最後の金星
イギリスの夏は午後9時半まで明るい。だが、暮れなずむことはない。
水色の空は半を過ぎれば、カタンと音を立てたように濃紺に変わる。
独り暮らしの気ままさで、夕食の洗い物を済ませて散歩に出てみた。
夫も私も18年間通勤に使った青い橋まで。
たった8メートルの小さな橋。
水面までは結構遠く、空を映す水幅も3メーターないくらいだ。
真ん中に佇んでゆっくりとした流れを見つめる。
スローな川には水深があるらしい。
ふと、頭の上から声がする。聞き慣れた声なので私も振り返りはしない。
「何を見ている?」
「白鳥……」
「今日はもっと上流、駅のほうで見たが?」
声はそれ以上私を問い詰めることはしない。
「一緒にいられて、いいなって」
「見えるのか?」
「見えるよ」
「何度も何度も、見たな」
「うん。見つけたらメッセし合ってたよね。待ち合わせて眺めた」
「お前には待たされてばかりだ……」
真意がわからなかった振りをして、私は白鳥の話題を続ける。
「日本では冬鳥なのに、ここでは夏、子育てが見られるもの、見ない手はないわ」
「かわいかったな」
「うん、泳ぎ始めがかわいい。体大きくなっても当分グレーで」
ウェスト周りにふと圧がかかる。
「飛ぶな、まだ、迎えに来たわけじゃない……」
「絆がまた切れたの」
「お前が切ったんじゃないのか?」
「そうなのかな?」
俯いたら涙になった。
「なんでみんな私は大丈夫だと思うんだろうね?」
「大丈夫だからだろう?」
「冬の白鳥さん、見に行けるかな?」
「迷惑でなけりゃあな」
「そうだね……」
自分の存在自体が迷惑だと、思えてならない。
夜の帳は降りて、辺りは漆黒の闇に変わる。
思い出したように街灯が、ぱらんぱらんと点滅してから、家に続く道を照らした。
あの家には、声の主はもういない。
川に目を戻すと水面は見えず、残像の白鳥が2羽、橋の下を浮遊した。
私は身長より低い青い欄干を越える。
輝きだした金星が水面に映っていた。
それが最後に見たものだ。
by 秋の桜子さま
by 天理妙我さま