第二話「その角を、曲がってはいけない」
作法を守れ、必ず守れ。
素直な良い子がいちばん。
へそ曲がりは、遊ばれるぞ。
◇
「おすけべさん」
「なんだそれは」
「旦那の新しいあだ名」
「却下だ、燃やして捨てろ」
「えー」
妙なあだ名をつける経緯に関してはなんの説明もなかった、理由もなしに許可ができるわけないだろうが。
そんな会話をしつつ足場の悪い道を歩く俺たちが向かっていたのは学校だった。
数十年以上も前に廃校になったその場所は、心霊スポットとしても大変有名らしい。しかし来訪者は全員行方知れずになっているので、何があったか伝えられてはいない。
廃墟とはいえ所有者の許可なしに出入りするのは不法侵入だろうに。
「でもそれって俺たちにも言えるよね?」
「俺たちは人間じゃないから問題ない」
「屁理屈」
「うるさい、口塞ぐぞ」
「ヒールで足の小指を重点的に踏んでいいならしていいよ」
「……」
俺は黙った。姫眞は花のかんばせを勝ち誇った表情にしている。
――ああ、今日も俺の妻は可愛い。
感慨深く思いながら足場の悪い道を進む。雑木林が周囲を覆い、外からほとんど見えない立地。それゆえに夜中に訪れると雰囲気が出るそうだが、昼間に来ている俺たちにはその雰囲気とやらがよくわからないが。
「ここではなにしちゃいけないの?」
「廊下を曲がるな、だそうだ」
「……は?」
「廊下を曲がってはいけないそうだ」
「……ねえ、豪縋さん。俺ね、豪縋さんってつくづく言葉が足りないと思うの、パッションでひとは動かないよ」
「なぜ熱血経営者のような諭され方をしているんだ?」
この学校は、入学する人数が年々減り最終的に閉校に追い込まれたという。経緯としては実にありがちなことだった。加えて取り壊そうとするたびにやれ子どもの声が聞こえて眠れなくなるだとか、やれ作業員の精神がいかれるだとか、そんなことが連発したために、取り壊しもできないというお約束の展開を見事になぞってこの地に置き去りにされている。
入り口には札のようなものが散乱していたが無視して、昇降口から中へ侵入する。
長らく放置されている割にはさほど荒れてもなく、案外きれいだった。こうも自然に囲まれているから中にもっと野生動物の痕跡だとか落ち葉だとかが堆積していると思ったがそうでもないらしい。建物自体も真新しく、手入れはされているように感じた。
奇妙だった。ずいぶん前にできたものが放置されて廃れているのではなく、新しいものを建てたうえであえて放置しているように思えてならなかった。
建物の生い立ちなど仕事に何ら関係がないので思考するだけ無駄なのだが。
一階には曲がり角がなく、すべての廊下が行き止まりだった。二階へと上がる階段を上っている最中、姫眞が話しかけてきた。
「そーいえばさ、ここに来るときにおばあちゃんに会ったやん」
学校の近くには高齢者しか住んでいない小さな村があった。学校に向かう途中で、その村の今にも死にそうな腰の曲がった婆さんに俺たちは呼び止められたのだ。
「ああ、近くの村の婆さんか」
「あのひと、作法がどうたらーって言うてはったよね。作法ってなんやろ」
「さあ」
「……」
「なんだ」
「旦那ってほんっとーに仕事を全うする以外に興味ないよね」
「そうだが」
「……もうちょっと雰囲気ってもんないかな~? おばあちゃんの言っていたこと結構重要な要素じゃない?」
「……なにを言われたか、もう覚えていないな」
「うそだろ」
あそこに行くのかと尋ねられたので俺は是と答えた。すると婆さんはひどくいやな笑顔を作って、
「『気をつけろお、〝作法〟がねえと遊ばれるぞお』……だよ」
「作法、な」
「どういうことなんやろ? ってずうっと考えてたん。なのに旦那、ずっと俺のことを見てにやにやしとるからおすけべさんって言うたん」
「悩むお前が可愛くて見とれていたんだ、すまない」
「……旦那ってさ、とりあえず可愛いって言っておけばいいって思ってない?」
「は?」
「は、って。だって俺がなにか言うたんびに可愛いからって……」
