第五話「そのホテルで、天井を見てはいけない」
どうして同じ性別じゃ子どもができないんだろう。
ぼくが男にも女にもなれたらいいのに。
そうしたらあの人の願いをどっちも叶えてあげられたのに。
子どもができる体、うらやましいなあ。
◇
目を刺すようなぎらぎらしたネオンサインとぼろぼろのカーテンが絶妙なバランスだった。
荒廃しているくせに、派手派手しさは健在。廃業しているような見た目だが、一応現役だそうだ。
ここは地方にあるラブホテル。歓楽街の隅に建っているホテルで、外見はほとんど心霊スポットのそれである。
事実、そういうことをお目当てにした動画配信者が時折やってくるらしい。そいつらから金を巻き上げて、現在まで営業しているそうだ。図太い。
撮影をしない俺たちは、通常休憩料金一時間八千円を支払って中に入った。
「壁薄そうなホテルやね。つうかこれで八千円はぼったくりじゃない?」
「最初からその魂胆だろう。立地も悪いし見たところ、設備も悪いようだからな」
壁はあちこち黒ずんでいるし、廊下の蛍光灯も切れかけている。無理矢理雰囲気を作り出すためか、蛍光灯の上にはピンクのセロファンが貼られていた。火事の恐れがあるので早急にやめてほしい。
案内された部屋は三階だった。エレベーターがないので、部屋まで階段を使って移動する。
「んで、ここでは何しちゃいけないんスか旦那」
「天井を見るな、とのことだ」
必ず寝転がるであろう場所で、天井を見るなとは。
なかなか無理難題だ。
ホテル全体は静まり返っているようで、繁盛しているらしい。薄い壁の向こうから嬌声が漏れ聞こえていた。フロントでもらった鍵のキーホルダーに書かれた部屋にたどり着いたので、キーを差し込んだ。それを回し室内に入る。この一連のなかで、三半規管を狂わせるような――『異界』に入る独特の感覚はなかった。
やはり天井を見ないことにはどうにもならないらしい。
部屋にはごく簡素な造りで、一通り必要なものは揃っていた。風呂場には穴の開いた椅子とマットがあって、ローションが用意されていた。ベッドの上には避妊具があり、およそ想像する通りのラブホテルの内装だった。
姫眞がベッドに座って、感触を確かめていた。
「……旦那、これスプリングイカれてるよ。ミシミシ言うもん。これじゃあ旦那とヤったら壊れちゃうね」
「しに来たわけじゃないんだから、別に気にすることじゃない」
姫眞は「ふうん」と全く信用していない顔をした。するわけないだろ、これは仕事だぞ。
姫眞はベッドをしきりに触りながら、備え付けの避妊具を見遣った。そして何を思ったのか、袋を破いて膨らまし始めた。
「……何をしている?」
「見ての通り、ゴムを膨らませてる」
「なぜ」
「なんとなく」
姫眞の奇行は放っておくことにした。
しかし、
「……なにもないな」
天井を見たものの、あの感覚はしなかった。『異界』に入ることができていない。
『禁忌』が違うのか。それともなにか足りないのか。
考えながら長細い風船を完成させた姫眞を見た。彼女は作って満足したようで、さっさとゴミ箱に捨てていた。本当になんだというのか。
一旦、姫眞の隣に座ることにした。俺の分の体重を受けたベッドがみし、と軋んだ。確かに沈み込む感覚から壊れそうな予感があった。
「なにもないん?」
「ああ、なにもないな」
「俺も天井見たけどなにもなかったよ」
「そうか」
じゃあ見るなというのは誤りだったということか?
狂輔さんの資料に間違いがあるようには思えないが、嫌がらせで嘘の情報が含まれている可能性は十分にあり得ることだった。ベッドに腰かけたまま周囲を観察した。特に異変はない。『異界』に入った体感もない。
「……わからん」
暇を持て余したのでテレビでもつけることにした。テレビのリモコンは姫眞の反対側にあるサイドテーブルの上だった。
「姫眞、リモコン取るぞ」
「はあい、どうぞ」
姫眞は動かなかった。仕方がないので彼女をよけて手を伸ばす。
その時だった。
――ぐわん
どういう意味だ? と俺がリモコンから視線を外す。すると姫眞が天井を凝視して固まっていた。
「……なにあれ……」
呆然と呟く姫眞の目線を追って天井を見た。
しかし、何もいなかった。
◇
「なにが見えるんだ?」
「……な、なんかよくわかんない。ひっ! 目が伸びた」
「目が伸びた? 首ではなく?」
「め、目だよ! かたつむりみたいに伸びよって……ひぃ!」
姫眞は俺を盾にするようにしがみつく。彼女には天井にいる何かが見えているようだった。
なぜ今になって見えているのか。状況を再認識する。
先ほど何をしていたか。俺は姫眞に覆いかぶさっていた。
――なるほど?
