第四話「その部屋に、住んではいけない」
女には賞味期限があるらしい。
それは大変だ! 私を余らせてはいけない。
だってママが言ったから。
あなたの取柄なんて、そのカラダぐらいしかないって。
――だからちゃんと、分けてあげなさいって。
◇
その駄菓子屋は気まぐれに出現する。
大抵は坂の途中にあって、なぜかと聞けば「そのほうが駄菓子屋らしいだろう」という答えが返ってきた。つまるところ、何か意図あってのことではない。
『だがし屋・から紅』と手書きで記載された看板を見上げて、俺は入口の引き戸に手をかけた。
普段のままだとこうして手をかけたこの時点で、建物全体を凍らせる恐れがある。氷の鬼とはなかなかどうにも面倒だった。
早朝なのでいつもいる店番はいない。引き戸の向こう側には今まさに出かけんとする店主の姿があった。
角もないし、無数に浮かぶ手もない。俺と同じひとの世を渡り歩くための『器』の姿だった。
店主は、俺をみとめると目を細めて口角を吊り上げた。
「珍しいやつが来たな」
ここに訪れることはあまりなかった。
俺自身も店主だったからという理由もあるし、単に来る用事がなかったから、というのもある。
「そうだな」と答え、持ってきた土産を鼻先に突き出した。
「ん? これは」
「酒だ」
「ほう? なぜまた酒なんかを」
「お前の好物といえば、ギャンブルか酒かしか思いつかん」
「あとは……夜鴉だな」
「それはもう手に入れているだろうが」
もうずいぶん前に。
派手なアロハシャツにダメージジーンズ、素足に下駄という一体どこの風来坊なのかと思う恰好の店主――紅蓮は笑いながら酒瓶を受け取った。
どうせこれからパチンコに行く気だったのだろう。
「お前こそなんだその恰好は。そんな柄のシャツを持っていたか?」
「これか? これは夜鴉が買ってきてくれたんだ」
「……」
趣味が良いとは――少なくとも、俺には言えなかった。
ドでかい柄が目に痛い色でこれでもかと配置されている。俺だったら絶対に選ばない類の派手さだった。
視線の意図を理解したのか、紅蓮は「嫌がらせだよ」と言った。
「嫌がらせ?」
「そう。可愛いだろう?」
「よくわからんが……そうか」
「……で、お前はなぜ俺に酒なんかを? 晩酌がしたいのか?」
「まさか。夜は忙しいんでね。まあ、詫びだ」
「詫び?」
紅蓮が不可解な顔をした。
「ああ、昔お前が俺に『性欲と食欲が似ている』と言ったことがあっただろう」
「ん? あぁ……言った、かもな」
「俺はあの時否定したが、最近になってお前の言っていたことは正しかったとわかってな。だからその詫びだ」
赤と金の目が瞬いた。
驚いているようだった。
「……なんだ」
「いや……相変わらず律儀だな、と」
「? 非礼に対して詫びをするのは常識だろうが」
「ああ、まあ……そうだな」
何か問題でもあるのだろうか。
歯切れの悪い紅蓮に俺は眉間に皺が寄るのを感じた。
暫くして酒瓶を脇に置くと「大切に飲ませてもらうよ」と言った。
「とっとと飲め。大切に飲まれても気味が悪い」
「詫びだと持ってきてその言いぐさはないだろう、豪縋」
紅蓮は頭を掻き、立ち上がる。
からからと下駄の音を立てて彼は入口に近づいた。
朝日が眩しい。後光のように太陽を背負って、眼前の男は笑っている。
「仕事のほうはどうなんだ? 順調か」
「今のところはな。お前こそ、あまり店主の仕事を疎かにするなよ」
「クズの俺に仕事をさせようとするのは無理な話だろうなあ」
「居直るな」
俺は紅蓮の横をすり抜けて店内を出た。
「それじゃあな」
「――豪縋」
呼び止められて俺は振り返った。
相変わらず口元には笑みを浮かんでいる。
「なんだ」
「あの酒はどういう冗談だ?」
「ああ……」
俺の返事に紅蓮は肩をすくめた。
渡した酒の名前は『鬼潰し』だった。
「狂輔さんに言われたんだ。俺にはユーモアがない、と」
「ほう、それで考えた末のユーモアがあれか?」
「問題でも?」
「いいや、実にお前らしい」
紅蓮にそう言われてなんとなく悪い気がしないのが、忌々しい。
古の習性は何度生まれ変わろうと引きずるものらしい。
「……そういえば豪縋」
「なんだ」
そろそろ家に帰りたいのだが、と思いつつ俺は返事をする。
「お前の仕事に姫眞を連れて行っているそうだな?」
「ああ。ついていきたいと愛らしい駄々をこねるのでな」
「そうか。……お前としては不本意なのだろう?」
