身体を交換したからってお前と仲良くなったわけではない!
これは中学三年生の卒業式の日の話なんだが、その日俺の身体に超常現象的な異常が起こり、同じクラスだった眼鏡女子と身体が入れ替わってしまった。
なぜ? どうして?
そんな風に出てくる当然の疑問には、その眼鏡女子が答えてくれた。
「ひ、ひひ……末永君と私の身体が、入れ替わったのは……ひ、わ、私が呪いをかけたからだ、よ……」
身体が入れ替わった瞬間は気づかなかったが、自分の部屋がやけに厨二病チックなデザインをされていた事から、自分の居た部屋が俺のものではない事に気づいたのだ。
そして、部屋にあった勉強机に『夜中の二時に東公園に来て』というメッセージが書いてあったから来てみれば、これだ。
生まれてから初めて入った女子の部屋がアレというのは些か残念だが、それよりもまずは目の前の眼鏡さんが言った事を理解せねばならないだろう。
「はぁ……で? 呪いだっけか。そんなもん信じるくらいなら輪廻転生を信じた方がマシなんだが、それは置いといてだ。アニメとかに出てくる呪いなら、何かしら解呪の方法があるだろ、ああいうのは無いのか?」
「ひ、ひひひひひひひひひ……! よ、よく知ってるね末永君……も、もちろん、あるよ」
気持ち悪い笑い声を辺りに響き渡らせながら、眼鏡さんは言った。
やめなさい、近所迷惑になるでしょ!
「なら、さっさと解呪してくれ。こう見えても俺は男でいる事に誇りを持っていたんだ」
というか、女に生まれてたら苦労するのが目に見えてたからマジで男に生まれてラッキー! とか思ってたくらいだからな。
だって女って私たち超親友! って雰囲気醸し出しておきながら次の日には絶交してたりする闇の集団だからな。正直、あんなに神経擦り減りそうな生き方はしたくない。
そして、今まさに俺はそんな生き方をさせられそうなわけなんだが……。
「ひひひ、そ、それは無理……かな……ひひひひ」
「ほぅ……それはアレか? お前の個人的な私情でか? だとしたら此処でお前をボコして無理矢理解呪させるぞ? 何せ今のお前は男だ、女の俺に殴られても俺がレ○プされそうになったとでも言えば済むだろ」
「ひっ! そ、それは止めて! い、いえ。止めて……ください」
ちょっと凄みながら言うと、眼鏡さんは思いっきり怯えて俺から距離を取り、涙目になりながら謝ってきた。
謝ってくれるのは良いんだが、男である俺の姿でそういう反応されると気持ち悪くなる。自分の容姿だから余計にな。
「あ、あの。実は、私、末永君と仲良くなりたくて……」
「は?」
「ひぅ! ご、ごめんなさいぃぃぃぃ……」
眼鏡さんの口から発せられた予想外の言葉に、つい俺が聞き返すと眼鏡さんは肩をびくっと跳ね上がらせてまた涙目になってしまった。
いや違うから! 凄んだわけじゃないから!
