夏の雨
「降ってきそうだな……」
エアコンの効いている図書館のフリースペース。そこに並べられた机の一角に陣取っていた少年は、薄汚れた窓越しに空を見上げて呟いた。七月も終わりに差し掛かる中、いまだに梅雨から抜けきれないでいた空は、陰鬱な様子を湛えた雲に覆われていた。
梅雨時というのは、まったく嫌な天気が続く。今にも雨が降り出しそうだが、これがどうしてかなかなか降り出さない。しかしながら空は曇り続けていて、日の光を拝める機会はそうそう訪れない。
そうした日々が続くと、いっそのこと雨が降ってくれよと思うのだが、いざ降ってみるとじめっとした細かい雨粒が体に纏わりつくのだから堪ったものではない。それに加え、なぜだかこの時期の雨は強さが中途半端である。傘を差していくべきか、それとも不要か。あるいは自転車に乗れるか乗れないか。ひと思いに降ってくれればすんなり決められるのだが、中途半端な雨ではそうはいかない。優柔不断な彼は、毎度のことだと思いつつも、どうしても悩んでしまう。そして、やれ傘をさして行くだの、やっぱり自転車に乗ろうだの、ようやく決心するのだが、どういうわけだかその選択には後悔が付きまとう。
そういうのをひっくるめて、彼は梅雨が嫌いだった。はっきりしない自分にもどかしさをおぼえ、だからか、はっきりとしない天気にも嫌気がさしていた。
「帰ろうかな……」
目の前に広げられている、数学の問題集とノートを見ながら、また呟いた。解答に行き詰まって、筆を止めているところだった。これ以上考えても何も出てこないや、と半ば諦めの念を抱きつつ、そんな自分がどうしようもないくらい嫌になっていた。
彼はさる私立の学校に通う中学二年生である。もともとは順当に公立の中学校に通う心積もりであったのだが、教育熱心な母親に半ば強制的に受験をさせられた。勉強漬けで気心の知れた友人らと遊びに行けぬ毎日が続いたせいで、彼は精神的にかなり疲弊しながらも、なんとか私立中高一貫校の合格をもぎ取った。彼としてはそれで母親の目的は十分達成されただろうと踏んでいた。しかし、母親の目はすでに六年先の大学受験の方へ向けられていた。おかげで母親からは毎日のように難関大学に合格しなさいと圧をかけられ、結局勉強漬けの日々を送っている。家で勉強をしていると母親が煩わしいので、最近は専ら図書館に入り浸って勉強をしていた。今日とて例外ではなく、朝の十時ごろに訪れてから、夕刻に近づくまでずっと、自習を――夏休みの課題を少々交えつつ――していたのだった。
「あきらめるか。また後で考えればいいし」
ややしばらくの間、数式とにらめっこをしていた彼だったが、ついにノートを閉じると、シャープペンシルと小さくなった消しゴムを筆入れに片付けた。それから、荷物をすべて手提げにしまいこみ、席を立った。立つ鳥跡を濁さず、と思いつつ机の上に残った消しゴムのカスをしっかりと払うのも忘れなかった。黒いカスは宙を舞い、まばらに床へと落ちていった。
図書館を出ると、とたんにむわっとした熱気が押し寄せてきた。これから雨が降りそうだというのに、やけに暑い。なんだかおかしいぞと思いつつ、彼は家路を急いだ。
家に着くまではせいぜい二十分ほどである。もしかしたら、雨に降られずに帰れるかもしれない。もっとも、手提げの中には折り畳み傘が入っているから、仮に雨が降ってきたとして濡れることはないだろう。ただ、彼は梅雨の雨の、じめじめとした空気の中を歩いていくのは避けたかったから、自然とその足取りを早めていた。
ポツリ、と雨粒が頬に当たった。遅かったか、と彼は舌打ちをする。足元を見やると、大きな雨粒が、ゆっくりと、しかし着実に、アスファルトを濡らしていることがわかった。
彼はやれやれと思いながら、折り畳み傘を取り出した。傘を開く間にも、雨粒は次第に勢いを増しながら降り注いできた。傘をさしたころには、既に雨粒がとめどなく地面を叩いていた。傘にぶつかって、雨粒はたびたび鈍い音を立てた。その音を聞きながら、彼は、なんだかいつもと違うぞ、と思い始めていた。