紅蓮の指摘に俺は閉口した。
「相変わらずだな。〝大切なものは閉じ込めておきたくなる〟お前の悪癖は」
「……〝愛おしいものほどぐちゃぐちゃに壊したくなる〟お前よりマシでは?」
悪癖。逃れられない本能が成す俺たちの治しようがない壊れた部分。
けれど壊れているという自覚はあるので、自制はできる。
自制した末に、沈殿していくのが食欲なわけだが。
「ふふふ、いやはや。俺たちはかつての俺たちからなんの成長もしていないな」
「する気もないだろうが、白々しい」
紅蓮がなにか言う前に俺はさっさと踵を返した。
あいつがどういう顔をしていたかは知らない。知る必要もないことだった。
「えぇ! 駄菓子屋さん行ったん? せやったら連れてってくれたらええのにぃ!」
家に帰って駄菓子屋に行っていたことを伝えると、姫眞が頬を膨らませて文句を言った。
「朝早かったし、お前は寝ていただろ」
「そら旦那にあれやこれやされましたから」
「そいつは悪かったな」
俺は机の上に置いてある、これから取り掛かる仕事の資料に目を遣った。
今回は少し長期戦になりそうな予感がしていた。
◇
「〝住んではいけない〟って言われるにしては、結構きれいな部屋だねえ」
姫眞の感想に俺は素直に「そうだな」と答えた。
駅に近い激安物件。風呂なし、トイレと洗濯機は共同の六畳一間。想像していたよりも建物はきれいだった。
外壁にひび割れや手すりの錆びつきなどは見られたが、ボロいという印象は受けなかった。それなりに整備はされているようだった。
部屋数は六部屋で現在一部屋も借りられていない。すべて空き部屋である。
そのうちの一部屋が件の『住んではいけない部屋』なわけだが、その部屋の噂のせいで長年入居を希望する者がいないという。
大家は不動産会社から、俺たちの話を聞いて最初はいたずらだと思ったらしい。だから実際にあいさつに来たときに腰を抜かす勢いで驚いていた。
「あんたたち、夫婦かなんかなのかい」
大家の老婆が俺たちを見て言うので「ええ、そうですよ」と答えた。すると老婆はなぜか姫眞のほうを見て気の毒そうに、
「……あんたも男を見る目がないね」
と言った。
こんなボロアパートにしか住めないような男はやめておけ、と姫眞を慮っての言葉なのだろう。
姫眞はそれを受けて、首を傾げて「そんなことないよ? おばあちゃん」と言って老婆を逆に怒らせていた。老婆は老婆扱いされるのが不快らしい。事実だろうに。
部屋に入って腰を下ろし、コートとジャケットを脱いだ。かける場所はないので、その場に置く。
畳に妙なシミがあるわけでもなく、壁に何か浮き出ているというわけでもなさそうだった。
「ねえ、旦那」
「うん?」
姫眞が膝をそろえて俺の隣に座った。前かがみになって近づいてくるので、俺は思わず仰け反った。
「旦那ってそのカラダでも冷たいんだね」
「ん? ああ」
人間でないモノがひとの世を歩くには媒介が必要になる。その媒介が『器』と呼ばれるかりそめの肉体だ。基本的に血肉通わぬ卵の殻のようなもので、体温はない。加えて俺はもともと氷で体ができているので、更に低いのである。
「今更なんだ」
「えっちするとき全部熱く感じるから不思議だなーって」
ああ、でもあれか。冷たすぎると逆に熱く感じるってやつかなあ。
姫眞はなんともなしに言うが、俺にとって理性を焼け野原にしそうな勢いの爆弾だった。
――が、さすがに来て早々事に及ぶのは……
と思い、俺は意識をそらすため、窓の外に目を遣った。
「……」
明るい日差しを遮るように影がべったりと窓に張り付いていた。
髪の長い女だった。逆光で顔はよく見えなかったが、室内を凝視していることだけはわかった。
住むという定義が永住なのか、一時的でも適応されるのか正直不安だったが、とりあえず部屋にいさえすればよいらしい。
ならよかった。この部屋は壁が薄そうだから。
◇
近くの銭湯に行き、帰りにコンビニで飯を買って帰る。あまりしたことのない生活に姫眞は興奮していた。
「質素な生活ってなんかよくない? 旦那ってはタワマン住みやったし」
「会社が近かったから借りていただけだ」
「でもタワマン……」
「……」
確かに豪勢な暮らしをしていた自覚はあるが、質素すぎるとそれはそれで文句を言われる身分だったから仕方がない。
威厳が大切だ、そういう世間体も鑑みて振る舞え、というのが当時の俺の立場で、だから言ってしまえば見栄を張るために住みたくもない高級マンションなんぞに居を構えていた。