「事実だからだが?」
「ひ……っ」
可愛いものを可愛いと言って何が悪い。
言っておけばいい、だと? まさか、馬鹿なことを。
お前は可愛い。いつ何時も、常に可愛い。だからそれを言葉にして伝えているだけだ。
ああ、そうか、もしかして――
「好きだ、と言ったほうがいいのか?」
「へ?」
「可愛いよりも好き、あるいは愛していると言ったほうがお前は――」
「いいです! あ、いやこれはイエスじゃなくてノーね! つうかなにそれ、俺が発言すると告白するシステムになるってこと……?」
「システムと言われると肯定しがたいが……まあ、そういうことになるな」
「じゃあ今のままで問題ないです……」
「そうか?」
「だって好きだの愛してるだの毎回言われてたら、俺の羞恥心がバクハツするから……」
「……あったのか」
「あるわッ!! 馬鹿にすんなっ!?」
ああ、怒るお前も可愛いなあ。
「……旦那ってなんでこのお仕事するって決めたん?」
姫眞が藪から棒にそんなことを聞いてきた。
「なぜそんなことを聞く?」
「なんとなく」
「ほう」
「なあに、答えたくないって?」
「いいや」
「じゃあ」
「――暇だったからだ」
そう、暇つぶし以外のなんでもない。
仕事であるから真面目に取り組んでこそいるが、そこに取り立てた意欲もないし世の中を良くしてやろうとかいう善意もない。
「……え、それだけ?」
「それだけだが」
姫眞は一瞬立ち止まってから、
「……ふうん、そ」
と言った。あまり納得していない表情だった。
「なんだ、その顔は」
「いやだってさ、旦那って損得で物事考えるでしょ? 得になるからとか言うのかと思った」
「……ああ、まあ、そう……だな。得ではある」
「へえ? どういう?」
「――お前と二人で出かけることができて俺は存外楽しい」
体よく遠出できるので、俺としては旅行のついでに仕事をしている感覚だった。
狂輔さんになにか言われそうだが、あのひとだって、そこまでシリアスになれとは思っていない、はずだ。
「ふうん」
「どうした」
「んーん。旦那って、時々真面目なのか不真面目なのかわかんないなーって思っただけだよ」
「仕事は完遂する、それ以外は適度にやる」
答えると、再び「ふうん」と姫眞は相槌を打った。
二階の廊下にも曲がり角はなかったので三階へ上る。階段を上がってすぐ目に飛び込んだのは曲がり角だった。
「で、どこの角で曲がっちゃダメなの? 左折禁止? 右折禁止?」
「――あそこだな」
「お?」
姫眞が後ろから覗き込んだ。
電気が通っていないから暗いというのは不自然ではないけれど、そのことを抜きにしても曲がり角近辺は異常な暗さだった。日の光が十分取り込める大きさの窓があるというのに、黒い靄がかかっているように薄暗い。
「あの矢印なに? なんて書いてあるの?」
「さあ、ここからでは読めんな」
その薄く広がる闇の中に赤い矢印が見えていた。矢印のうえに何が書かれているかは遠目では判断できなかった。およそ看板かなにかであろうが、近づく以外に確認する術がない。――まあ、曲がることが目的なので近づくのは当然の行為なのだけれど。
曲がり角に向かって歩き出すと腕が引かれた。姫眞が縋りついているのだ。宝石のような瞳に恐怖が映し出されている。
「怖いか?」
訊くと姫眞は必要以上に首を横に振った。かんざしの雫型の飾りが激しく揺れた。
「ぜ、ぜぜぜんぜん」
「声が震えているようだが?」
「む、武者震いです!」
「……そうか」
それ以上言及しなかった。
怖がりのくせに俺のそばにいたいからついてくる、なんて。
全く可愛いやつである。
俺たちは看板に近づき、書かれている文字を確認した。
――クビ
そう書かれていた。
「くび?」
「クビ……首? それともこう、〝お前はクビだー!〟って旦那が良く言うてたほうのクビ?」
「……さあな」
そこまでクビクビ言ってないぞ、失礼な。
それはどうでもいいとして。
ここで曲がってはいけない。曲がったあとどうなったか、は資料にはなかった。
二度目だが、もう慣れた。
