第一話「その檻を、開けてはならない」
私の家族。みんな大切な私の家族。私の愛する、可哀想な家族。
大丈夫、ごはんもあげるしお水だってあげるわ。
怖いことがないように、ちゃんと鍵のついた場所で守ってあげるから。
◇
『怪異』とはひとの『想い』が変質したモノ。
『異界』とは『怪異』の生み出す亜空間。
まずは『異界』に忍び込むため、俺たちはその場で禁じられていることを行う。
最初の仕事場所は、住宅地にある空き家だった。
向かっているさなか、姫眞が訊ねる。
「旦那ってそのスーツ、前も着てへんかった?」
「前?」
「生まれ変わる前」
「……まあ、黒が一番ちょうどいいからな」
白いワイシャツ、黒のベスト、黒いジャケットに黒いロングコート。スラックスももちろん黒で、革靴も両手にはめている革靴も黒色である。
仕事柄血の付くことが多かったので、目立たない黒を好んで着ていた。
「黒が好きなん?」
「いや」
「じゃあ何色が好き?」
「紺色か青だな。だが鮮やかな青は好きじゃない」
「ああ、だから普段着てるん紺色なんや納得」
寒色系が好きなのは己が持つ属性ゆえか、わからない。けれど無意識に選ぶのは紺色が多かった。
「……お前はまたそれか」
「ええやん、かわいやろースーツ風ワンピ~」
「なぜ丈が短い」
「えっちするのに長いと不便やん」
「……ぶっ」
俺の可愛い妻たる姫眞が身に纏っているのは黒いワンピース。スーツに似たものだが、袖部分がフリルになっていて可愛らしいデザインである。可愛いのはいいのだが、俺が気になるのはスカートの丈だった。非常に短いうえに、際どい位置にスリットが入っている。
「なぜそんなところにスリットがあるんだ」
「動きやすいから。別にええでしょ、ストッキング黒いんやし」
「……」
「あ、あとちゃんとつけとるよ? 旦那からもろたこのかんざし~可愛いよね、涙流す目のデザイン!」
姫眞が横を向いてわざわざまとめた髪を見せてくれた。金色の髪が眩しい。そこにささったかんざしは俺が贈ったものだ。デフォルメされた目から雫型のアクアマリンがこぼれている。
普段面倒くさがって髪をまとめずにいるが、外出時はかんざしでひとつにまとめている。その際の懸念はその白く美しいうなじが露にされること。こればかりは我慢するしかないのだが。
「――旦那?」
おっと見惚れていたようだ。
なんだ、と反応すると「すけべ」と返された。
なんなんだ。
「俺のことやらしー目で見てたから」
「そうか? お前は可愛いから、ついな」
「むっつりすけべめ……」
「恥ずかしがるお前も可愛いな」
「いや、話聞けよ」
はあと大きく愛らしいため息をつくと、姫眞は「で、なにするん」と訊いてくる。
「開けるな」
「え? 開けるな?」
「ここだな」
住宅地のど真ん中、どう考えても解体したほうがよさそうな見た目の廃れた日本家屋だった。
庭は雑草が生い茂り、俺の腰あたりまで伸びている。屋根瓦もはがれており、障子戸もあちこち破れているのが伺えた。しかし破れた先に見えるのは暗闇だけで、室内の様子は確認できなかった。昼間なのに家全体がほの暗い雰囲気に包まれていた。
「……な、なに? これ……なんでこのままなん……?」
「解体工事をしようとすると、関わった人間が必ず誰かひとりは死ぬそうだ」
「えっ」
「難儀なことだな」
「その一言で済ませますぅ!?」
それ以上の感想が出てこないのだから、仕方がない。とにかく中に入らねば意味がないのだ。
さび付いて動きの悪い正門を通り、雑草を掻き分けて玄関へたどり着く。すりガラス越しに何かが動いたが、特に気にすることではない。やけに滑りのいい引き戸を開くとむわ、と埃臭さと――血の匂いが鼻を突いた。中を覗いて、言葉を失う。
「……なんだこれは?」
室内には大量の檻が置かれていた。
◇
大小さまざまな檻が所狭しと室内を埋め尽くしていた。
廊下は当然として部屋、浴室――檻がないところを見つけるのが逆に難しいような、そんな具合だった。
檻の中には水を入れる皿と薄汚れた皿が二対で必ず設置されており、黒く痕跡のある皿はおそらく食べ物の皿だろう。何を与えていたかは考えたくはないが。
