揺れた。木立の間から零れる陽の光に温もりを感じた。空中で止まっていたモンシロチョウが、呪縛を解き放たれたようにヒラヒラと飛んで行った。そして、僕の体は自由を取り戻していた。


その時である。


5)

人の気配に僕が振り向くと鳥居の向こうから境内に向かって早足に歩いてくる真っ白なブラウスを着た女性が目に留まった。さっき社の向こうに飛んで行ったモンシロチョウが人の姿に変えてまた飛んできたようにも僕には見えた。その女性は僕たちの座っている木のベンチに近づいてくると

「やっぱり、おじいちゃんまたここにいたの?」

と老人の姿を確認して微笑みながら声を出した。

「こんにちは、すみません。おじいちゃんなにかご迷惑をおかけしませんでした?」

彼女は、どこか気の毒そうな表情で僕に向かって柔らかな笑顔でお辞儀をした。僕も、彼女に合わせて頭を下げ挨拶をした。

「こんにちは」

すると彼女もまたお辞儀をし、ベンチの後ろから老人の肩に手をかけて

「おじいちゃん、探してたんだから。もうお家に帰ろう」

と言った。

彼女に気づいて振り向いた時の老人の表情は、先程までとは違いどこか弱々しくもあり、また、視線が定まってはいないようにも見えた。

「すみません、おじいちゃんこの場所が好きみたいで、よくここにくるんですけど。なにかご迷惑でもおかけしませんでした?」

彼女は、申し訳なさそうに同じ質問を繰り返した。

「いいえ、何も。色々楽しいお話を聞かせてもらってました」

と僕が答えると彼女は、遠くの方から金木犀の香るような人の気をオヤっと引き付ける魅力的な笑顔を零した。

「そうですか、よかった。私たちこの辺に最近引っ越してきたばかりなんですけど、この場所、おじいちゃんの住んでいた大阪の家の近くの神社に似ているみたいで、よくここにくるんです。でもおじいちゃん認知症で、よくわかっていないんです。話もちゃんとできないし……。目を離したすきにたまにふらっといなくなるし、この前も警察にお世話になって探したんですよ」

彼女によると老人は彼女の祖父にあたり、三か月程前に彼女の父の仕事の関係で引っ越してきたばかりだという。施設に世話になることも考えたが、介護の資格を持つ彼女がヘルパーの仕事をしながら今は自宅で祖父の世話をしているらしい。

「いつもこうしてぼうっとして、でも時々ちゃんと話もできるんですけど……」

そう言えば、老人は彼女がここに来て以来一言も発しないどころか杖に翳した手も小刻みに震えていた。先程までのどこか威容のある姿も影を潜めており、自分が神様だと言っていた人物とは同一とは思われなかった。それに、僕は、さっきまでの体が身動きできなかった自分自身が一体なんだったのか理解できないでいた。

「もし、またおじいちゃんを見かけてご迷惑をおかけするようでしたら、この名札に自宅の住所と電話番号が書いてありますのでお手数ですがご連絡ください……」

さっきは気づかなかったが、老人の首からネックレスのような紐がかけられてありその先に名札がかけられていた。

「それじゃ、すみませんでした。おじいちゃんのお相手をしていただいてありがとうございました」

彼女は、深々とお辞儀を僕に向け、直った時の彼女の表情の後ろから仄かな甘い懐かしい香りが漂っていた。そして、老人の脇に手を差し入れ優しく老人の立ち上がるのを介助しながら、

「おじいちゃん、お家へ帰ろう」

と微笑んだ。

老人は、甲斐甲斐しい彼女の仕草に抵抗をすることもなくゆっくりと立ち上がると小刻みに頷いた。

「それじゃ、失礼します」

丁寧なお辞儀を動作のたびに差し入れる彼女の仕草に好感を覚え、僕も同じようにお辞儀をした。

「おじいちゃん、もう帰るからこの方にご挨拶ね」

彼女の言葉に老人は頷くと、老人は一度考える仕草で首を傾け

「さ・よ・う・な・ら」

とたどたどしく言葉をついだ。

僕は、不思議な気持ちで目の前を通り過ぎようとしている老人と彼女の姿を見つめていた。その時老人と目が合い、老人が何か思い出したように一瞬立ち止まった。

「そうそう……」

先程より少しなめらかな口調で老人は、僕に話しかけてきた。

「もし、ご結婚して子供さんがおできになったらここで一緒に遊びましょうね、約・束・ですよ。いずれまた……お会いしましょ」

そう言うと僕には老人の左目が軽く閉じられたようにも見えた。

彼女は、老人の言葉の終わるのを待つと、再び、僕にお辞儀をした。

二人の姿を見送る僕の耳に彼女と話す老人の声が微かに聞こえてきた。

「そんなつもりや、おまへんでしたんや……」

そして、二人は鳥居を過ぎると右手に曲がってやがて姿が見えなくなった。

独り境内の古い木のベンチに残された僕の耳に、また、帰り際老人が口にしたあの言葉が木霊していた。それから僕はベンチに座りながら、老人の言った『そんなつもりや、おまへんでした』と言う言葉の意味を考えていた。

その時社に掲げられていた天幕が風に煽られたのか大きく揺れた。

「おにいさんの都合で考えるんとちゃいますで……」

とあの老人の声がどこかからか聞こえてきたような気がした。

いつかまた、あの老人に会えるのだろうかと思いながら立ち上がると、僕はあの老人と娘さんの歩いて行った鳥居を潜り境内を後にした。ふと見上げると空には太陽が笑っていた。雲は風と遊んでいるようにも思われた。いつもの景色が少しだけいつもと違って見えていた。

家に向かい歩いているとまたあの老人に会いたくなっていた自分が可笑しかった。あの老人、それと良い香りを漂わせていたあの彼女にいつか会えることを期待しながら歩いていた僕の心に老人の声が再び聞こえてきた。『そんなつもりや、おまへん』というあの声であった。



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