「曲がるぞ」
「……あい」
腕に縋る姫眞の力が強くなった。俺も少々緊張している。
一歩、足を進める。こつん、と姫眞のヒールが音を立てた。
一歩ずつ確認するように歩を進め、そして。
角を、曲がった。
ぐわん、と空間が歪む。
「ひぁ!」
「!!」
曲がった先の廊下には壁から首が生えていた。
さながら群生するキノコのように老若男女あらゆる人間の首が突き出ていた。
「な、なななにこれ!? マジの首かよ!?」
姫眞が悲鳴を上げた。
突き出た首の顔は一様に虚ろで、目からぼたぼたとタールのような粘り気のある液体を垂れ流していた。口は半開き、確認できる限り口腔内は闇を食ったように真っ黒である。誰もかれもおぞましい死に顔を晒して事切れていた。
一層強く姫眞が俺の腕を抱く。ああ、くっそなんだこいつ。
「旦那……! 旦那ぁ、なんなのこれ? なんなん?」
「わからん。なぜ首がこんな大量に……?」
その時、俺の頬にぼた、という重たい感触の何かが垂れてきた。
頭上からだ。雨漏りではないだろう。考えうる可能性など、ここではひとつだけだ。
ゆっくりと視線を上に向け、ソレと目が合った。
「っ!?」
叫びそうになったが、奥歯を噛んで耐えた。
頭上にいたのは人間ではない。人間のふりをした『何か』だった。
形容しがたい見た目だった。無理に表現するなら真っ黒な針金でできた体に丸い粘土の頭をくっつけたような『何か』だ。目も鼻も口もぽっかり開いた空洞でしかなく、眼球も何もないその相貌は壁から生えた首と同じだった。しかしこちらは明らかに意思を持っている。
意思、それは害意である。
「――<臆病者は棺に眠る>!」
姫眞の声がしてすぐ、視界は覆われた。薄闇が広がってばたん、と扉の閉まる音が聞こえて、俺と姫眞の距離がぐんと近づいた。
――近づくというより密着だった。
あらゆるところに姫眞の体温を感じた。
「……姫眞」
「ここ、こわいんやのうて……ちゃうねん」
「……いや、まあ。……いいが」
姫眞は涙目だった。
ここは彼女の能力の内部、すなわち彼女はあらゆる物質や物体を『棺に納める』ことができる。
『納棺師』なんて呼ばれていたこともあったが、当人は好んでいないので俺がその名で呼ぶ機会はほとんどない。
『棺に納める』ことで、能力の外側からの干渉を受けなくなる。それは視覚的にも、だった。
つまるところ、俺たちは突然消えたように見えている、というわけだ。
「……狭いな」
「ひ、一人用やから……うぅん、やんっ……旦那ぁ、変なとこ触らんとって……」
「触ってないぞ、お前が当ててきているんだ」
「当ててないし!?」
大人ふたりで入る棺はかなり狭く、身じろぎもやっとだった。
俺にはそれなりに筋肉量があるし、姫眞も様々な部分が柔らかく発達しているのでその分密着度が高まって、動けなかった。動くと何かしらがどこかに当たる仕様である。
「や……っ旦那! ちょっとぉ!」
「触ってない。……それにしても、あれはなんだ?」
とりあえず棺の中は安全なので、見たものを考察することにした。
うん? やわらかいな……ああ、こいつの――
「ひぅっ……っ、ちょお、旦那ぁ! お尻触るのやめて!」
「……触ってない。腰に手を回そうとしていただけだ」
「うそつけ! その割にはがっつり掴んでるんですけど!!」
「反射だな」
「すけべ!!」
興奮しないでくれるか。
頬が赤く染まった愛らしい顔が間近にあって俺がどうにかなりそうだから。
「姫眞、姫眞。少しだけ、落ち着いてくれないか。対策を練るから」
「誰のせいだと思ってんだよ……!」
「俺のせいか? すまない、詫びに何かしようか」
「もうお尻触るんやめてえ……濡れちゃうぅ……」
「……クソ可愛いな……」
理性が飛びかけたぞ。
いや、違う。俺は対策を練るんだった。
思考を切り替えた。
「角を曲がったら曲がった首の生えた廊下に出る、と。あの真っ黒いのは犠牲者か?」
「……んぅ、……。あれはたぶん、作っているほうだよ豪縋さん」
「うん?」
作っているほう?