「な、なんでこんな檻ばっか……あれ、そういえば『異界』に入るとこう、三半規管がおかしなるような感じするって狂輔はん言うとらんかったっけ……」
「そうだな。二日酔した感じに似ているとか言っていたか」
二日酔になど滅多にならないから想像がしにくいが、とにかく普通ではない感覚を味わうわけだ。家に入った瞬間にそれはなかったから、まだ『異界』には入っていないということになる。
「開けるなって家の扉ってことやないの……?」
「どうも違うらしいな。……だとすると、これか」
家にある部屋は一通り開けた。まだ開けていないのは、家に残された大量の檻。
どの檻も固く閉ざされており妙だとは思った。ひとつやふたつならまだ違和感がないが、家にあるすべての檻となると話は別である。
「開くぞ」
「あ……あい」
俺は手近な檻の扉に手を伸ばす。廊下に無造作に置かれたひとつである。縁側に面していて、反対側は破れた障子戸で隔たれた和室だった。そしてゆっくりと手前に引いた。
(ああ、確かにこれは――)
ぐわん、としか言いようのない感覚が俺の脳味噌を揺らした。大した衝撃ではなかったが、一瞬でも気分が悪かった。頭を押さえて体勢を立て直しているところで首筋に荒い息を感じる。姫眞ではない、獣のようなそれに勢いよく振り返った。
「!?」
「えぇ!?」
開けた檻はたったひとつ。しかし、廊下に置かれた檻がすべて開いていた。次いで息使いを感じる。拳銃に触れた。視線を感じるが、出どころがわからない。
ハッハッという息使いは犬のそれに似ているが、なぜか俺は犬だとは確信できなかった。
「……姫眞、聞こえているな?」
「き、聞こえとるけど……これなに? 犬?」
「いや……」
ひとまずここから移動しようと廊下を引き返そうと後ろを向いた。そして気づいた。
反対側の廊下の、突き当りに広がる暗がりの中に、何かがいることに。
「……ひぃ!?」
「……」
静かに銃口を向ける。やはり、そうだ。犬ではない。
暗がりの内側から、ゆっくりとそれが現れる。じゃらり、と鎖を引きずった音がした。
肌色の腕、赤い首輪、上半身裸で下半身は紙おむつらしきものを履いていた。それは四つん這いになった成人男性だった。舌を出し、涎をたらしながらまともではない目をして俺たちを見ている。
「なななななにあれ!?」
「……人間か?」
「なんやねん、あれっ!? ほんま、ねえ!?」
「落ち着きなさい、照準がずれる」
パニックになった可愛い姫眞が俺の腕を揺さぶるので注意した。
正気を失った男は突進してくるでもなく、のっそりのっそりと近づいてきた。俺は姫眞をなだめ、引き金を引いた。放たれた銃弾が男の額にめりこんだ。血が出ることはなく、男はそのまま白目を剥いてその場に倒れた。
「……し、死んだ?」
「……」
そもそもアレが生きているモノかどうかも怪しいところであるが。
起き上がらないことを確認して、俺は一度拳銃を下ろす。しかし背後から姫眞の悲鳴が聞こえたので再び構えつつ振り返った。
「いっぱい出て来とるんだけど!?」
廊下には四つん這いの首輪をつけた成人した男女であふれ返っていた。全員上半身裸で、紙おむつ姿だった。自我を失った人間たちの群れはゆっくりとした足取りで俺たちの方へ向かってくる。
「……っち! こっちだ、逃げるぞ!」
「へ!?」
俺は姫眞の手を引いて家の奥へと走った。
拳銃で制圧するには数が多すぎるし、いちいち相手をしていたキリがない。
「あいつらは『元凶』じゃない! 『元凶』ではないものを撃ったところで時間の無駄だ!」
「で、でも……うひゃあ! なに、至る所から四つん這いの人たち出てくるんだけどぉ!?」
事前に家の構造を把握していたが、『異界』に入って変わっているようだった。
俺たちは逃げられる場所を探してとにかく走った。その間、檻のあった場所から四つん這いで自我を失った人間の成れの果てが現れる。彼らは俺たちを認識すると襲うこともなく、ただ追いかけてきた。なにかを訴えているようにも思えたが、理解してやるほどやさしくない。
というより、そんなやさしさははなから持っちゃいない。
