第六話「そのトンネルで、クラクションを鳴らしてはいけない」
◆で話者が変わります。
好きなものもあなたの視界の前も後ろも右も左もぜんぶ、あたしだけにしてほしい。
なにをするにもあたしを思い出してほしい。
もちろん死ぬときだって、ね。
◇
ハンドルを握るのはずいぶん久しぶりだった。
この体になってからは運転とは遠くかけ離れた生活をしていたので、少しだけ不安はある。だが、無様を晒すほどではないだろう。
それに、隣に最も大切なものを乗せているのだ。ヘマはできない。
ああ、それにしてもやっぱり。
今日も今日とて俺の妻は可愛い。
シートベルトを締めるその姿も。
「なんか高そうな車だね」と少々機嫌のよい顔も。
昨晩つけた、未だ鮮やかなままの赤い痕が映える白い肌も。
長い睫毛も。艶やかな唇も。
――ホテルの一件から折を見て姫眞を見るようになった。いやもともとよく見てはいるのだが、こうして己の妻がこんなにも可憐であることを再確認すると、なんとも高揚してくる。仕事に対しても真摯に向き合えるので有益だった。今後も実行していこう。
「――さんっ、豪縋さんってば! おいこの、むっつりすけべ! 俺見て何笑ってるんだよ」
そう言って頬を突かれて俺は我に返った。
怪訝そうな顔をするお前も、可愛いな。
「いや、今日も愛らしいとそう思っただけだ」
言って俺は車を発進させた。
しばらく姫眞は沈黙していたが、すぐに、
「はいはい、ありがとー。……で、俺の話聞いてた?」
とおざなりに礼を言って、そして訊ねてきた。
いやすまない、まったく聞いていなかった。
「うん?」
「聞いてねーのかよ……」
姫眞が肩を落とすのが気配でわかった。
悪いな、お前を見るのに忙しかったんだ。
「車だよ、車! これ、豪縋さんの私物?」
「いや、これは母さんのだ」
「榧さんの?」
「ああ。仕事で廃車にするかもしれないんだが、それでも構わない車はあるかと訊いた」
「すげえ聞き方するやん……」
事実そうなるかもしれないのだから仕方あるまい。
母さんは父さんとその他大勢を連れて、合法非合法問わずあちこちで仕事をしている。仕事内容については知らないし、今後も知ろうと思わない。旧友で運転手の影嗣からちらりと聞いた話だと武器商人のような真似をしているそうで、世界そのものに迷惑をかける真似はよしてほしいと心から願っている。
願うしかなかった。あのひとはやるときは如何なる犠牲をも厭わないひとだから。
自由奔放を体現しているようなひとでもあり、基本的に予定を合わせるのが難しい。夫婦の予定に俺たちが合わせないといけないうえ、連絡の仕方も気を遣う。
俺は影嗣に連絡を取り、一時帰国をするよう頼んだ。さして機嫌を損ねずに済んだのはよかった。
あのひとたちはあらゆるものに邪魔をされるのを嫌う。
その話をしたら姫眞が不可解そうに顔を歪めた。
「えぇ、わざわざ風の旦那に頼んだの? なんで?」
「あのふたりに電話で連絡するのは命のかかった賭けをするようなものだからな。ふたりの仲睦まじくしているタイミングに電話なぞかけようものなら……わかるだろ」
「おふぅ……」
なんのしがらみもない現状、夫婦仲は以前よりも過熱している。熱々というよりも灼熱だ。ゆえに、逆鱗に触れた後どうなるかもはや想像ができない。およそ五体満足ではないだろう。
「榧さん、キレるとほんま手ぇつけられへんからなァ……」
「より正確に言えば父さんの身になにかあったら、だな。玉ねぎを刻んで泣いた父さんを見て世の玉ねぎを駆逐しそうになった時はどうしようかと思ったよ」
方々手を借りてなんとか事なきを得たが。
姫眞を見つける前の話だったので、彼女は絶句していた。まあそういう反応にもなろう、あまりにも常軌を逸しているから。息子の俺だって信じられなかった。玉ねぎを切ると涙が出るのは誰でもそうだと言っても聞きやしなかった。思えばあの時初めて母さんに向かって「このクソババア」と暴言を吐いた気がする。たぶん向こうは覚えてなどいないだろうけれど。
「過激ぃ。ま、でもその片鱗は豪縋さんも持っているよね」
「……否定はしない」
俺はハンドルを切った。
その時、妙な感覚がした。『異界』に入る感覚に酷似していたが、気圧かなにかのせいだろう。
まだ禁忌は犯していない。それをするのはこの先だ。
「今回はどういうカンジなん?」
