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第十話「その子どもに、声をかけてはならない」

 可愛い可愛い私の子。

 かわいそうに、贄にされて。

 その恨みは私が請け負いましょう。

 そして、その恨みを返してやりましょう。

 お前を捨てた母親たちに。


 ◇


 子ども、か。

 資料に記載されたその単語に、姫眞(ひめなお)を見た。

 昨日は体の不調で寝込んでいたが、今もうすっかり元気になって縁側で相棒のメゾロンテと遊んでいる。

 古い神社に子どもがひとり泣いていて、身を案じてその子に声をかけると行方不明になるのだという。その後見つけられた者は「子ども……子どもが……」と譫言(うわごと)のように呟いて衰弱死するらしい。

 子どもが関わる『怪異』は数多くあるが、意図的に避けてきた。

 姫眞のためだった。


 姫眞は、子どもを欲しがっている。


 彼女が俺の目を見て「……いつかほしい、って思っている」と言ったことがある。そして時折褥でも「赤ちゃんが欲しい」と訴えることもある。

 姫眞は子どもが好きだ。子どもがおつかいをする番組をテレビで見たときは、終始泣いていた。子どもが出ると母性本能をくすぐられるようだった。「かあいい」とか「情緒壊れる……」とか言ってずっと目を潤ませている。はっきり言ってお前のほうがめちゃくちゃ可愛い。

 間違いなく姫眞はいい母親になるだろう。


「姫眞」


 呼び声にメゾロンテとあやとりをしていた姫眞が振り返る。

『外』ではないので、狐の姿だ。「なあに?」と彼女が首を傾げると、金色の髪と同じ色の耳がぴくりと動いた。今日も俺の妻は可愛い。宝石をはめ込んだような美しいオッドアイが不思議そうにこちらを見遣った。


「次の仕事なんだが……」

「うん」

「子どもが絡む」

「……」


 わかりやすく彼女の顔色が曇った。


「……無理にとは言わん。俺ひとりで片を付けることもやぶさかでは――」

「行くよ」


 姫眞は真っ直ぐ俺を見つめたまま言った。


「行くよ。だいじょうぶ、旅館みたいなことにはならない……、たぶんやけど」


 少々自信なさげな声音だったが、目の奥の覚悟は本当だった。

 だから俺もそれ以上は何も言わなかった。

 侮るなかれ、この子は俺の妻なのだから。


 古い神社は山の中にあった。昼間だというのに、生い茂った木々に陽光は食われて薄暗い。

 山の中心を突っ切る石の階段があって、ここをのぼった先、鳥居のそばで子どもがひとりで泣いているという。子どもに「どうしたの」と声をかけると子どもは「母親を探している」と言う。「母親はどこにいるのか」と訊ねると、子どもは「あそこ」と指をさす。その先からは――誰も知らない。