「俺と仲良くなりたいから、何?」
「ひっく……そ、その。か、身体を入れ替えたら、末永君と仲良くなれるかもって思って……ぅぅぅ」
俯きながら、眼鏡さんはそう言った。
まぁ、身体を入れ替えたら仲良くなれるとかいうハチャメチャ思考は放って置けないから後で回収させて貰うんだが、その前に俺は一つ眼鏡さんに聞いておかなければならない事がある。
「あのさ、こういっちゃなんだけど……俺と眼鏡さんって何か交流あった?」
「え……わ、忘れちゃったの…………?」
「……申し訳ないが」
涙目で見つめてくる眼鏡さん(外見は俺)に吐き気を覚えながらも、頷いた。
すると眼鏡さんは、どこから出したのか知らないが鏡を取り出し、俺の方へ向けてきた。
そして、そんな鏡に映っているのは眼鏡さんと化した俺である。
「そ、その……め、眼鏡を外してみてくれる?」
「ん? これを外せばいいのか?」
「うん……それで、思い出すはずだから……」
「了解した」
眼鏡さんの言葉に従い、我が身にかけてある眼鏡を外して鏡を見ると、そこにはパッチリした瞳でこちらを射抜く可愛らしい眼鏡さんの姿があった。
中身は俺だが。
「おぉ、美人だな」
「え、えへへ。あ、ありがとう……」
「礼を言われる事はしてないぞ、っと、これでどうすればいいんだ?」
未だに俺は眼鏡さんとの出会いを思い出せてないのだが。
「お、覚えてない……? わ、私……末永君に、昔、ナンパから助けてもらった事があって……」
ほぅ、眼鏡さんはナンパされた事があるのか。ま、こんだけ可愛けりゃ妥当だが。
それはともかく、俺が眼鏡さんをナンパから助けた、か。
正直、俺は巻き込まれ体質というモノで、よくそんな感じの厄介事には巻き込まれているので余り覚えてなかったりするのだ。
ぶっちゃけ眼鏡さんの件も覚えてないのだが、ここは話を合わせた方が良さそうだ。俺の身体を返してもらう為にも。
「ああ! あの時の!」
「そ、そう! その時の!」
俺がさも思い出したかのように手を叩くと、眼鏡さんも飛び跳ねて喜んだ。
俺の身体でやらなければ可愛いのになぁ……!
「そうか、あの件で俺に興味を持った眼鏡さんは、俺と交流を図るために身体を入れ替えたのか!」
「うん! そうだよ!」
ふざけんじゃねえ! 俺の身体返せ!
と怒鳴ってやりたいが、それをやるとどうせまた眼鏡さんが泣いて話が進まなくなる。
ここは我慢、我慢だ。
「ふむ、話は分かったんだが……なんで、その方法を取ったんだ?」
「え? な、なんでって……」
「いや、同じ学校なんだし普通に声をかけてくれれば良かったのに、なんでわざわざって思ってな」
首を傾げて眼鏡さんに問うと、眼鏡さんは頬を赤く染めて少し恥ずかしそうに俯いた。
……まさかとは思うが、話しかけるのが恥ずかしかったからだとか言い出さないだろうなコイツ。
「そ、その……話しかけるのが、恥ずかしくて…………」
それを聞いた瞬間、俺は白目を剥いた。
話しかけるのが恥ずかしいから身体入れ替えるって何? 馬鹿なのこの子? 真正の馬鹿なの? そんなんで俺の身体を俺から奪ったわけ? いや、普通にぶち殺したいんですけど?
とまぁ、不平不満は腐るほどあるんだがそれを言うとどうせこの馬鹿が泣いて話が滞る。
今は我慢、我慢だ!
「そ、そうか。それで、戻す方法はあるんだろ? 早く身体を元に戻して、これからは友達として仲良くやっていかないか?」
俺は仲良くしたくないが。
「そ、それが……か、身体を元に戻すには、じゅ、呪力が必要なんだけど…………つ、使い果たしちゃって……」
は?
「じゅ、呪力を溜めるのに、一年は必要だから……そ、その! その間は、す、末永君は私として。わ、私は末永君として生きていく、っていうのは、どうかな…………?」
お前が俺として生きていける未来が見えないんだが!?