「――『クラクションを鳴らしてはいけない』、だな」
◇
風景に険しい山々を帯びた道路だった。平日の昼間だからなのか、それとも別に理由があるのか、道路の往来はまったくなかった。一台も通っていない。
放棄されているような道路の真ん中にそのトンネルは存在する。
おぼろげな光に照らし出されたトンネルの前で、俺は減速した。後方を確認してもやってくる車はなかったので、その勢いで一旦停止する。トンネルの入り口には『クラクションを鳴らさないでください』という文言と共にそれを禁止する標識が佇んでいた。
「奥が……見えへんねえ……」
「そうだな」
「トンネルってわくわくして好きなんやけどな、俺」
「……初耳だ」
「え? いやだってほら、異空間に入ったみたいになるやん」
「……」
「……え、なんで旦那ちょっと怒ってるん?」
怒っていない。
怒ってはいないが、俺の知らないお前がいるということに対して嫉妬心が噴き出している。
「つまりお前は一度誰かとトンネルを通るようなドライブをしたことがある、と?」
「へ?」
「どうなんだ」
「え?」
「どうなんだ、と訊いているんだが」
姫眞がびっくりしてかたまっている。可愛い顔だが答えがない限りは許さない。
誰かとドライブをしたことがあるのか。そんな話は昔も今も聞いたことがないのだが。
「ば、バス! 夜行バス! さびしくて出張先に行くときに使ったの!!」
「……」
「それ以外でトンネル通ったことないよ! え、なに、バスも……だめなの?」
「……許そう、公共交通機関だからな」
「……」
さびしくて出張先に、か。
そんなこともあったな。まあ、そうなるように仕向けたのは俺なのだが。
敢えて出張の事を言わず突然家を空けて、電話をかけて寂寥感を煽る。
煽った結果、こいつは俺のもとにやってきた。
さびしかったんだよ、と小さく言って甘えてきたときは一瞬で理性が吹き飛んだものだ。
無意識にじっと姫眞の顔を見つめていたらしい、彼女は半眼になっていた。
「……なあに、豪縋さん」
「いや、なんでも。取り乱してすまなかったな」
「……べつに」
姫眞はぷいと顔を背けて、なにか呟いたようだったが俺には聞こえなかった。
照れているのだと思って、俺は微笑ましかった。
◇
橙色の光に包まれたトンネルのなかには、いたるところに『クラクション禁止』の標識が立てられていた。一見してわかる異常な量だった。
「すごいです!」
その声はメゾロンテのものだった。姫眞の相棒で、ツギハギのウサギのぬいぐるみである。極度の恥ずかしがり屋だから普段はネックレスになっているはずだが。
横目に見ながら、「珍しいな」と声をかける。
「車ん中やから平気やいうてな、せっかくやし」
「風景が飛んでいくです! 面白いです!」
「よかったなぁ」
はしゃぐメゾロンテをきっと姫眞はやさしい目で見つめているのであろう。
想像すると、主人というより母親のようである。
「わ、なんだかたくさん立っているです? あれはどういう模様なのです?」
「へ? ……うわ」
最初は十メートルほどの間隔で立っていた標識が、今や二センチあるかどうかの間隔で並んでいる。まるで卒塔婆のようだ。流れていく風景のすべてに標識がいる。
トンネルの終わりは見えてこなかった。寧ろ奥に行けば行くほど薄暗くなっているような気がした。
「……さて、そろそろか」
俺はスピードを維持したまま、ハンドルの中心を強く叩いた。
けたたましいクラクションが鳴り響き、そして――
「わ、ちょ、豪縋さん、まえ!!」
前方に突然トラックが現れた。
ハイビームで視界が真っ白に塗りつぶされる。俺は思わず目を瞑った。
◇
衝撃はなかった。
目を開けるとそこはトンネルの中ではなく、一直線に伸びる道路のうえだった。
姫眞が周囲を見渡しながら、「……い、異世界転生しとらんよね……?」と意味のわからないことを言っている。こんな簡単に転生してたまるか。
窓の外に目立つ建物はなにもなく、ひたすら更地が続いていた。
「どこなん、ここ?」
「さあな……ん?」
俺は気づいた。後方から凄まじい速度でやってくる車の存在に。
白のセダンであることは驚愕に値することではないが、それよりも目を引いたのはフロントガラスだった。
フロントガラスにはびっしりとひとの顔の皮が張り付いていた。
笑った瞬間に引き剥がした顔の皮が、フロントガラスを覆っていた。