 後は身を以て知れ、というお約束である。


「どんな子なんやろ」

「さあな。資料には五、六歳くらいだと書かれているが」


 姫眞の表情は変わらないが、今までより少し緊張しているようだった。


「姫眞」

「平気やって、心配せんで」

「それは無理だな。妻の心配をするのは夫の役目だ」

「もー、またそゆこと言ってー! ……ん、でもありがと」


 ふわっと花が咲くように笑ったので、理性を総動員して抱擁し口づけをして押し倒したい本能を抑えこんだ。不意打ちは心臓に悪い。俺の心臓は姫眞に託してあるのだが。


「旦那ぁ? あ、またえっちなこと考えたでしょ」

「……すまない、お前が可愛すぎて死ぬところだった」

「うん、だって心臓がすんごい勢いで跳ねたもん」

「……」


 バレていた。バレたとて問題はない。

 とにかく。


「行くか」

「うい!」


 意気揚々と階段の一段目に足をかけた。

 ぐわん、と脳味噌が揺れた。

 ここは既に『怪異』の庭、『異界』である。


 階段はさほど段数のあるものではなく、時間もかからずのぼれた。

 色褪せた鳥居が佇んでおり、神社の名を示す額縁の中身は真っ黒だった。その鳥居の下で、子どもがひとりしゃがみこんで泣いていた。

「う、うぅ……」と呻き声に似た泣き声である。パーカーと膝の見える丈のズボン、スニーカーを履いている。ごく一般的な子どもの格好だった。割と現代的だった。

 躊躇なく子どもに声をかける。


「おい、小僧」


 隣で姫眞が驚いていた。


「旦那! ちょお、もうちょっとやさしい言い方して……」

「『怪異』相手にか?」

「そういう問題じゃなくって!」


 姫眞が俺の前に出て、子どもの顔を覗き込むように前かがみになる。

 相変わらず短いスカートだ、ぎりぎり見えないようだが危うい丈である。やはりもう少し長くするよう言うべきか。

 そんなことを考えている俺の耳に、姫眞のやさしい声が飛び込んでくる。


「ぼく、どしたん? どっか痛いん?」


 母性を感じさせる、やわらかい口調だった。

 子どもはわずかに顔を上げた。顔はちゃんと整えられていた。目も鼻も口もある。泣いてこすったのだろう、目の周りが赤かった。子どもは伺うような視線で姫眞を見て、それから、


「……ママ、どこぉ……?」


 と言った。知るかそんなもん、と言いたかったがここは黙っておく。姫眞が「ママとはぐれたん?」と続けて訊ねた。すると、子どもは一瞬きょとんとした顔してから、


「……ママ、ママがいないの……」


 と弱々しい声で答えになっていない答えを返す。

『怪異』とわかっているので要領の得ないガキの返答に腹が立った。およそ「どこにいるのか」と訊かないとこの先進展がないのだろう。後ろから、


「小僧、貴様の母親はどこだ」


 と訊いてやった。俺の声を聞いて、姫眞が何やら咎めるような視線を寄越したが無視した。自分の子ども――姫眞との子どもならこんな物言いしないが、相手は『怪異』だ。容赦など必要ない。

 ガキは待っていましたと言わんばかりに笑って、「あそこ」と指をさした。

 指をさした先には、化け物がいた。


 ◇


 朽ちかけた本堂の屋根のうえに、巨大な毛玉に人間の手足が生えた化け物がいた。

 手足以外にキリンのように長い首がついており、その先には艶やかな黒髪の生えた能面の顔があった。木漏れ日に晒されているその異形は、首の先端の能面を俺たちに向けた。

 階段を見た時も思ったことだが、このあたりの木々はやたらと生育が良い。どの角度でも太陽を覆い隠すように上に伸び、かつお互いに絡み合って日の光を遮断している。ゆえに、神社全体が奇妙に薄暗かった。

 姫眞が息を呑むのを気配で察した。声をかけた子どもはどこかに消えてしまっていて、今いるのは毛むくじゃらの化け物だけだった。

 俺は拳銃に手を回す。今まで出会った中では大物である。およそ、すぐに退治することは難しいだろう。

 化け物が首をぐるりと真横に倒した。黒い髪が能面に垂れる。


『惑わされぬ。奇妙な、奇妙な』


 化け物の声は老人のようだった。非常に滑らかにしゃべるので、気味が悪かった。


『まあ良い。飯だ、飯だ。良い子たち、良い子たち』


 首がぐにゃぐにゃと動いて天に向かう。そして化け物は言った。


『――ごはんの時間だよぉ』


 間延びした合図と一斉に四方八方の森林からガキどもが飛び出した。

 大群である。性別も格好もさまざまだが、共通しているのはその顔には真一文字に裂けた口と無数の目があるということ。まるで蜘蛛の子だった。ガキどもは口を開けて涎をたらし俺たちへと襲い掛かってくる。

