27話 蜜月の甘さ〈アーネスト視点〉
皆が一番人生が充実していると感じるのは、一体いつなのだろうか。
俺は、まさに今がその瞬間だった。
リディが俺の妻になってくれた。
それにより、リディが嫁いできた日以来、今までは簡単に会えなかったリディと好きなだけ会えるようになったのだ。
そのことは、今まで共有できなかった時間を埋め合わせるかのように、俺の心に彩りを与えた。
好きな人がそばにいてくれる。それだけで、俺の世界はこれまでとは全くの別物になった。
リディが「美味しいです」と言って、見ただけでも分かるほど美味しそうに食事をする愛らしい姿。
真剣な眼差しで仕事に取り組む、涼やかで凛々しい姿。
そんな姿と一転し、俺にだけ見せてくれるあどない寝顔。
リディという存在、彼女とともに過ごす一瞬一瞬、それらすべてが本当に愛おしくて、幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうな日々の連続だ。
彼女がいてくれるからこそ、より公務にも力が入るし、やる気がみなぎる。今や彼女は俺に必要不可欠な原動力となっていた。
「リディ」
こうして名前を呼べば、すぐにきょとんとした可愛らしい顔で彼女がこちらを向く。
「アーネスト様、どうなさいました?」
「ちょっと呼んでみたくなったんだ」
「っ……! ふふ、可愛らしい方ですね」
読んでいた本を閉じて、口元に手を添えからかうように笑うリディ。まったくどちらが可愛いんだか。
思わず込み上げそうな笑みを微笑みに留め、俺は斜め前の一人掛け用の椅子に座る彼女に訊ねた。
「邪魔したか?」
「いいえ、ちょうどキリの良いところでした」
リディは微笑むと膝上の本を机上に置き、俺が座る長椅子の隣に座り直した。
「続きはいつでも読めますから」
俺の顔を覗き込みながらそう言うと、リディはおもむろに両腕を俺の右腕に絡め、コテンと頭を俺の肩に預けた。
右腕を中心にリディの温もりが伝うにともなって、俺の鼓動は急速に加速する。
だが、時間が経つにつれリディの熱は心地よい温もりと安らぎになり、俺の鼓動はいつも通りの落ち着きを取り戻した。
そのときだった。
「アーネスト様」
「ん?」
心地のよい甘く澄んだ声に名前を呼ばれ、ふと隣に視線を向ける。肩に預けた頭を外し、俺の顔を上目で見るアーモンドアイと視線が交差した。
「どうした?」
自分でも驚くほどの優しい声音に内心驚く。だが、そんな俺の耳には更なる驚きの言葉が飛び込んできた。
「呼んでみただけです」
リディはそう言うと、ほんのりと顔を桃色に染め上げ、イタズラに成功したとでも言うように、はにかむような笑顔で笑った。
――なんてことだ、可愛すぎるっ……!