姫眞も気づいたようで「なにあれえ!?」と声を上げていた。
「キモ!? てかあれ前見えてないでしょ!?」
「どんどん速度を上げてくるな……あれが『怪異』か?」
「なんの『怪異』だよ、ターボ婆!?」
面皮の車はほどなくして俺の車と並走し始めた。
そこで気づいたのは、面皮はどうやらフロントガラスだけではなく、車の窓という窓すべてを覆っていることだった。
スモークガラスならぬ、面皮ガラスか。悪趣味だな。
「いやマジでなんなの!?」
姫眞が叫ぶが、そんなことは俺にはわからない。
この車を破壊すればこの『異界』から出られるのだろうか。
俺は片手でハンドル操作をしながら、拳銃に手をかけた。窓を開けて、銃口を向ける。
するとそれをわかったかのように並走していた面皮車は速度をさらに上げ、俺たちの車を追い越した。
当然のようにウインカーなど出さずに車線変更して眼前に躍り出ると、いきなりブレーキランプが点灯した。車間距離が一気に縮まり危うく衝突しそうになる。
俺は慌てて、ブレーキを踏んでそれを免れた。しかし面皮車は嘲笑うように再び速度を上げ車間距離を取り、そしてすぐさまブレーキをかけて詰める――を繰り返した。
典型的な煽り運転だった。
「っち」
「鞭打ちなるって! なんなんもう!」
俺はブレーキとアクセルを交互に踏みながら、腕を突き出して発砲した。しかし届かなかった。
再び舌打ちする。
「っち……姫眞」
「あい?」
「シートベルトはしているな?」
「へ? はい、してますけど……」
知っている。見ていたから。
「ならいい」
こいつを処理しなければ延々に不毛なカーチェイスに付き合わされる羽目になる。
そんなのはごめんだ。あと俺は煽られるのは好きではない。
「……踏ん張れよ、怪我をしたらすぐ言え」
「は、え、……うそ!?」
姫眞を危険に晒すわけにはいかなかったが、残念ながらこの状況で思いつく対抗策はこれしかなかった。
俺はアクセルを踏み込んだ。
そして、変わらずブレーキをかけ続ける面皮車に、追突した。
◇
フロントガラスが割れたが、幸いにも姫眞はどこか怪我をすることもなく、鞭打ちにもならずに済んだ。俺も無事だった。
車のほうは、無事ではなかったけれど。
ボンネットはひしゃげ、ヘッドライトも大破していた。ナンバープレートも外れかかっている。もともと廃車にする前提であったし、なんの問題もないだろう。
車を出て拳銃を構えた。姫眞も万が一に備えて棺を背負っている。
面皮車のほうはというと――
「あの衝撃で無傷とは……」
一切合切どこにも傷がなかった。しかしながら追突されることを予想していなかったのか、車は停車し現在沈黙を保っている。
俺は面皮に覆われた窓に向かって一撃を食らわせた。が、
「……な」
弾かれた。
防弾ガラス並み、否、防弾ガラス以上の強度である。
二発目、三発目と撃ち込むものの一切効果がなかった。
「……弾く、か」
ありえない話ではない。
ここは『異界』で『怪異』にとっては自分の庭も同然だ。相手の有利な領域で戦うのだから、俺たちが不利なるのは寧ろ自然なことだった。
「仕方がないな」
拳銃の弾は配給制だった。クソ面倒くさいことこの上ないが、仕事に取り掛かるたびに逐一『局長室』に顔を出している。最初から必要数支給してくれれば話が早いのだが、どうやら銃弾の素材のひとつに『慈母の祈祷』があるらしく、量産ができないそうだ。
ここで銃弾を浪費して、いやな笑顔を向けられながら小言を聞かされるのは勘弁願いたい。ので、俺は早々に拳銃を使うことをやめた。腰のホルスターにしまい、革手袋を外した。
その行動を見て姫眞が後ろから声をかけてきた。
「旦那……?」
「銃弾に効果がないというなら仕方あるまい、実力行使だ」
「えっ、でもそれって推奨されていないんじゃ」
「推奨されていないというだけで、禁止はされていないだろう」
「……わあ、暴論」
姫眞の言葉を無視して、俺は掌に気を集中させた。
熱がこもったかと思うとそれは冷え、腕があっという間に凍結した。
額に少しだけ重力を感じ、角が生えたことを認識する。空気が急激に冷やされて気体になり、俺の周囲を白く覆った。
すぐ隣にいる姫眞は俺の心臓を持っているので、凍りつく心配はない。
「……わかった。後のことはまかせて」
「……ありがとう」