「手を伸ばしてきていたんだよ、豪縋さんの首に。首をぽきってしようとしていたんだと思うん。だから、メゾロンテに閉じ込めてもらった」
「なるほど。お前が怖がったわけじゃないのか」
「……」
怖かったのは図星らしい。
「守ってくれたんだな、ありがとう姫眞。さすが俺の妻だ」
「……おべっか言ったって俺は尻揉んだの根に持つからね」
姫眞は言うが、お前だって喜んでいたのだから問題ないだろう。
お互いに利益あり、ということで水に流してもらいたい。
「なるほど、あれが『怪異』というわけだな……ともかく首を折られる前にやつを処理しないといけないわけか」
「……俺、あんまり自信ない」
「……攻撃よりも防御と封印に特化しているからな」
姫眞の能力の起源は『傷つきたくない』だ。
だから展開するときの詠唱に『臆病者』なんて単語がつく。『傷つきたくない』し、『傷つけたくない』。やさしいと思うし、彼女の言う通り臆病者とも言えるだろう。
やさしい臆病者。だからこそ、俺はこいつを。
「――豪縋さん?」
姫眞に呼ばれて意識が浮上する。考え込んでいたようだった。
「どうかしたの」と訊ねられたので、俺は「なんでもない」と答えた。
――首を折ろうと、か。つまり、俺に触れようとした。
なら打開策はひとつだけ。失敗の可能性は低い。
俺はすぐに実行することに決めた。
「姫眞」
「あい」
「俺の合図で棺を開いてくれないか」
「……なにするの」
「首を折られる前に処理する」
「成功する?」
「ああ、もちろん」
「……わかった」
姫眞は頷いた。いい子だ、あとでご褒美をやらねば。
深呼吸する。そして、
「――開けろ!」
「ん!」
視界が開けたのと同時に俺は銃口を天井に向けた。
『何か』はやはり天井に張り付いたままそこにいた。手を伸ばして俺の下顎を掴んだ。ぐいと持ち上げられた。それと同時に強い力が加えられる。
――ギッ
錆びた蝶番のような音を立てて『何か』がうめいた。
気づいたのだろう、触れた腕から凍り付いていることに。
俺は氷の鬼だ。
〝氷塊の豪縋〟――向こうではそんな名前で呼ばれている。
だから、直接俺の肌に触れると凍るのである。
腕から徐々に凍結していくそれに向かって、発砲した。ダイヤモンドダストよろしく、煌めく氷の破片となって得体のしれない『何か』が消えていく。と同時に、廊下に生えていた首もきれいさっぱりなくなった。明るい日に照らされた真っ白な廊下が目の前に広がっていた。
棺から姫眞が恐る恐る出てくる。無事な俺を見て安心したように笑った。あとで抱こう。
「旦那……」
「終わったよ、五体満足。ごらんの通りだ」
「……ん。さすが」
「お褒めに預かり光栄だ」
恭しく礼をすると姫眞は肩を竦めた。それから背後に視線を向けて、険しい表情をした。
「……あれ? ねえ、旦那」
「どうした」
「……矢印」
「うん?」
廊下の突き当り。
先ほど見た矢印の看板があった。
看板には、
――アシ
と書かれていた。
その文字を読んで、唐突に姫眞が覚えていた婆さんの忠告を思い出した。
――〝作法〟を守らないと遊ばれるぞ
ああ、なるほど。
やはり、この建物は最初から学校として機能はしていない。
「……くだらん」
ひとりごちたのを、姫眞が不思議そうに見ていた。
帰る道中で、姫眞が後ろから「ねね」と訊いてきた。
「旦那、あれってどういうイミだったの?」
「なにがだ」
「クビの次にアシ、ってあったやつ」
「婆さんが言っていただろ、作法がどうのって」
「うん」
「だからそういうことだ」
「……はあ?」
姫眞が立ち止まって不可解な気持ちを前面に押し出した顔をした。
可愛い。
「それ説明になってないんですが」
「……作法通りにすると足から順番に曲げられていく、と」
「え」
あの空間は四つ角だった。すべての角を確認したわけではないから想像でしかないが、ほかの角にも同じような看板があって『ウデ』とでも書いてあるのだろう。足を曲げて腕を曲げて最後に首。そうやって、贄たちは捧げられるのである。
「村の住人がどういう意図をもってあれを放置しているかどうかなど興味はないが……。ありがちな噂を流布して人間を集めているあたり、タチが悪いな」
「ありがちな噂って……学校がどうのこうの、ってやつ?」
「ああ」
事前資料の噂はおそらくすべてでっちあげたもの。ありがちだからこそ誘われる者も多かろう。
「おんやぁ、珍しいねえ」
帰ろうとする俺たちに声をかけてきたのはあの婆さんだった。腰の曲がった婆さんは頭に手ぬぐいを巻き付け、枯れ枝みたいな体をしている。今にも死にそうだというのに、その眼光だけぎらぎらしていて気味が悪い。
「珍しい? ひとが戻ってくるのが、ですか」
「そうだよぉ、大抵戻ってきてもおかしくなっちゃってるからねえヒヒヒ」
何が面白いのか、婆さんは引き笑いをした。
正気ではいられないだろうな。足やら腕やらを曲げられて必死に逃げた先にあんなモノがいたら。
「あんたはまとも、みたいだねえ?」
「まともに見えるのなら光栄です」
「ふうん」
婆さんは物珍しそうに俺たちをじろじろ見た。
気持ち悪いし不愉快なのでやめてほしい。ので、俺は話を振った。
「アレはいつからですか」
すると婆さんはいやな顔をして、
「ずうっと昔からだよぉ。籠が古くなるとねえ、さびしくって出てきてしまうからねえ……特に夏休みなんかはあれを〝とり〟に行く若者が多くってねえ……ヒヒヒ」
と答えた。
姫眞はひっと息を呑み、俺は「そうですか」と相槌を打った。
夏休みの定番は虫取りだ。昆虫採集するのに、樹木に蜜を塗るなど工夫をするだろう。
――だからつまり、そういうことなのである。
第二話〝虫かご〟 了