序章「その男には、妻以外見えていない」
この世界に蔓延る多くはひとによりもたらされる。
オカルトじみた現象も元を辿れば、死んだ人間、即ち、生きていた人間が原因で起こるわけであり、それらが頻発することはなんら不思議なことではない。
何億と住むこの世界――神の思惑がどうであろうと――営む者の情が消えることはない。
感情がある限り、『怪異』は常に我々の生活の傍に存在し、そしてそれを退治する者もまた相対的に存在するのである。
◇
「君には『怪異退治』をしてもらいま~す」
呑気な声が、俺の仕事内容を告げる。
予想はついていたので、開口一番、『単刀直入に』などという枕詞もなく放たれたその言葉に、俺は特段驚かなかった。
ひとの『魂』を管理する天国兼地獄『管理局』。その局長、狂輔。
名前こそ男のようだが女である。彼女はこの『管理局』では一番偉い、ほうの人物だ。ひとではないが。
目に痛いショッキングピンクの着物に、へその出たタートルネック、かなり珍妙なデザインのサスペンダーつきズボン。個性的と言えばそうであるし、癖が強いと言えばその通りでもある。別に他人がどんな格好をしていようが興味はないが、狂輔さんのその恰好はかなり特異なものだと思う。
彼女の糸目が少しだけ開いた。見定めるような視線に俺も目を細める。
「……なんでしょうか」
「豪縋君ってむっつりすけべって言われない?」
「……はい?」
唐突に何の話だ。仕事の話をするんじゃなかったのか。
そう思ったが、「……まあ時折言われます」と正直に答えた。一応上司なので、嘘はよくない。
「え、そこちゃんと答えるの? 目つきがやらしいなって言われてるのと同じだよ」
「あなたをそういう目で見ていると? まさか御冗談を」
俺がははっと乾いた笑いをすると狂輔さんは真顔になった。
何か問題でもあっただろうか。狂輔さんに魅力を感じたことはない。あるのだろうが俺にはわからない。それがわかるのは現在ひたすら画面と向き合って電子盤を叩いているあなたの夫だけだろう。
「……君って、ユーモアのないひと?」
「面白みのない男だとよく言われますよ、狂輔さんはよく人を見ているのですね」
「それ嫌味?」
「受け取り方の問題でしょう」
狂輔さんは人をよく見ている。――悪い面を。
突かれるといやだな、と思う部分をあえて指摘するのがこのひとの得意技だ。性悪と称されることが多い彼女の性格は、超弩級の被虐性欲思考に起因している。
ひとに嫌われることが快感、だからそういう風に振る舞う。
知っているからこそ、過剰な反応をしない。魅力を感じない他人、ましてや異性を悦ばせて何の得もないのだから。
「本当に自分の伴侶と関係するそれ以外は全部損得で考えるんだねえ、豪縋君」
「そうして生きてきましたので。今更生き方は変えられません」
「まあ、それもそうか。ああっと本題からそれちゃったね」
そらしたのはあなたです。
思ったが言わなかった。
「資料はこれで全部だよ」
目の前にはとんでもない分厚さの紙の束がある。
これらがすべて『異界』に関する資料だと思うと、ひとの世とは業が深いと思う。
『管理局』自体さながらSF映画のごとく高度な機械技術で作られているのに、なぜ?
データで渡すとかもっと効率的な譲渡の仕方があっただろう。
「……なぜ紙なのでしょうか」
「それはねえ、洒落だよ豪縋君。ダジャレ」
「はあ……」
「鈍いなあ、小生が神さまだから紙、なの!」
くっそつまんねえ。
顔に出ていたらしい、狂輔さんがうれしそうににんまりと笑った。
いやな笑みだった。
「君にはこれを退治してもらいたい。ああ、退治っていうのはね、現状影響を及ぼしている『怪異』を滅するって意味なんだけれど……。豪縋君、『怪異』と『異界』についてはもう知っているんだっけ?」
講習を受けたので知っている。
『死神』の先輩殿から。
「……おおまかには。放置されたひとの『想い』が変質したモノを『怪異』、『怪異』が生み出す彼らの住まう領域のことを『異界』と呼ぶ、と」
「そう、その通り。死ぬほどつまらない模範解答でどうもありがとう」
正答して貶されるのは納得がいかなかったが、今度は顔には出さなかった。
「要は『怪異』っていうのは繊細で陰キャだから表には滅多に出てこない。だからこちら側から迎えに行かなくちゃいけない。ああ、間違っても『異界』と『入る』を一緒に言わないでね、いろいろと面倒だから」
「……」
相槌を打つのも面倒になったので、俺は無言を返した。
狂輔さんは構わず続ける。
「『異界』に入る方法に関しては知っている?」