「キモイ! ちょ、ひえ、やだやだ来んなぁ!」
「――姫眞」
「え、な、なに!?」
「押し倒すぞ」
「は!?」
こんな状況で何考えてんの!!
姫眞は叫んだが俺とて怯えるお前が可愛いから我慢ならなくなった、わけではない。いや可愛いのは事実なのだが。
姫眞をベッドに横たえると、寝転んだ彼女はさらに顔を青くさせた。
「はっきり、はっきりしたよ豪縋さん!! 姿が、なにあれ……全身タイツお化け?」
「全身タイツお化けってなんだ」
全く想像のできないたとえだった。眉間に皺が寄った。
姫眞は一生懸命になって天井にいる『怪異』について説明する。
「なんか、その……全身肌色なんだけどそういうやらしい部分は全部なくて……あと、目! 目がさあ! かたつむりの触角みたいに伸びてきてて……うっわ、ちっけえ!」
「俺には全く見えんのだが……どういうことだ? 押し倒された側にしか見えんということか?」
「じ、じゃあ豪縋さんも上に乗れば同じものが見えるの……?」
確かに。
体をぐるりと回転させて俺の上に姫眞が乗った。服を着ているので妙な気分になりは、しない。あまり。
姫眞が「どう?」と訊いてくるので天井を見たが、
「……なにもないな」
相変わらず天井はそのままだった。
どうやら本当に姫眞にしか見えていないらしい。
「俺にしか見えないってマジで……?」
となると。
「お前が指示を出して俺が処理する、でもいいが」
「……へ」
「俺にはどうあがいても見えん。ならば方法は二通り。お前が処理をするか、俺がお前の指示をもらって処理するか」
「……ちょ、ちょっと考えさして……」
「構わんが」
悠長にしていていいのだろうか――見えない俺にはわからないので、閉口する。
姫眞は上に乗ったまま思案し始めた。俺はただ組み敷かれたままじっとしているしかなかった。
彼女は美しい顔立ちをしている。睫毛もとても長い。肌も白く陶器のようだ。あらゆるところが柔らかく発達した彼女の体は俺とおそろいしたいという希望から漆黒の衣装だった。
――本当に美しくなった。
姫眞の一人称が『俺』なのは、彼女がもともと男として生きていたからである。
一族の習慣だった。彼女の一族はその年に男がひとりしか生まれないという特殊な種族だった。たったひとりの男を奪い合う女同士の軋轢を緩和するために、生まれた存在。それが『細愛荘子』――女が化けた男たち。即ち姫眞の過去だ。
姫眞は〝眞也〟として俺の経営する会社にやってきた。
一目惚れだった。
あのときのことはいつでも鮮明に思い出せる。雷に打たれた、とはああいうときのことをいうのだろう。
こいつは俺の伴侶になる。決して誰にも奪わせない。
そう強く感じた。
――その通りになったんだがな。しかし……
よくよく見ていると、結構際どい恰好をしている。
足を広げているからスカートの中が見えそうだし、前かがみになっているので胸元も危うい。
どこもかしこも危険だった。当人は頓着しておらず、ずっと考え込んでいる。何をそう考えているのか知れないが、――まあいいか。
こんなにじっくりと彼女を楽しむ時間はなかなかないのでこの機を有効に活用することにしよう。見ているのは俺だけであるし。
褥じゃ、肢体を見て楽しむより貪るほうが優先されてしまうからな。
「……な」
ああ、本当に美しい。
誰の目に触れないところで一生閉じ込めて、傍でずっと愛でていたい。しかしそれは姫眞の意思に反するからしない。
これでも抑えているほうなんだぞ? 褒めてほしいものだな。
「……んな」
この子に暇つぶしとは言ったものの、実のところそれ以上の価値を感じている。
――しかし、仕事だからな。仕事は淡々とこなしてこそ、だろう。仕事に対する姿勢は至極真面目であるという自負がある。誰よりも、だ。
だからこそこうして、俺の妻が苦悩する姿を目に焼き付けている。
これも仕事だ。待機だって立派な仕事だろう。
「……だんな!」
可愛いな。どこをどうとっても可憐だ。
天使など信じていないが、いるのならこの子のようなことを言うのだろう。
ああ、眉を吊り上げて怒るような顔だちも、
「おい、むっつりすけべ! 俺の顔見てにやにやすんな!!」
ばちん、と平手で頬を叩かれた。
痛いな。
◇
「俺がやるよ。俺だって戦えるし」
「怖くないのか?」
「俺の顔見てにやにやしてたやつよりぜんっぜん、怖くねえよ」
姫眞はふふんと鼻を鳴らした。自慢げで可愛い。
形勢逆転――ではないが、現在上下は交代している。つまり俺が姫眞を押し倒している図である。
姫眞の目にはやはりずっと天井の『何か』が見えているようだった。