がむしゃらに走っているうちたどり着いたのは、仏壇の置かれた部屋だった。その部屋には真っ黒な服を着た女が、背を向けて座っていた。
俺は直感した。――こいつだ。
拳銃を再び構え、慎重に部屋に入る。幸い四つん這い野郎どもの襲撃はなかった。
女は俺たちの侵入に気づいたようで、ゆっくりと首を回した。
「……あら、あなたも迷い猫さん?」
顔の青白い女だった。だが唇は赤く際立っている。黒目がちの目だから細めると白目がなくなって、真っ黒なうろがこちらを覗いているように感じた。
「迷い猫……? 何言ってるん……?」
「……私ね、昔猫を飼っていたの」
女はひとりで勝手にしゃべり始める。引き金に力を込めたが、最後まで聞こうよと姫眞が俺の腕を抑えた。可愛い妻が言うなら……まあ、聞いてやろう。
「猫に囲まれる人生ってすごく素敵じゃない? だからね、たくさん飼おうって思ったの。去勢しろとか避妊しろとかいろいろ言うひとがいたのだけれど、私はしなかったわ。だってかわいそうじゃない」
「……」
「そしたらたくさん増えて増えて……増えすぎちゃったの。でも猫がたくさんいるって素敵だなって一生懸命世話をしたわ……なのに、突然お役所の方がきてね? あなたにはもう猫を飼う資格はありません、なんていうのよ」
話を聞く限り、多頭飼育崩壊というやつだろう。俺は哀れに思った。女ではなく、猫を。
「取り上げたのよ、私から。あの子たちを……!!」
女が怒りに身を震わせた。お前に怒りを覚える資格はない。管理できないほどに増やしたのはお前のエゴだろうに。
「……あの子たちのいない世界はさびしかった。さびしくてさびしくて……そしたら見つけたの」
「……」
「路上にいる迷い猫を……」
合点がいった。あの人間たちは、この女の飼い猫なのだ。
否、飼い猫にされたのだろう。
「……ねえ、私、なにか間違えた?」
女が立ち上がった。俯いた顔に影が落ち、表情が読み取れない。
「間違えてなんかないわよね? だって捨てられた可哀想な子を拾ってあげただけよ? 保護して守って餌を与えて、世話をしたのよ? 褒められるべきだと思うわ」
「……俺から貴様に言うことなど何もない」
俺は銃口を向ける。姫眞はなにかに耐えるような表情で顔を伏せていた。
女の周囲に濃い影が落ちた。黒い泥が天井から垂れ下がって、女に覆いかぶさったようである。
「潔く消えろ」
銃弾が真っ黒な霧を打ち砕く。女は涙を流して、音もなく霧散した。
◇
――あの家はようやっと解体されることになったという。
近所の噂によると時折家の中から猫のような人間のような呻き声が聞こえていたらしい。おまけに庭からは大量の白骨化した死体が出てきたそうで、一時世間を賑わせていた。
俺の想像通り、女は多頭飼育崩壊当事者だった。しかし、女がその自覚がなかったという。猫が増えてうれしいというだけの感情で、猫をひたすら増やし続けていた。保護施設の人間が来た当初も「私から家族を奪わないで」と激しく抵抗したという。奪われる要因がよもや自分にあるとは思わなかったそうだ。
「うぅーん、なんかなあ……猫ちゃん飼えへんようなったからホームレスを飼おう、とは思わないでしょふつう……」
縁側でくつろぐ姫眞が緑茶を啜りながら呟く。
「『怪異』になるくらいだ、まともな考え方はしちゃいまい」
「そっか……これからこういうのばっか相手するんか~」
「嫌ならついてこなくていいぞ」
「あ、旦那ってば。すーぐそういうつめたーい言い方する~」
『報告書』を仕上げる俺の傍に姫眞が近づいてくる。顔を横から覗くような近距離で彼女は、
「俺とえっちできなくても……いいの?」
と囁いた。
それは、
「困る」
すると姫眞は目を丸くしてから、「やっぱり旦那ってむっつりすけべー」と言った。
素直に答えだけなのに酷い言いぐさだな。気が済んだのか、姫眞は笑った。可愛い。
「でもそういうところが最高に豪縋さんらしいね」
どういう意味だ、と訊いたが詳細については教えてくれなかった。
ひとまず『報告書』を仕上げてしまおう。
可愛い妻を愛でるのはそのあとだ。
第一話〝愛とは狂気の沙汰に似て〟了