幽霊旅館……ってコト!?
私は斉藤葉子、24歳、社会人二年目の極々普通のOLだ。
ソレを認識したのは、大学を卒業してすぐのことだった。
新社会人として毎日慌ただしい日々を送っていた私の視界の端っこに、時々うっすらと何か黒い靄のようなものが見え始めた。それは毎日でもないし毎回同じ形というわけではなかったので、疲れだろうと特に気にしなかった。目薬をさして瞬きをすればいつのまにか消えていたし。
しかし見える頻度が段々と時々ではなくしょっ中に変わり、そして毎日になった時初めて病気かもしれないと眼科の予約をとった。
「特に異常はありませんね。逆に視力が回復しているのでその影響かと思われますが……」
最初に懸かった医者に視力が回復していると言われて初めてそう言えば最近見えやすくなったな、と実感した。今まで裸眼で生きてきたけれど、そろそろスマホやゲームのやり過ぎで眼鏡かコンタクトが必要になるかもしれないと思っていたから少しだけ残念だった。友人達が眼鏡やコンタクトのことを話しているのがちょっぴり羨ましいと感じていたから。ほんのちょっとだけ。
母親に相談しても視力が回復したことを喜ばれただけで靄のことは一切取り合ってくれなかった。父親とは反抗期以降あんまり話していなかったので今回のことも話さなかった。
靄のようなものがはっきりとした黒い影になってきた時には、視界の端ではなくしっかりと中心に捉えられるようにもなってきた。
ゆらゆらと揺れていたり、下の方で小さくなっていたり、壁の隅っこに固まっていたりと種類は様々。そしてそれが見えるのは、決まって外出時だけだった。特に駅や住宅街。
その頃には4つの病院に懸かっていた。
「以前の健康診断の時よりも視力が大幅に回復しています」
「特に異常は見当たりません」
「視力が驚くほどに良くなっています」
4つ目の病院でも、結局同じことしか言われなかった。会社に入った頃にあった視力検査では1.0だった視力は今では2.0にまで上がっており、それもはっきりと見えていたので次はもう少し上がっているかもしれない。お医者さんにはどのような回復トレーニングを行なったのかと聞かれたけれど、本当に何もしていない。未だにスマホやゲームはしているし。
「で、結局その黒い靄が何なのか分からずじまい?」
4つ目の病院に懸かった次の日のお昼休憩。同僚でもあり、大学時代からの友人でもある町田芽衣子に相談をした。芽衣子はコンビニで買った小さなサラダをシャクシャクと食べながら聞いていた。
視力が回復したことについてとても羨んでいた、コンタクトの彼女は未だに視界の端のどこかにいる影のことについて不気味そうに顔を顰めた。
「分からない。日に日にはっきりと見えるようになっててさ、ついに人の形に見えはじめた」
「……幽霊だったりして」
芽衣子はニンマリと笑った。
そういえば彼女は大のオカルト好きで、よく心霊スポットにも行っていた。
「何それ〜」
「だって黒い靄で、人の形してて、そんで駅とかに多いんでしょ? 病院とかは?」
「病院にも多かった。駅より多いかも。でも眼科には全然なかったよ」
「そりゃ幽霊が眼科にいるわけないじゃん!」
「幽霊なの?」
「幽霊だよ、絶対!」
身を乗り出して断言した彼女の目はキラキラと輝いていた。
「次の休みの日、心霊スポット行こうよ」
「えー」
嫌そうな返事をしても、乗り気になった彼女を止める術は私は持ち合わせていないので半ば諦め状態だった。
そういえば芽衣子はよく大学の友人達と心霊スポットに行っていたけれど、私は毎回なんだかんだ用事があったりして、結局一度も行ったことなかったなと思い出した。
「ココ! どう?」
スマホで心霊スポットを検索していたらしい芽衣子が画面を突き出した。黒い画面に白い文字。芽衣子が愛用しているらしい心霊スポット特集が載っている記事だった。場所については私は詳しくないのでその名前を聞いても分からない。
「なまいで?」
「コレ、おいでって読むらしい。生出旅館。実際なんて読むのかわかんないんだけど、肝試しやった人たち全員が帰ってきたら錯乱状態でおいでおいでしか言わなくなって、それでどっかの地名をとって生出旅館って名前で呼ばれるようになったらしいよ。」
「ふーん……」
スマホで調べてみると東北の方の地名のようだ。スキー場があるらしく、そっちの方に心が惹かれた。
「都内からはちょっと離れてるけど、ドライブがてら行こうよ」
「いいよ」
「この前お父さんに車貰ったから丁度良かった」
「安全運転でよろしくね」
