ゴジラについて
ゴジラについて
最高の怪獣はゴジラであると思う。これは私の中では絶対に譲れないところなのだ。
その理由をこれから書く。
ゴジラの凄いところは、それまでは、怪物とか、モンスターと言われているものから怪獣という概念を確立したこと。さらにそこから多数のフォロワーが出たため、怪獣映画というジャンルを成立させたことにあると思う。
怪獣とは、私が思うに、それまでの怪物、モンスターとは違って、桁違いに大きく、通常兵器はおろか核兵器にも耐える強靭な体を持ち、光線、火炎、熱線などの特殊な攻撃手段をもつ超生物である。そのように定義したい。
ブルース・リーがでてカンフー映画というジャンルを創出したこと。ジョーズがでて、サメその他の野獣が襲う映画のジャンルを開拓したこと。それと一緒で、新しい分野を開拓した功績は途轍もなく大きいと思う。
言ってみれば、ジョルジョ•メルエスが「月世界旅行」でSF映画というジャンルを作った、そのくらい大きい事だと私は思っている。
つまりシン・ゴジラが、ゴジラ―1.0が、いかに凄かろうと、ゴジラと名がついている限り、ゴジラの手のひらから一歩も出ていないことになる。怪獣映画という枠内になってしまうからだ。ゴジラと名をつく限り、絶対に初代ゴジラを越えられないのだ。
これまで怪獣の枠を超えようと、超獣や、恐獣などと称してみたことはあるが、怪獣と全く変わらなかったためすぐすたれてしまった。
たとえば全長5000キロメートル、全幅1000キロメートルの巨大な宇宙生物が惑星を食べ始め、困った宇宙種族が協力して、その宇宙獣と名付けた生物を倒していくという、宇宙獣映画というものが確立されない限り、ゴジラを超えたとは言えないと思う。
初代ゴジラの名シーンは、大戸島上陸のシーン、高圧電線破壊シーン、伝説の八ッ山鉄橋のシーン、時計台破壊シーン、これまた伝説の平川町電波塔放送班のシーン、などなどあげればキリがない。
しかし、挙げるべきは終盤の、尾形と芹沢博士のディベートではないだろうか。芹沢は自分の開発したこの超兵器が世間に知られれば、核兵器以上の惨劇が起こるから、この兵器は使えないと主張する。しかし尾形はこの現実の惨劇を収める方法は、その兵器を使用するしかないと主張する。この息詰まるような討論が行われるのである。
この結論が出ている、詰将棋のような議論で、芹沢は追い込まれていく。尾形は意識していないと思うが、芹沢を死に追い込んでいくのだ。この超兵器を使用し、その後使用しないようにするには兵器の資料をすべて廃棄した上に、その兵器を記憶している芹沢が死ななければならないのだ。
リングを書いた鈴木光司氏は、呪いを解くにはおまじないが必要といった。ゴジラが呪いなら、オキシジェンデストロイヤーはおまじないなのだろう。
しかし、ゴジラは、おまじないだけでなく生贄も要求した。それが芹沢博士なのだ。
戦火で顔に傷を負い、婚約者を奪われ、婚約者を奪った男に追い込まれていくのは、どれほど不幸なのだろうか。私は悲劇の芹沢博士に涙を禁じ得ないのだ。
初代ゴジラとはこれほど奥深い映画だと思う。そして私はゴジラと芹沢博士を、こよなく愛するものである。