梅雨の雨というのは、細かい、厭らしい雨が音もたてずに降ってくるものである。少なくとも彼の中ではそういう定義付けが為されていた。それと照らし合わせてみると、どうやら今の雨は梅雨の雨ではなさそうだ。大きな雨粒は、傘や、地面や、屋根にぶつかっては、何やら不思議なリズムを刻んでいる。梅雨の雨にはこんな芸当はできまい。
そんなことを考えている間にも、雨はどんどんとその勢いを増していった。その場に立ち込めているのは、もはやリズムだのと言ってはいられないような轟音である。地面にぶつかった雨は跳ね返り、彼の足をどんどん濡らしていく。
と、今度は遠くからゴロゴロと音がした。雷だった。やはりこれは梅雨の雨ではない、と彼は確信した。こんなに激しい梅雨の雨は見たことがない。だいたい、じめじめとした陰気くさい印象が全くないのだ。肌に張りつくような雨ではない。肌についた雨は、その勢いのまま滝のように体を流れていく。
しかしながら、いまだ梅雨が明けたという話も聞かない。そう考えると、これは梅雨の雨なのだろうか。否、彼は歩きながら、ひとり首を振った。どう考えてもこれは梅雨の雨ではない。梅雨の雨であるはずがない。では、何だ? この雨は、いったいどの雨なんだ? 自分に問いかけながら、彼はすぐに答えにたどり着いた。ああ、そうだ。間違いない。
「夏の雨、だ」
ポツリとつぶやいた。その声は、激しい雨音に消されて、誰の耳にも届かなかった。
夏の雨は激しい。いわゆる夕立というやつである。昨今はゲリラ豪雨などとも言われ、世間様からは到底歓迎などされない雨。しかしながら、梅雨よりも大いにはっきりとしたその雨が、彼はお気に入りだった。
やがて彼は、小さな川に出てきた。川の両脇には、並木道が整備されている。その並木の下を、彼は雨に濡れつつ歩いて行った。家までの行程はすでに半分を過ぎている。この並木を進んでいった先に、彼の家はあった。
木々の下を歩きながら、ふと、彼は息を吸い込んだ。なんだか不思議な、懐かしいにおいがした。
「夏の雨の匂い……」
それは、木々の葉が出すような、それとも土から香るような、はたまた雨自身の匂いのような、とにかく得体のしれない匂いだった。あるいは木々も土も雨も、すべての匂いがごちゃ混ぜになった匂いなのかもしれない。どうにせよ、彼はこの匂いを気に入っていた。夏の雨が生み出す、独特な匂いだった。その匂いを嗅いでいると、なんだか数年前の、幼い自分を思い出すようであった。まだ小学生だった、あの頃。受験のことなんかこれっぽちも頭になかった、あの頃。目的もなく、友達と遊び惚けていた、あの頃が、彼の脳裏に克明に映し出された。気楽でよかった。何も考える必要がなかった。ただ、自分の楽しいと思うことを、享楽的な面白さをひたすらに追求していた。
川の水に目をやると、少し濁った川面を、雨粒が躍って波紋を作っていた。すでに体はずぶ濡れである。貧弱な折り畳み傘は、夏の雨の強さに耐えきれない。背中も、足も、腕も、とにかく体の至る所が水浸しであった。なんならこのまま川に飛び込んでも変わらないくらいに、ぐっしょりと濡れていた。いや、もしかしたら水の踊る川に飛び込んでしまったほうが、なんだか面白いかもしれない。彼の中の無邪気な彼が、頭の中で囁いた。やっぱりやめよう。彼はそれを押し込めた。だいいち、このまま飛び込んで手提げの中身が濡れてしまっては困る。教科書やらノートやらは、手提げ袋に守られていまだ濡れていない。彼は手提げをぎゅっと体に寄せ抱えると、足早に歩いて行った。
だいたい、さっきから何を馬鹿げたことを考えているのだろうか。結局、雨になんて濡れない方がいいに決まっている。自分は鬱屈とした日々に疲れているに違いない。だからこそ、おかしなことを思いつくのだ。
途端に、雨の勢いが弱まった。今までの轟音がなんだったのかと思うくらいにあたりは静まり返り、体に雨がぶつかることもなくなった。心なしか、例の匂いもなくなったような気がした。まるで、最初から何事もなかったかのような、そんな錯覚にとらわれた。もっともそれが錯覚であることは、相変わらず濡れて気持ち悪い状態の靴下が物語っていた。