こうして、俺の女として生きる人生が決まってしまった。
うん、不安だ。
*
高校に入り、俺は眼鏡さんとして新たな人生を歩み始めた。
眼鏡を外してコンタクトにして、根暗な見た目を変えた。
眼鏡を外した眼鏡さんの顔が美人な事は知っていたが、それでも思わず見惚れそうになってしまったのは内緒だ。
性格がアレなせいでその端正な顔は意味をなしていないが。
「眼鏡さん、ちょっと来てくれない?」
そんな俺に、一人の男が声をかける。
いや、まぁコイツの中身は女だが。
「うん、いいよ」
何の用事かは聞かず、頷いて男の背中について行く。
中学の頃よりも背が伸びていた俺は、なんだか大人びているように見えて、元に戻った時に見た目相応の振る舞いが出来るのか心配になった。
そんな事を考えている内に、校舎裏にまで連れてこられた。
そして、それまでずっとこちらを振り返らなかった俺が振り向いて、眉を下げた情けない顔で俺を見てくる。
「……す、末永、君…………」
「おう」
情けない顔をした男こと、眼鏡さんは、俺の目を真っ直ぐと見つめてきた。
以前は俺と目を合わせるだけで顔を赤くして俯いてしまっていたのに、随分と成長したもんだ。
「えへへ…………す、末永君として、生きなきゃいけないから……ちゃ、ちゃんとしなきゃって、思って……」
「ああ。ありがとよ」
はにかみながら言うと、眼鏡さんは少し頬を赤らめた。
いや、これアンタの顔だから。それで顔赤らめんのは少しおかしいからね?
「す、末永君……つ、遂に、呪力が溜まりました……!」
「おおっ! 遂にか!」
顔を真剣な表情に変えて、真剣な声音で紡がれた眼鏡さんの言葉にテンションが上がったように声を上げる。
やっと、俺は元の身体に戻れるようだ。
この一年、女としての暮らしにすっかり慣れてしまっていたが、それでも男としての気楽な生活を夢見る事は何度もあった。
やはり、最初から男として生まれたからには最後まで男として生き抜かなければならないのだ。
でないと、生んでくれた親にも顔向けできないだろう。
「…………末永君」
微笑みを崩せずにしていた俺を、眼鏡さんが呼ぶ。
顔を上げて眼鏡さんを見ると、眼鏡さんは少しだけ申し訳なさそうに俺の目を見つめていた。
「私…………これからも、末永君として生きていたい!」
突然、彼女はそんな事を言った。
「私、末永君になってから、人生が変わったの! 見て! こんなにも流暢に喋れるようになった! 友達も出来た! 私、末永君になれて心底良かったって思ったの!」
嬉々として語る眼鏡さんを、俺は呆然として見つめていた。
何だろうか、この気味悪さは。果てしなくよくない予感がする。
「だから、この身体を……貴方に返したくないんだ、眼鏡さん」
最後に彼女は、そう言い切った。
いや、もう彼女は彼になってしまっているのだろう。
多分彼は、もう俺が何を言っても身体を返してはくれないだろう。
彼にしか身体を入れ替える術が使えない以上、俺がどうこうする事も出来ない。
「そう、か」
開いたまま閉じれなかった口を、どうにか動かして声を出した。
頭は真っ白で混乱してるし、冷静になれる気もしていないが、それでもどうにか頭を冷やして目の前の彼を見た。
もうその顔は情けない表情などしておらず、随分と明るく嬉々として笑うそんな表情が浮かんでいた。
確かに、女で居た頃よりも楽しそうな人生を歩んでいるように見えた。
「俺は、この身体をお前に返したいよ。眼鏡さん」
俺がそう言うと、笑っていた彼の顔が強張った。
「眼鏡さんの家族ってさ、案外みんな優しくて親切じゃん。それで、眼鏡さんの可笑しなところも笑って受け入れてた」
ゆっくりと話し始める俺を、眼鏡さんはさっきまでの俺と同じように呆然と見つめていた。
そんな間抜けな彼の姿に、小さく笑う。