 発砲するよりも、足にわずかに力を込めて、凍結させた。そしてその足で薙ぎ払った。ガキの顔や腹にめり込み、赤い液体をまき散らして吹き飛んでいく。

 ガキどもは俺の足にまとわりついて噛みつくが、氷の鬼であるせいか肉にありつけずに怪訝そうだった。いや、俺のことはいい。

 ――姫眞。


「姫眞っ、だいじょ――」


 振り返って、俺は瞠目した。

 姫眞は、姫眞ではなかった。


「……眞也(なおや)?」


 男の姿に変わった彼女が、無感情に刀を振るってガキどもを殺していた。


「……ごめん、旦那。俺さ、嘘ついたんだ」


 団子状にまとめられることのない、短く切りそろえた金色の髪。

 オッドアイは変わらない。長身痩躯にジャケットとパーカー姿を纏った青年。

 その顔に刺青はなかった。眞也。最初に出会った姫眞である。


「……姫眞だとたぶん勝てなくってさ」


 ガキどもが耳障りな悲鳴と共に赤く染まっていく。眞也の顔に表情はなかった。

 能面のようだった。


「……だから、ごめん」


 眞也は高く跳躍して、刀を地面に垂直に叩きつける。月の光が奔って、周囲が一瞬白く染まった。

 目を開けた時にはそこにはガキどもの姿はなく、ただ静かだった。


「……眞也」

「……俺が母親になりたいのはさ、強くなりたいって気持ちもあるんだ」


 屋根の上の化け物が、何事かわめいていたが、それよりも目の前の事象に気を取られていて全く聞こえなかった。


「母強し、っていうじゃん。守る者があれば、強くなれるかなって」


 思ったんだよ、とか細い声で。

 眞也の顔は見えなかった。


「……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……!!」


 そんなことはない、信頼しているぞ。――と口にできなかった。

 眞也は再び跳躍する。黒い影が狼狽える化け物に迫った。

 化け物の咆哮は、遠雷のように響いた。


 ◇


 最初の一段目に俺が腰を掛け、その数段上に、眞也が座っている。

 つつがなく終わった。あまりにもあっさりとした幕引きだった。眞也は姫眞の時のようにあれがなんだったのかという考察はせず、黙したままだった。


「……その『器』はいつから」

「旅館の後くらい。あんたに内緒で頼んだ」

「……気にしていたのか」

「割とね」


 〝眞也〟の役目は用心棒である。だから傷つけたくないなんて甘えは許されない。自分の心を押し殺して粛々と仕事を果たす彼の表情は、常に風のない湖面のように静かだった。

 笑うことも少ないし、頬を膨らませるようなこともない。ただ、気だるげだった。


「……子どもが好きなんじゃないのか」

「好きだよ。子どもってかわいそうやん」


 自嘲するような声だった。振り返ることが躊躇われて、俺はずっと自分の足元を見ていた。


「……かわいそう、か」

「守らへんと、死んじゃう弱い生き物。……俺よりもずっと弱いから優位に立てて、好き」

「……」

「……俺はずっと弱いんだよ豪縋(ごうつい)さん」


 眞也の声がくぐもった。


「……弱いから、一人称変えないんだよ。私、とかうち、とかにしてしまうと、眞也だった名残もなくなってもうて……だめんなる」

「……眞也」

「……強くないとさ、隣にいても役に立たねえじゃん」


 そんなの、やだよ。心配されてばっかとか、俺無理。

 くぐもった声が、どんどん沈んでいく。


「あんたは俺のこと、信頼しているって言ってくれんだろうけど。……俺結局、なんもしてないんだよ。あんたの隣であんたがヤりたくなったらヤるみたいな。……別にヤんのはいいよ、でも、それ以外なにもできんやん。だったら、家で待ってた方がいちばんいい……」

「……眞也、もう」

「でもそれもできんて。待ってんの、こわい。帰ってこなかったらどうしようって考えてまうから。……弱いからさ、ぬぐえないんだよ不安。……情けない」

「眞也、もういい」

「いろいろアヤに教えてもらいにいったん。でもさあ、根本的に無理だった……何度姫眞の姿で刀に変えようって思っても変わんないんだよ。……この姿じゃないとメゾロンテを振るえない……」

「眞也」

「……俺さ、やっぱ隣にいないほうが」

「やめろ!!」


 俺は叫び、その時初めて振り返った。

 眞也が叫び声に驚いたのだろう、ぎょっとして俺を見ていた。


「やめろ、それ以上言うな。頼む……」

「旦那……?」

「お前がいなければここに俺はいないんだ。お前なくして豪縋は存在しえない。お前の存在そのものが俺を生かしているんだ」

「……」


 お前のいない世界に俺は存在しない。

 そんな世界、最初からないほうがマシだ。


「肉体的な繋がりがお前の不安を煽るならお前がいいというまで待つ。一生だっていい、お前の存在が俺の生きる理由だ、存在意義なんだ。身も心もお前に捧げ尽くす覚悟がある、なにかも、すべてを擲ってでも!」