「もう止むのか……?」
空を見上げつつ、今のうちにと足を速めた。もしかしたらこのまま止むかもしれないし、再び降ってくるかもしれない。後者ならば当然濡れるから最悪であるし、前者だとしたらもう少し図書館にいればよかったという後悔が付きまとう。どう転んでもいい結果はない。
彼は舌打ちをした。「梅雨の雨と変わんないじゃんかよ」
家まではあと五分くらいだ。なんだかこのまま無事に帰れそうな気がして、そうすると図書館を出た自分の判断が間違っていたのだと思いなおし、複雑な気持ちのまま歩いていた。結局、どんな雨が降ろうと自分は後悔する運命にあるのだろうかと、足を進めるたびに気持ちが沈んでいった。
不意に、雨音が激しくなってきた。まさか、と思う暇もなく、大粒の雨が再び降り注いできた。そういえば、夏の雨は緩急が激しいものだったと、彼は思い出した。再び背中に雨水が叩きつけられ、また地面を跳ね返った水が足を濡らした。
「あと少しで家に着くんだけどなあ」
空を見上げて恨み言を垂れるが、雨は全く止む気配がなく、むしろその勢いを増していた。嫌な雨だこと、と舌打ちをしかけた時、背後から甲高い歓声が聞こえてきた。歓声はすさまじい速さで彼の脇を通り抜けていき、そのまま目の前を走り去っていった。それは、自転車に乗った小学生三人組だった。彼らは何が面白いかも判らぬまま、ひたすら嬉しそうに自転車をこぎこぎしているようだった。全身ずぶ濡れだし、きっと雨粒のせいで前もよく見えぬだろうに、ちらりと見えた顔には、晴れやかで、無邪気な笑みが湛えられていた。
何がそんなに楽しいのだろう。わからないふりをしながら、彼はすでに答えを知っていた。楽しいことに理由なんてない。ただ、楽しいのである。
楽しくないことにも、本当は理由なんてないのかもしれない。楽しくない理由を、あれこれこじつけているだけなのかもしれない。きっと少年時代の自分はこの雨に歓声を上げただろうし、友達と馬鹿騒ぎしながら走り回っただろう。なのに、どうして今はこんなにも不愉快な思いをしていたのだろうか?
母親はどうやら馬鹿騒ぎしている彼のことをあまり快く思っていなかったようだった。彼は親しい友達と遊びまわっていたかったのに、受験だからと制限された。受験が終わったら、また思う存分遊んでいられると思っていた。そのことを思って、彼は必死に自分を圧し殺し、勉強に励んでいた。そうして、見事合格を掴み取った。しかし、ひとり私立の学校に通うことになった彼は、次第に旧友とは疎遠になっていった。中学校でも新しい友人ができたりしたが、彼らはみな大人だった。雨の中嬉しそうにはしゃぎまわるような「子供」は誰一人として存在しなかった。仕方がないから、彼は無邪気な「子供」の自分を圧し殺し、いつしかそれが普通になっていた。
人はこうして大人になっていくのだろうか。雨に濡れることに不快感を覚えるのは、大人になってしまったからなのだろうか。そう考えると、なんだか無性に物悲しくなって、彼は傘を持つ手を下した。頭のてっぺんから足の先まで、雨に打たれてみた。そこには、楽しさを感じる自分がいた。結局自分は、子供のままだったのだ。無邪気で、快楽的で、そんな自分を殺しながら生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだろうか。
考えながら、家の前までやってきた。すでに下着までぐっしょりと濡れていた。手提げの中身も無事ではないだろう。玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」と母親が出てきた。そこはかとなく湧き上がってきた満足感をおくびにも出さずに、彼はつづけた。
「まったく、酷い雨でずぶ濡れになっちゃってさぁ。タオル持ってきて欲しいんだけど。あと、このまま風呂いきたいんだけど、入れる?」
夏の雨は、まだ止まない。