「お前をじっくり観察する機会だったからそうしたまでだが」
「途中から口元緩んでたよ旦那。何考えてたん」
「お前が美しいことを考えていた」
「……あっそ」
姫眞は半眼になった。お前が美しいことを考えるのも、また仕事だ。
胸元のチェーンを引っ張った。チェーンの先には四角い箱のようなものがくっついていた。
「それは?」
「え、旦那知らんかったん? これはメゾロンテ。ぬいぐるみにしとってもええんやけど、メゾロンテ甘えん坊やし恥ずかしがり屋やからここにいるんよ。――出てきて」
呼びかけると小さな箱は淡い光を放ち、箱から光の球体が飛び出した。それは徐々に丸みを帯びた物体に変化した。
メゾロンテ――フルネームは確か、グレゴリウス=ド=メゾロンテ――、姫眞とずっと一緒にいる『使い魔』である。見た目はツギハギされた猫のぬいぐるみだ。その両目を包帯で覆っており、首元にはレースのリボン。可愛らしい姿のこの子は姫眞の扱う棺の仮の姿である。
メゾロンテは「はわわ」と言って姫眞の腕の中に飛び込んできた。正確には俺と姫眞の体の間に。
「お、お楽しみ中だったですか? ロンテおジャマしたですか?」
「あー違うて、メゾロンテ。ちょっとアグレッシブな感じにお願いしたいん。できる?」
「はいです! マスターのためなら、ロンテがんばります!」
健気な返事だった。少し姫眞に似ている。
いい子、と姫眞はメゾロンテを抱き締めた。
その瞬間、激しい光が視界を覆った。光の中に姫眞の声が響いた。
「――<臆病者は棺を振るう>!」
光がやんで、目を開くとそこにいたのは姫眞ではなかった。
巨大な棺だった。デフォルメされたネコが描かれた真っ黒な棺の上に俺はまたがっていた。なんともシュールな構図だ、棺の両端から激しい勢いで何かが飛び出して、俺の頬をかすめた。それは銀色の鎖だった。
鎖が俺の左右で動きを止めた。絡みついた『何か』を縛り上げているようだった。
「……ぐぅ、……きっつ」
苦悶の声が棺からこぼれた。
「……抵抗しているのか」
「そ……うるせえんだよ……ずっと。いいないいなって……」
「『怪異』がそう言っているのか?」
「そう……っ!!」
棺の声は一層苦しげなものに変わった。
俺は手出し無用である。手を出そうものならどんなへその曲げ方をされるか。
――マスター!!
「……だい、……っじょう……ぶ! そ、ろそろ……!! ぐ、おぉぉ……!!」
姫眞は防御と封印に特化している。傷つけることに慣れていない。
眞也であった頃用心棒をしていたから、体術などの心得はあるものの、いつもどこかに躊躇いがある。
「っうあああ!!」
姫眞の叫び声がして、棺が粉々に割れた。細かな破片が視界を一瞬覆い、そして晴れた時には苦悶の表情を浮かべる美しいかんばせが目に飛び込んできた。
「……ごぅついさん……」
弱々しい声で俺の名を呼ぶ。
愛しい妻が、俺を呼び縋っている。
だから、答えた。
「――お前は十分強いよ、姫眞」
だから誇っていい。
姫眞を抱き締めた。
俺のために、俺の役に立とうとする愛らしい妻を力いっぱい抱き締めた。
◇
「あれ、ゼッタイ持て余した性欲の『怪異』だよ」
「……なんだって?」
ホテルを後にして帰宅する道中、姫眞がそんなことを言った。
腕を組んで神妙な面持ちで言うものだから、俺は思わず眉をひそめた。
「だって俺たちのえっちを『いいなあいいなあ』って言って覗いてるんでしょ? だったら経験がなくて死んでしもうたけど、やっぱえっちしたいっていう『想い』が『怪異』になったんと思うんよ」
「……」
俺はほとんど聞き流していたが、ふと姫眞の『かたつむりのように目が伸びた』という言葉を思い出していた。
――かたつむり、か。
「……あながち間違いでもないかもな」
「そーでしょ! 俺ってば天才!」
「さて、そんな天才の姫眞に朗報だ」
「へ?」
俺が振り返ると姫眞はきょとんとしていた。
可愛い。今日も俺の妻は可愛い。しかし、心苦しいがこれは伝えなければならない。
「今日の報告書はお前が書け」
「え?」
報告書は毎回書かなければならない。
書かずに放置するのは俺の美学に反するし、催促も来るので仕事を終えたらすぐに書き上げている。
「今回の仕事の功労者はお前だ。俺は何もしていない」
「う……俺、ああいうのニガテなんですけど」
「知っている」
だから悩みながら書くお前の姿を見ていたいんだ、と続けた。
すると姫眞はありったけの大声で「むっつりすけべ!!」と叫んだ。
俺は聞こえないふりをした。
第五話〝一人二役〟 了