「いやだったのか?」
「そりゃだってほぼ無理矢理住まわされたし、帰ってきたらひんひん喘がされるし、ええ思い出はないよね」
「……」
事実なので何も言えなかった。
コンビニの惣菜に箸をつけながら、俺は昼間見た影のことを思い出していた。
あの時まだ『異界』には入っていなかった。しかしながらあれが元凶たる『怪異』であると見て間違いはないだろう。
住んではいけないの禁を犯しているのだから、もうすでに入っていてもおかしくないのだが、今のところ正常である。
――もしかしたら感覚が狂っているのかもしれないが。
「姫眞」
「んー? このさやえんどうの胡麻和えおいしいね、旦那。おうち帰ったら作ってみよっか」
「ああ、そうだなありがとう……じゃなくて」
「ハイ」
「お前、昼間窓の外のものを見たか?」
「窓の外の?」
姫眞がこてんと首を傾げる。こういうところが子どもっぽくて可愛い。
「……ううん、俺は見てないよ。旦那は何か見たの?」
「女の影を見た」
「ひゃう」
姫眞が背筋を正した。
「……旦那、夜に俺がおトイレ行きたなったら一緒に来てね」
「はいはい」
わざわざ言うことではない。
普段から夜中に手洗いに行くたびに叩き起こしているだろうに。
◇
事が起こったのは、昼間だった。
朝の十時ごろ、突然来訪者がやってきた。部屋は空き部屋だけ、いるのは大家ひとり。
最初は大家かと思ったか、ドアののぞき穴で確認するとそこにいたのは真っ白なワンピースを着た髪の長い女だった。手に何か持っている。
「……お出ましか」
俺は拳銃に触れながら慎重に扉を開いた。ぐわん――あの、独特の感覚が脳味噌を揺らした。
女は扉の前で佇んでいて、俯いているせいで顔がわからなかった。わかったとてどうせこいつも潰れていたり、えぐられていたりしてまともじゃないのだろう。だったら見ないほうがマシである。
女は手に持っていた風呂敷を半ば押し付けるようにして差し出してきた。断る理由もないので、俺は素直に受け取る。俺が受け取った瞬間、長い髪に隠れていた相貌の、口の部分が弧を描いたような気がした。
扉を閉めて風呂敷包みを見遣る。
「旦那?」
「おすそ分け、というやつかな」
「どこから……?」
「『怪異』から」
「うわぁ……」
風呂敷包みを解き、包まれていたタッパーの蓋を開く。何かのソースにかかったサーモンの切り身が入っていた。香りからしてレモンだ。見た目は美味そうだが。
「なあにこれ」
「さあな。中身は……マリネか?」
「マリネ……え、でもなんかコショウ……? これ?」
姫眞が艶やかな切り身のうえに降りかかっているそれをつまんだ。
コショウにしては形が長細いようだし、黒くもない。干からびたような玉ねぎのような物体だった。
まじまじと見ていた姫眞が「っひ!」と言って手を離した。
「……なんだ?」
「……旦那、これ……爪だよ……」
「……」
マリネに爪、か。
爪を煎じて飲め、という言葉があるが、爪そのものを食らえとは。斬新な料理だった。
正直ドブみたいな料理を食わされた身からすれば、鳥肌が立つほどではなかった。
「……ねえ、これ食べるん?」
「さすがに他人の爪は食いたくないな、お前の爪ならいくらでも食うが」
「いやそういうことじゃねえだろ」
真顔で突っ込みを入れられてしまった。
割と真面目だったのだが。
もったいないとは思いつつ、俺は爪入りのマリネをゴミ箱に捨てた。
◇
次の日も『おすそ分け』が続いた。
翌日は髪の毛のたっぷり入った卵焼き。最初は焦げかと思った。
その次の日は指が丸ごと混入したナポリタン。見事にウインナーに擬態していたので、少しだけかじってしまった。まずかった。
ある日は歯と舌が具材になったカレーライス。擬態すらしていなかったので食うことはなかった。ルーはなかなかうまかった。
またある日は×××が×××されたパンケーキ、×××が××に和えられたチキンライスが入ったオムライス。洋食が得意らしい。
食品を捨てているとき、姫眞が言った。
「……女の人、姿変わってるよね」
髪の毛の入った卵焼きを持ってきたときは、髪が短くなっていた。
ナポリタンのときは両手に包帯が巻かれていた。体の輪郭も崩れているように思えた。
食材は彼女自身、ということだ。なおの事、食べたくはないのだが。
「私を食べて、ってやつ? この部屋に前住んでいたひとのこと、好きだったんかなあ」