「眼鏡さんのお母さんから聞いたよ。眼鏡さんって、心は男って奴なんだろ? 同一性障害って奴だ」
そう聞くと、彼女は目を吊り上げて睨みつけてきた。
だが、彼女の顔は俺が何万回と見てきた顔だ。俺が怖がるような事はない。
「それで、何だよ。軽蔑するのか?」
「しねえよ、そこはな。……けど、お前がそんな自分の性質と向き合わずに人と身体を入れ替えるなんて非人道的な手段を選んだのは軽蔑した」
眼鏡さんのお母さんはこう言っていた。
『あの子は幼稚園の頃までは男の子みたいな子でね? 活発で元気な子だったんだけど、小学生くらいの頃かな? クラスのみんなに男みたいで気持ち悪いって虐められちゃったで……その時から、あの子は暗い子になっちゃったの』
少しだけ悲しそうに、眼鏡さんのお母さんはそう教えてくれた。
「眼鏡さんのお母さんにさ、すぐバレたよ。俺が眼鏡さんじゃないって。出来るだけ根暗っぽく過ごしてたんだけどな」
眼鏡さんは黙ったまま、俺の話を聞いている。
「あの人は、眼鏡さんが自分の悩みを相談してくれなかったのを悲しそうにしてた。眼鏡さんには、『身体を入れ替える』なんて非現実的な事象に縋るよりも先に出来る事があったんじゃないのか? 自分で悩みを抱え込まずに、最初っから人に頼っていれば――」
「うるせえな!! お前に何が分かんだよ!」
黙りこくっていた眼鏡さんは、耐え切れなくなったように怒鳴り声を上げた。
赫怒をまき散らす眼鏡さんは、溢れる感情を声にして叫んでいる。
「ずっと辛かったんだよ俺は! 女の癖に『俺』って一人称は気持ち悪いって! 女の癖に男の服を着るのはおかしいって! そう言われた時から、ずっと辛かった!」
喚きだした眼鏡さんを、俺は黙って見つめている。
「ネットで同一性障害に調べてみたら、やけにそんな障害の人達を憐れんでいる人たちが出てきたさ! だから、期待してたんだ。いつか、俺を受け入れてくれる人が出てきてくれるんじゃないかって! でも、そんな奴は現れなかった!」
いつの間にか目から涙を流して、眼鏡さんは続ける。
「だから、気づいたんだよ。俺がなりたい容姿の奴を見つけて、そいつと身体を入れ替えればいいんだって」
口端を吊り上げて、彼は笑う。
そして俺は、未だ無表情のままだった。
「……それで、そんな容姿を持っていたのが俺だったってわけか。なら、お前が俺を好きってのも嘘か。道理で記憶になかった筈だ」
俺が巻き込まれ体質な事も、事前に調べてあったのだろう。
だからこそ彼は俺がやってそうな出来事をでっちあげ、俺との接点を無理矢理作り上げた。
「はははははははっ! まだ信じてたのかその話? んなもん嘘に決まってんだろうが! 高校でお前とまともに話してなかった時点で気づかなかったのかよ!」
「ああ、恥ずかしながらな」
ケラケラと笑う眼鏡さんは人が変わったようで、これが本当の彼なんだと思うと少し悲しい。
これまでずっとこの本性を隠して生きてきたんだとしたら、彼はどれだけ孤独だったんだろうか。
「……憐れんでんじゃねえよ」
そんな俺の視線が不愉快だというように、彼は笑っていた顔を瞬時に顰めて俺を睨んできた。
「すまん」
「ちっ! まぁいいや。じゃあな、今からお前が『清宮 眼鏡』だ。これから頑張れよ」
そう言い捨てて去っていった彼は、これからの人生が楽しみでたまらないとでもいうかのように浮足立っていて、昂る感情を制御できていないように見えた。
そんな彼の背中を目で追っていると、道行く男子生徒から声をかけられて共に笑いながら話し始める彼が視界に映る。
「……」
俺はそんな世界から視線を逸らして、家への帰路に向かった。
*
あれから二年が経った。
結局眼鏡さんの身体から俺は出られないまま、高校生活を終えてしまった。
大学は、眼鏡さんを追うように同じ大学に入る事に決めた。往生際も悪く俺は、眼鏡さんとの身体交換を諦めてはいなかった。