約束をしてから翌々週。天気は晴れ。私たちは朝9時に家を出て、心霊スポットの近くにあるらしい温泉旅館に向かった。高速道路に入る前にあるコンビニでおにぎりとお茶のペットボトルを買い込んで車の中で食べた。目的地までは車で二時間半ほどかかる。明日も休みなので心霊スポットからは少し離れた旅館に予約も入れて、完全に旅行気分だった。
道中も黒い影が至る所にあったけれど高速道路に入るとあんまり見かけなくなった。
たまにすごく濃い影もあったけれど。
「それにしても先週の忙しさ異常だったよね」
「うん……なんでだろうね。あんなに皆のミスが重なったの初めてだよね」
「キツすぎて死ぬかと思ったよ」
何故か示し合わせたかのように全員が大なり小なりミスをしてしまって忙しすぎて死にかけた先週。新人を虐めることが大好きなお局でさえも疲弊しすぎていたのか、いつも虐めている新人を泣きながら褒め散らかしていた。そのギャップが怖すぎたのか新人は泣きながら退職願をお局の顔面に押し付けるというまさに阿鼻叫喚だった。
そんな地獄のような先週を乗り越えて、今週。あまりにも平和だった。お局と新人が一緒にランチに出かけたくらいに平和だった。心にゆとりが生まれたので芽衣子も私も旅行の計画を立てて実行できたのだ。普段であればもっとダラダラと計画して行くまでに半年はかかるはずだ。
高速道路の途中サービスエリアで休憩をしながら向かい、そして目的地である温泉旅館にたどり着いた。優しそうな女将さんに出迎えられて、2階の角部屋に案内された。窓を開けるとその向こうに広がる緑豊かな森林。オーシャンビューも素敵だけどこういう緑の世界っていうのも中々に素敵だ。その森林の中に複数の黒い影さえなければ百点満点だっただろう。
「温泉行く?」
スマホで景色を写真に収めている芽衣子に聞くと、目をギョッと見開いた。
「心霊スポットに行くって言ったじゃん!」
どうやら忘れていなかったらしい。ちぇっと内心舌を打ち、準備してと急かす芽衣子に促されるように小さな鞄の方に荷物を移し替えた。
所持品、懐中電灯とスマホとティッシュ、そして財布。これくらいでいいだろう。芽衣子は塩を一応持って行こうと言って1キロの食塩を私に手渡してきたのでどうしようかと思って丁度持ってきていた天然水に入れておいた。なんちゃって聖水みたいなものだ。殆ど悪ふざけである。芽衣子はその場でペットボトルのお茶を飲み干してその中に塩を入れて水道水で食塩水にしていた。
準備万端と言えるのかわからないがとりあえず準備はできたので旅館の人に声をかけて芽衣子の車で出発した。
旅館から車を走らせて15分程度だろうか。森林の中を抜けて山を少し登って細い抜け道に入って整備されていない道を車をガタガタと言わせながら進み、そしてそれはそこにあった。
二階建てのその建物は焦げた跡が至る所にあるものの建物自体はしっかりと残っていた。木造の筈なのに、朽ちてもいない。玄関部分は片方のドアが取れていて、近付けば中が見えるだろう。
「結構雰囲気あるね」
——結構どころではない。
殆ど割られている窓ガラスの向こうでゆらゆらと揺れている黒い影。顔なんて見えないのに見られている感覚。ああ、これは駄目だ。私の中の日頃は役に立たない第六感が警告音を発している。
「おいで」
突然、芽衣子が発した声にビクッと肩が跳ねた。
「あれ……? 私、何言ってんだろ」
彼女は自分の発した言葉に不思議そうに小さく首を傾げた。
「ねえ、どう? ここ何かいる?」
「いる。ヤバそうなのがいる。本当無理、帰ろう」
「そ、そこまで?」
「本当に早く帰ろう。今すぐに」
黒い影を見たまま車の方へ走る。芽衣子も一歩遅れて走り出した。
ホラーの定番のようにエンジンがかからない、なんてことはなかった。バックで細道を抜ける芽衣子の運転テクニックは、こんな時でなければ手を叩いて称賛しただろう。
私たちが発進してから数十秒後、車があった場所にソレが立っていた。瞬きをした一瞬のことだった。
ゆらりゆらりと揺れている。顔は見えない。でも私たちを見ている。ゆらゆら、ゆらゆら。怒っているようにも笑っているようにも見える。なんだ、あれは。なんだあのイキモノは。
ソレはこちらを追いかけるような素振りをみせたが、芽衣子の荒っぽい運転の方が勝ったらしい。やがてソレもあの旅館も見えなくなっていた。
公道に出て、少ししたところにあるコンビニ駐車場に車を止めると二人して一斉大きく息を吐いた。暑くもないのに背中は汗でじっとりと湿っている。
「……温泉入りたい」
「……うん」
芽衣子の言葉に大きく頷いた。
ところで、あれは、本当に幽霊だったのだろうか。