生きていて良かったっ……。
明言されていないが、実質人質留学を経験した身からすると、この当たり前は決してそう簡単に掴めるものでは無かった。
それだけに、このリディの笑顔は何物にも代えがたい宝物で、一生守り続けていかなければならないものだと、改めて強く心に誓った。
リディはこの結婚に際し、長年一緒に居続けたポーラと離れ離れになった。
ポーラの申し出だと言うが、そうだとしても寂しい気持ちはあるはずだ。
だが、そんな寂しさなんて忘れさせるほど俺がリディを幸せにしたい。これからはポーラでも誰でもなく、俺がこの手で彼女を支えたいし力になりたい。
――リディ、絶対に守り抜くからな。
全身の愛をこれでもかと伝えるべく、俺はリディのすべてを包み込むように、彼女の身体をギュッと抱き締めた。
◇ ◇ ◇
「アーネスト殿下」
「どうした、サイラス卿?」
必要外で積極的に話しかけてくることのないサイラス卿が、珍しく声をかけてきた。何かあったのだろうか。
「殿下はリディア妃とご結婚なさってから、見るからに質良く生産性が向上しましたね」
手に持つ書類をパラパラと捲るサイラス卿が、感心とからかいが相まった表情をこちらに向けた。そんな彼の言動に、俺はつい頬を緩ませた。
確かに、指摘通りの自覚があったからだ。
リディのために早く仕事を終わらせたい。かといってリディは適当な仕事をする奴が一番嫌いだ。
そのため、必然的に彼の指摘の結果になったという訳だった。
――まあ、俺も適当な仕事は嫌いだがな。
「彼女が俺をそうしてくれたんだよ」
思ったままの言葉をサイラス卿に返す。すると、彼は目を見張ったが、すぐさま端麗な表情に微笑を湛えた。
「左様ですか。仕事だけでなく、以前より元気そうに見えるのもリディア妃のおかげでしょうか?」
「ああ、リディが居てくれるだけで元気になるんだ」
俺の答えを聞くと、サイラス卿は再び口元に笑みを湛えた。しかし、その目には先ほどまでとは違う陰りが見えた。
どうしたというのだろうか。やはり、今日はどこか様子がおかしい気がする。
つい訝し気な視線を向けると、サイラス卿は意味深な様子で控えめに言葉を紡いだ。
「結婚とは……やはりいいものでしょうか」
「ああ、俺はな。……想い人でもいるのか?」
わけありな様子の彼に自然と違和感を抱き訊ねる。
だが、返ってきたのは俺を試すような言葉だった。
「さあ、どうだと思います?」
コンコン。
サイラス卿の言葉の直後、ノック音が聞こえた。
その音に入室の許可を返すと、扉の隙間からひょっこりと顔を出したのはリディだった。
「アーネスト様。孤児院と救貧院の予算案をご確認いただきたいのですが――」
「リディ!」
会えないはずの時間に不意打ちで会いたい人が現れ、気持ちが一気に高揚する。そんな中、俺の側近であるサイラス卿はいつもの動じず冷静な態度を貫いていた。
「リディア妃、ごきげんよう」
「あら、サイラス卿! ごきげんよう」
リディが微笑むだけで、釣られて俺の口角も上がる。
すると、俺の顔を見るなり不思議そうな顔をしたリディが、首を傾げながら声をかけてきた。
「何か楽しいお話でもされていたのですか?」
「ああ、結婚して幸せだと惚気ていたんだ。あとは、サイラス卿の話を聞こうとしていた」
「あら、もしや以前ベル卿が仰っていた方と何か進展があったのです?」
リディはそういうと、邪気のない目でサイラス卿を見つめた。その瞬間、あの冷静沈着なサイラス卿が、手に持っていた書類をドサッと床に落とした。
「まあ! 大丈夫ですか?」
リディは目を見開き驚きながらも、躊躇い無く膝を突いて床に落ちた書類を拾い始めた。俺も当然、書類を拾う。
塊で落ちたため、すぐにすべての資料を拾い上げ終えた。しかし、サイラス卿の動揺はまだ終わってはいなかった。
「も、申し訳ございません」
「気にするな」
「お気になさらないで」
たじろぐサイラス卿は俺たちの言葉に軽く頭を下げると、そのままリディに話しかけた。
「ところで、なぜリディア妃がその話をご存じなのですか?」
「結婚式のときに、ベル公爵から小耳に挟んだもので……」
リディはそこまで言うと、ね? と問いかけるように俺に目を合わせてきた。その記憶があった俺は、当然リディに同意するように頷きを返す。