「じゃあ、行ってきます、清宮さん」
「いってらっしゃい末永君。眼鏡をよろしくね?」
分かってます、と笑って言って、俺は大学へと向かった。
大学の必修。
面倒に思いながらも必死に眠気を堪えてノートを取っていると、後ろの席から活発に話す彼の声が聞こえた。
「あのさ、明日俺の出席取っといてくんね?」
「ん? 何か用事か?」
どうやら、友人から何か頼みごとを受けているらしい。
そして彼が快くその頼みを引き受けると、友人の方は手を合わせて感謝の言葉を述べていた。
そのまま談笑して、結局授業を真面目に受けずに彼は友人と話し続けた。
心底楽しそうにしながら、彼は笑っている。
「……ちっ」
その様に舌打ちをして、俺はその授業を終えた。
昼休み。
珍しく大学の中庭のベンチに座って一人でメロンパンを頬張っている眼鏡さんを見かけて、傍に駆け寄った。
「よっ!」
「は? なんで居るんだよ?」
俺の姿を視界に入れると、彼は眉間に皺を寄せて不愉快そうに俺から目を逸らした。
あの日から、ずっとこうだ。
俺が眼鏡さんに近づこうとしても、彼の方から俺を避けるせいで俺は眼鏡さんと話す機会を得られなかった。
だが、こうして偶然手に入った好機を見逃す程、俺は間抜けではない。
「一緒に飯食ってもいいよな?」
「あ? 駄目に決まって……って、もう座ってんじゃねえか」
彼の横に座り込み、清宮さんに持たされた弁当を鞄から取り出す。
カパッと弁当箱の蓋を開けると、何かのキャラクターをモチーフにしたおにぎりが顔を出す。
大学生に持たせる弁当じゃないだろ、と内心苦笑しながら、俺は弁当を食べ始めた。
「あ、それ……」
「ん? このおにぎりの事か?」
俺が手にしたおにぎりを見て、眼鏡さんは少し驚いた様に目を丸くした。
「……まだそれ作ってんだ、母さん」
「え、眼鏡さんの頃からそうなのか?」
俺が聞くと、眼鏡さんは頷いてうんざりしたような表情をした。
「ああ、そうだ。ってゆうか、俺が昔そのキャラクターのアニメをよく見てたからな。作ってくれてたんだろ、知らんけど」
他人事のように語る眼鏡さんに少しイラっときながらも、俺はそれを表には出さずに黙々と弁当を食べる。
うん、今日も旨い。けど、たまには豚カツぐらい入れてくれてもいいんじゃないですかね清宮さん?
「ごっそさん! じゃ、またな」
去っていこうとする眼鏡さんの腕を掴み、浮いていた尻をまたベンチにつかせた。
すると眼鏡さんは俺の方に顔を向け、その目で俺を睨んできた。
その顔はずっと見てきていて、最早慣れていた顔だった。
「んだよ? 俺もう帰るんだけど」
「俺もそうだ。だから、今日はちょっと俺に付き合え」
「はぁ? 嫌に決まってんだろうが。どうせまた性懲りもなく身体を返せとか言ってくるんだろうが」
「違う。とにかく、ついて来てくれ」
引く気のない俺を見てため息を吐いた後、眼鏡さんは渋々俺に連行された。
大学のキャンパス内から出て、電車に乗る。
家の方向は同じなので眼鏡さんからしても遠回りではない為、度々出くわすことはあったが向こうから避けられてしまうので話せる事は滅多になかった。
そんな苦労に思いを馳せている内に、降りる駅に着いた。
「降りるぞ」
「分かってるよ。ってか、もっと女っぽく喋れよ」
「眼鏡さんがそれを言うのか?」
「……今の俺は末永だ」
「はいはい」
不愉快そうに眉を寄せている眼鏡さんの手を引いて、眼鏡さんの家へと向かう。
俺が今住んでいる、眼鏡さんの家だ。
「もう、長らく帰ってないだろ?」
「人を家出少年みたいに言うな。末永の家にはちゃんと帰ってるよ」
そこはお前の家じゃないだろ、と言いかけて止める。
言ったところで、眼鏡さんはまた眉間の皺を増やすだけだ。意味がない。