「……」

「……俺の気持ちは伝わらないか? まだ不安か? なあ、どうすれば伝わる?」


 俺がお前をこんなにも愛していることを。

 傍にいてくれるだけでどれだけ救われているかということを。

 眞也は黙ったまま俺を見つめ、しばらくして泣きそうな顔で笑った。


「……豪縋さんも、そういうカオ……するんだね」

「は?」

「……迷子みたいなカオしてる」

「……俺が一番恐れることは、お前を失うことだ。姫眞とお前を失うことが俺は怖い……だから、……そういう顔にもなる」

「……え」


 何故か眞也は面食らっていた。それから窺うように、


「……俺もなの?」


 と訊いてきた。

 当然である。


「最初に抱いたのはお前だぞ」

「……そうだった」


 会社に入ってきた眞也を見た瞬間、俺はこいつを俺のものにしたいと思った。

 どんなに抵抗されても俺は眞也を離さなかった。何度でも俺の熱をぶつけた。いつか俺の手の中に堕ちるまで、がむしゃらに。それを今更弱いだのなんだので離れられてたまるか。

 ――俺のものが、俺の許可なく、俺の傍から離れるなど許さない。

 まともでないのは自覚している。だからといって、なんだ。

 俺の生き方だ。そして、俺の愛し方でもある。

 お互いに黙り、それから少しして眞也は笑った。


「……豪縋さん、は。俺が弱くってもいいの」

「そんなことは関係ないと何度言えばわかる。それにお前は十分強い」

「それは……好きだからの、おべっかだよ」

「違う」

「……じゃあなんでそう思うん」

「角の『怪異』に会ったとき、素早い判断を下したのはお前だ。それ以前も以降もお前が『怪異』に気づいて俺に知らせてくれた。お前がいたから現れた『怪異』もあった。お前はすべてに逃げず真正面から対峙しただろう――それも強さだ。力だけがすべてではない」

「……そっか」


 眞也が一段降りる。先ほどよりもずっと顔色はよかった。


「ありがとう、豪縋さん。……へへ、俺ちょっとメンヘラぽかったね」


 ごめんごめん、と眞也は笑った。

 さて、姫眞に戻ろうかなという呟きが聞こえたので、俺はその腕を掴んだ。


「ん? どったの」

「眞也、ひとつ聞いておきたい」

「なに?」

「先ほど俺がセックスをしたいときにする役目、のようなことを言ったが……俺が頻繁にお前を求めるのは嫌か? 負担になっているか?」

「は!?」

「どうなんだ」

「……あ、あー……べつに、や、じゃないよ。あれはほら、なんていうか……。物のたとえというか……言葉の綾っていうか」

「……嫌じゃないんだな? 負担にも?」

「う、うん。いややないし、負担にもなってないよ。むしろ、こう、なんか幸福な気持ちがぶわわ~ってあふれて……って、豪縋さん?」

「……久しぶりにお前に会ったからな」


 久しぶりに見る眞也も、美しい。

 腕を引いて腰に手を回すとわかりやすく頬が赤く染まった。可愛い。

 押し倒した時もそうだったな、初心な反応がそそったものだ。


「……え? え!?」

「眞也、抱かせろ」

「うわ、その古のBLにおいて一番攻めが言っていそうな台詞を……」

「ホテルがいいか? 家がいいか?」

「いやちょこわ目がマジ、ねえまって、俺いろいろ準備されてなくってこの体さ……」

「準備なら俺がする。大丈夫だ、決して痛くはしない……やさしくしてやるからな」

「……はひ」


 ああ、可愛いな。本当に今すぐ食ってしまいたい。

 俺の妻、やはりいついかなる時も最高に可愛い。


 第十話〝それぞれの愛し方〟了

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