するとその瞬間、サイラス卿が形の良い眉をギュッとひそめ、困ったように髪をかき上げた。
「その婚約話は成立しませんので、どうか父の戯言だったと忘れてください」
◇ ◇ ◇
「サイラス卿、あのあとどうでしたか?」
風呂から上がって来るなり、長椅子で休んでいた俺を見つけたリディが訊ねてきた。
「仕事のミスは一切無いが、終始様子がおかしかったよ。明日には直ってるといいんだが……」
俺の言葉に、まだ心配な要素があったのだろう。リディは俺の座る椅子の方へと歩みながら、困ったような表情を浮かべた。
「ベル公爵は、活動的な方ですからね。……サイラス卿、大丈夫でしょうか? 彼はアーネスト様の優秀な側近ですし、何か――」
自分ごとのように悩ましげなリディはまだ言葉を続けようとしたが、言い切る前に俺はリディの手を引き、自分の膝の上に座らせた。
「ア、アーネスト様っ……!? ちょっと、この体勢は……」
突然の行動に驚いたのか、リディは風呂上がりで血色良くなっていた顔を、さらに赤らめた。その可愛らしい唇に、俺は軽くキスを落とした。
「リディ」
「ど、どうされたのですっ?」
あまりにも重すぎる感情を突然ぶつけたら、リディに嫌がられるかもしれない。そう思い、言葉を出す前に戸惑うリディをギュッと抱き締めた。
すると、未だ状況が理解できていないらしいリディは、されるがまま懐に抱かれながらも、ワタワタとした様子で口を開いた。
「な、何だか少し熱くありませんか? 窓でも開けて――」
「開けなくていいよ。今がちょうど良い温度だ」
「そ、そうですかっ……」
リディはそう言うと、さらに頬を紅潮させた。彼女の羞恥が頬を駆け上がるこの姿に、少し優越感を抱く自分がいる。
だが一方で、人のことなど言えないほど、俺の身体も徐々に熱を持ち始めていた。
そんな中、俺は腕の中の彼女に嫉妬をぶつけた。
「リディ……俺の事もっと見て?」
「えっ……ず、ずっと見てますよ!」
「本当か? さっき、サイラス卿の話ばかりしていたけど?」
俺の意地悪な言い方に、上目で俺を見るリディは困ったように眉根を下げた。その愛らしい表情を見て、彼女を抱き締める腕により力が入る。
だがその直後、リディは思いもよらぬことを告げた。
「そう仰いますが、アーネスト様こそ私のことをちゃんと見ていますか?」
正直、愚問だと思った。だって、俺はリディの事しか見えていないくらいの人間なのだ。
それなのに、見ているのかと問われるなんて。
「俺はリディの事しか見ていないよ。リディも知ってるだろう? 俺がどれだけリディを愛しているか」
彼女は俺の言葉を受けると、まるで可愛らしい小動物のように真ん丸に目を見開いた。
しかし、すぐにその表情を柔らかく綻ばせた。
「それなら良かったです」
「どういうことだ?」
「それだけ私のことを見てくださっているのでしたら、私がアーネスト様のことがもっと好きになっていることにも気付いているはずですから。 ね?」
恥じらいの表情を浮かべつつも凛としている。
そんなリディが、俺の頬を撫でながらとんでもない威力の言葉をぶつけてきたものだから、思わず硬直してしまった。
「リディ……それはずるいよ……」
情けない声が口から漏れる。だが、ここで黙っているわけにはいかないと俺も彼女に言葉を紡いだ。
「俺もリディがもっと好きになったよ、毎日好きが更新されてるんだ」
ギュッと抱き締める力を強めると、彼女は無言のまま腕を回して抱き締め返してくれた。
「誰かをこんなにも愛おしく思える、その感情を俺に教えてくれたのはリディだよ」
そう言うと、リディが俺を抱き締めたまま首元に埋めた顔を上げた。互いの視線が交わる。
その瞬間に告げた。
「ありがとう、リディ。愛してるよ、これから先もずっとだ」
頬、鼻、瞼、額、こめかみ、そして手で掬い取ったシルクのような一房の髪に軽くキスを落とす。すると、顔を赤らめたリディが幸せそうに頬を緩ませながら口を開いた。
「嬉しいです。私が一生愛する方もアーネスト様だけですよ」
そう言って、今度はリディから頬に口付けてくれた。
互いに顔を見合わせ、思わず笑みが零しながら額を合わせる。
そして、そのまま再び視線が交差した俺たちは、深く甘い口づけに酔いしれたのだった。
お読みくださりありがとうございます(*^^*)