玄関のドアの鍵を開けて、眼鏡さんを家に入れた。
「……お邪魔します」
「……」
『ただいま』って言えよクソが。
他人行儀に家に入る眼鏡さんに、妙な苛立ちを覚える。
たった三年で『松野 末永』になれたと思っている彼を、腹立たしく思う。
それを必死に堪えて、彼をリビングに招いて座らせた。
「何飲む?」
「ん? じゃ、紅茶で頼む。あるんだろ?」
知った風に言う彼は、まさに知っているんだろう。
この家に住む清宮さんが、紅茶好きな事も、それ以外についても。
「……分かった、ちょっと待ってろ」
キッチンでお湯を沸かしている間に、眼鏡さんと話を始める為に再び彼の近くまで戻った。
彼はキョロキョロと辺りを見渡して、たまに懐かしそうに眼を細めた後、また何処かに視線をやっていた。
そんな彼の様子を見ていた俺の視線に気づいた眼鏡さんは、少し恥ずかしそうに頬を染めて俺から顔を逸らした。
だから、その仕草を俺の顔でやるなよ。
「ふっ、懐かしいのか」
「うるせえ、話しかけんな」
拗ねたように口を尖らせる眼鏡さんは何処か幼稚だ。
外見とのギャップというのだろうか、それが微笑ましく映ってしまう。
もっとも、俺はナルシストではないのでそう思う事はないが。
「懐かしいならさ、たまには寄ってみても良いんじゃないか?」
「寄らねえよ。つか、お前は俺の家に寄って来るなよ。この前彼女だと勘違いされて大変だったんだぞ」
うんざりした表情をした彼の顔を、真顔で見つめる。
そんな俺に不信感を抱いたのだろうか。彼は訝し気に俺と目を合わせた。
「……眼鏡さんは、いつか彼女を作ったりとか考えてるのか?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、彼は目を見開いた後、
「は? んだよ急に。作るわけねえだろ、そんなの」
吐き捨てるように、そういった。
「なんでだよ。男なんだから、色恋に興味ぐらいあるんだろ?」
「ねえな。女として生きてて分かったんだよ。女なんて所詮、友情染みた青春劇やっているように見せかけて陰ではそんな友情を育んできた相手を馬鹿にしてたりするんだ。そんな外道共と一緒に居るのなんて耐えれらるかっつの」
女に対する嫌悪感を隠そうともせずに、眼鏡さんは語句を強めて言う。
やはりというか、予想通りというか。俺と眼鏡さんはどこか似ている。
女に対する見解や、男として生きる人生の気楽さに対する理解も。
俺が三年前に思った事と、よく似ている。
「そこまで分かってて、俺を女にしたのか。性格悪いな、お前」
「ははっ! まあな!」
笑ってはいるが、それでも俺に罪悪感は抱いているのだろう。
その笑顔は曇っているように見える。
「……俺だって、お前に申し訳ないとは思ってるんだ。俺のせいでお前の人生を滅茶苦茶にしちゃったわけだしな」
心底申し訳なさそうに、似合わない低い声で眼鏡さんは謝罪の言葉を口にする。
「ああ、そうでないと困る。罪悪感も背負わずにただ笑って生きていられたなら、流石の俺もキレてた。それぐらい根を上げていてくれれば、俺も少しは溜飲が下がる」
俺がそういうと、彼は笑ってこう答えた。
「ははっ、そうか。確かに、罪悪感を一生背負っていくのはキツイけどな! …………けど、男としての人生を捨てるよりは百倍マシだよ」
「……そうか」
真剣な声音で最後の言葉を紡いだ眼鏡さんに、俺の心は折れてしまった。
もう、何を言っても無駄だと、心底思ってしまったのだ。
「……じゃ! 俺もう帰るわ」
「紅茶はいいのか?」
「ああ。他所の家にお世話になるのも悪いしな」
そう言って玄関に向かう彼に続いて、俺のその背中についていく。
「じゃあな、眼鏡さん!」
無邪気に笑って手を振る彼に、俺も小さく手を振り返して、
「さようなら――――末永君」
俺は無意識に、そう呟いていた。