姫眞が鍋を掻き回しながら呟く。
彼女が作っているのは豚汁だ。俺がリクエストした夕食である。
手伝いを申し出たが、「キッチン狭いしええよ」と断られてしまった。
「資料には最初の住人は離婚調停中の夫婦、次の住人は借金まみれで部屋を追い出されたSM嬢とその奴隷、次は夜逃げしてきたヤクザとその娘?」
「癖強いなァ~、てかすごい詳細過ぎない?」
「狂輔さんが面白半分で調べたんだろうな……」
どの住人も一時的なものだったのだろう、一年と経たず退去している。
或いはアレが原因、という可能性もある。
「でもみんなふたり一緒だね? ひとり暮らしのひといないん?」
「資料には……いない、な」
「ふうん。だったら好きって感じじゃないのかな~」
部屋に美味そうな匂いが立ち込めてきた。
俺は立ち上がって姫眞を後ろから抱き締める形で鍋を覗き込んだ。
「ひょわっ」
「ん、うまそうだ」
「びっくりしたー……って、当たり前やん、俺が豪縋さんのためにどれだけお料理練習したと思ってん?」
その言葉に自然と口角が吊り上がってしまう。
もともと彼女は料理に関してはからきしだった。基本的にはいつも俺が作っていたのだが、姫眞が俺に食べさせたいといって練習してくれたのだ。
今では俺の好物は軒並み全部作れる。本当に健気で可愛い妻である。
「えへへ、こうしとると新婚さんみたいやね」
いや、お前……マジで、可愛いな?
しかし察した姫眞には先んじて「おゆはん終わってから」と怒られてしまった。
夕飯が終わってから、存分に味わわせてもらった。
◇
ずるっ、ずるっ、と何かを引きずる音がしている。
早朝に聞くなら雀の鳴き声にしてほしい。
上体を起こしてドアのほうを見た。キッチンのすりガラス越しに誰かが横切った。項垂れている。枕元に用意していた拳銃を手にし、散乱した衣服を拾い集めて身に着けた。
姫眞がもぞもぞ動く気配がしたので小声で準備しておけと伝える。
拳銃を構えた状態でドアの前に待機した。
ドンドンッ
ドアが叩かれた。
引き金に指先をかけた状態でドアノブを回した。
おすそ分けの女がそこにいた。
「……」
女の顔にはつぶれてもいなければ、えぐれてもいなかった。目も鼻もきちんとあるし、顔の輪郭もはっきりしている。原形を留めている場合もあるのかと俺は驚いてしまった。割と素朴な顔立ちをしていた。逆を言えば印象に残りにくい顔立ちとも言えた。
だが、丸刈りになっている頭と、ぐちゃぐちゃになった胸部と内臓がはみ出ている腹が強烈な衝撃を残した。
女は俺を見て笑った。笑った拍子に半開きになった口から大量の血液があふれ出た。歯はない。ぜんぶカレーの具材になっていたから。
ぼたぼたと赤い液体が彼女のワンピースの襟口を汚した。
何か伝えたいことがあるのかもしれない。
だが、俺には関係がない。
「そろそろ薄い壁は勘弁願いたい」
女の頭は破裂した。水風船のようだった。
赤黒い脳漿があたりに飛び散った。僅かに頬についたので気分が悪かった。
◇
老婆には「もう変なものは出ないぞ」とだけ伝えて退去した。
なんのことやらわからぬ、という顔をされたが説明する義理もないので何も言わなかった。
「ねえ、旦那。あの子ってなんやったんやろ?」
「切り売り娘、だな」
「え?」
姫眞が驚きに立ち止まる。
「母親に体を売ることを強要されたが、まともに教育を受けていなかったせいで勘違いした。自らの体を切り売りすることを求められたのだと思って、隣人に自分の体の一部が入った料理を振る舞っていたらしい。乳房を切り取った時点で死んでいるだろうが」
「……大家さんは知ってはったんやろか」
「さあ。大家が母親だという可能性もある」
「……っ!」
正気の沙汰ではないが。
しかしながらあの老婆はやたらと若さにこだわっていたように見えたので、もしかしたら。
俺たちは老いることがないけれど、生きている者は生まれ持った若さを失っていく。
それを恐れるか、受け入れてうまく付き合うか――それは俺の考えることじゃない。
ねえねえ、と姫眞が俺を呼んだ。なんだ、と振り返ると彼女は、
「豪縋さんは、俺がおばあちゃんになっても好きでいてくれる?」
と訊ねてきた。
面食らったが、答えは決まっている。
「どんなお前だろうと関係ない。俺はずっとお前のことを愛しているよ」
姫眞は「キザだな~」と言いつつ、嬉しそうに笑った。
第四話〝若さの期限〟 了