それも先輩殿から履修済みだ。知っている答えを口にした。
「その場所で禁止されている行為をあえて行う、と」
狂輔さんが一瞬つまんねえこいつという顔をしたが、無視した。
俺にユーモアがないと言ったのはあなただろうに。
「はい、模範解答アリガトー。ま、カリギュラ効果ってやつだねえ。しちゃいけませんって言われるとひとってしたくなる生き物じゃん? 見ちゃいけない、とか触れちゃいけないとか……お笑いのふりじゃなくってさ。小生の言うこの場合はほとんど意味がある。ま、つまるところ何かがあるからこそ禁じられているわけ。ああ、そうそうちなみに。これ、全部処理してもらえると小生的にハッピー」
一息にしゃべって狂輔さんは笑った。
この量をすべて処理せよ。もはや嫌がらせの域だが、仕方がない。
了承したのは俺だ、責任は全うする。
「……畏まりました」
すると狂輔さんが眉毛をハの字に曲げた。
「……マジ素直すぎてクソほどおもんないね、君」
「どうもありがとうございます」
言って資料の山を抱え上げた。
なんとか持っていける量だった。そのまま部屋を出ていこうとすると、狂輔さんに「あ、そうだ、ねえ豪縋君」と呼び止められた。
「はい」
「姫眞ちゃんはどうするの?」
「どうする、とは」
「連れて行くの? て」
「……」
返事をしないのを面白がって、狂輔さんは組んだ手の甲に顎を乗せて笑った。
「ふうん?」
なにかを悟ったような彼女に、舌打ちをしたかったがやめておいた。
心を見透かされたのを認めるようで不快だったからである。
◇
書類の山を持って帰宅した。部屋に向かう途中の廊下で目に留まったのは、陽光に煌めく美しい金髪だった。和装に似た格好に身を纏った狐のあやかしが、何をするでもなく縁側で遠くを眺めている。その横顔はいつまでも見ていられるほど美しかった。
「姫眞」
呼びかけると姫眞は尖った耳をぴくりと動かしてこちらを見た。緑色と紫色の瞳は、まるで翠玉と紫水晶のようだ。その顔丸ごと飾っておきたい。
姫眞は「あ、旦那あ。おかえんなさい~」と笑った。花が咲くような、というのはこういうことをいうのだろう。毎回思うが笑うたびに俺の本能をくすぐってくるから、こいつの笑顔にはなにかしらの媚薬作用があると思う。可愛い。
「局長はんのお呼び出しって例のトクベツなお仕事?」
「ああ」
「そっか。なんやったけ、『怪異退治』?」
「そうだ」
「そっかそっか」
姫眞は立ち上がると「お部屋に麦茶用意しといたよぉ」と言って襖を開いた。ありがとうと礼を言えば「気にせんでって」とまた笑う。この子はよく笑う子である。だから毎回大変だった。
俺の理性が。
「それで、姫眞。お前に聞いておきたいことがあるのだが」
先行する姫眞の背中に声をかけると、彼女はこちらを振り向かないまま返事をした。
「なあに?」
「お前も同行するか?」
姫眞の尻尾が天井を向いた。しばらく上向きだったが次第に重力に負けて垂れていき、最終的にはご機嫌そうに左右に揺れていた。どういう感情なんだそれは。それはそうとして可愛いのだが。尻尾まで可愛いとかお前は俺をどうしたいんだ。
「うん、行く」
後ろを向いたまま、力強く姫眞は言った。
この子は怖がりだ。曰く、「化かすのは好きだが驚かされるのは好きじゃない」という。今回の仕事内容はホラーほどでないにしろ、多少なりとも驚く要素は多かろう。暗い場所もあるだろうし、姫眞の得意とする分野ではない。俺としては家にいてもらっても構わないのだが。
「いいのか?」
「いいよ」
「……」
「……だってさ」
姫眞は振り返った。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
目を輝かせて姫眞は、
「スーツ姿でロングコートひらめかせて拳銃振り回す豪縋さんを間近で見られるチャンスなんて早々なくない!?」
と言った。
スーツ姿で……なんだって?
「だって豪縋さんお仕事っていうたら絶対スーツ着ていくやん。あとロングコート? しかも拳銃使うて聞いたらもうついていくしかなくない!?」
姫眞は興奮しているようだった。
なんだかよくわからないが、俺の仕事着が彼女をこうも喜ばせるなら悪い気はしない。
「無理はするなよ」
「平気! 俺を誰だと思ってるん?」
姫眞が胸を張って言う。
「豪縋さんの妻だよ?」
はあ?
「……というわけで……あれ? 豪縋さん?」
「……お前、クソ可愛いな」
「へ?」
俺の呟きは姫眞には聞こえなかったようだ。
そういうわけで俺は可愛い妻と共に『怪異退治』を始めることになった。