鬼の力には『代償』、副作用がある。だから積極的に仕事に使いたくはないのだが。
今は言っていられる状況ではない。拳銃の攻撃が無効化されている以上、ほかに方法はなかった。
姫眞の手を借りるのも一瞬頭をよぎったが、標的がホテルのときよりも巨大なので彼女の体には相当な負担になるだろう。
こんな煽るしか能のないクソ野郎のせいで、姫眞がこの上なく疲弊するのは俺の精神衛生上よろしくなかった。端的に言って、とても腹が立つ。
霊力の高まりを感じつつ、俺はわだかまったその力を外に向けて放出した。
そして、一気に脳裏で描いた形に顕現させる。
「――<青嵐氷凍>〝極氷河〟」
車がなにかを感じ取って発進しようとしたが、残念ながら俺が詠唱し終えるより遅かった。
あたり一面が氷に包まれ、逃げられなかった面皮車は氷像と化した。俺は車に近づき、思いっきり腕を振り上げた。そして、氷像を叩き割る。全体に大きな罅が入って、車は砕けた。
そのとき、
――ずっといっしょ
という声が聞こえたような気がした。
◇
「……ねむい」
無様を晒すわけにはいかないと思っていたが、睡魔に負けてふらふらな姿はどう考えても無様である。
そんな俺に肩を貸しながら姫眞はトンネルを抜けた先、ガードレールの真下を眺めていた。
「……あれ、は……」
「お墓だね」
姫眞が言う。うすぼんやりとした視界のなかに飛び込む灰色の群れ。
おそらく墓石なのだろうが、眠すぎてそれをしっかりと確認することができなかった。
「資料にはなんて書いてあったの、旦那」
「……知らん……よくも、……おぼえて、いない……」
「そっか。……まあいいや、豪縋さんふらふらだし考察はあとにしよ」
「……ああ……、そう、……だな」
「おうち帰って寝よな、旦那」
やさしい声が心地よくて、俺は目を閉じた。
そこから先はなにも覚えていない。
◆
豪縋さんは鬼の力を使うと眠くなる。
これは豪縋さんに限ったことらしい。ほかの子から話を聞くとものすごくえっちしたくなるだけってことだから、多分豪縋さんはもともとえっちしたい欲がとてつもなく強いせいもあって、眠くなるんじゃないかと思っている。知らないけど。
布団のうえですやすや眠る豪縋さんを横目に俺は資料を開いた。
『クラクションを鳴らしてはいけないトンネルについて
煽り運転の横行により、事故車両が急増。
煽り行為についてはクラクションを鳴らすことが合図になっていた模様。
また、ガードレール下の墓場はすべてこの煽り運転の被害者と思われる。
加害者は恋人と共にトラックとの正面衝突事故で死亡。彼はいなくなる前、SNSにて車好きを公言しており、〝俺と車は一心同体〟〝煽られる程度で死ぬやつは車に乗る資格はない〟〝俺の強さを思い知れ〟という発言をして度々炎上していたそうである』
俺と車は一心同体、か。
じゃああの車はこの煽り運転をしていた子自身、ていうことか。
車は鉄の塊だし、扱いを誤れば簡単に凶器になる。だからって自分の強さとは関係ないと思うけれど、もしかしたらこの子はハンドルを握ると人格が変わっちゃうタイプだったのかもしれない。
強いって思いこみたいのはわかる。弱いと自覚するのは怖いから。
「……」
俺は攻撃に向いていない。だから本当は一緒に行くのはあんまりよくない。
役に立たないから。隣でわーわー言うくらいしか能がない。ホテルの一件はたまたま俺にだけ見えていたから、役に立ちたくてがんばったけど。一回で息上がっちゃったしな。
「……強くなるのは、むずかしいなあ」
豪縋さんは「お前はもう十分強いよ」って甘やかしてくれるけれど。
それに甘えてちゃダメなんだ。
俺は、傍にいたいから。
「……それにしても、なんであんな危ないトンネル放置してるんだろ……」
危険なら封鎖すればいいのに。
俺はそう思ったけどいろいろ面倒なあれこれがあるんだろうと思って考えるのやめた。
そういえば豪縋さん、気づいてないみたいだけれど。
俺知ってたんだよなあ、豪縋さんがわざと、俺にさびしいって思わせていたこと。
俺さ、一応狐の一族なんだよね。だからだますのは得意なわけ。
他人も、自分もさ。
※この怪異に関する注意事項※
このトンネルに向かう道路は封鎖されており現在進入することはできない。ただし、〝男女二人で車に乗る〟禁忌を犯すと進入可能である。
第六話〝心中ドライブ〟 了