下町の洗礼式(中)
門番の横をすり抜け神殿に入る正面階段を上がると、いつもは閉じたままの正面の扉が完全に開け放たれていた。分厚い木製の扉にも複雑な彫刻がされている。
式典が行われる大広間は、先に入った子どもたちで埋め尽くされ、興奮した子どもたちの声が反響して騒がしい。神殿には何度か来たことあるけれど、こんなに人がいて騒がしいのは始めてだ。
神殿の中は吹き抜けのように天井が高く、奥行きがある。正面の扉から真っ直ぐ赤い絨毯が敷いてあり、一番奥に祭壇がある。両サイドの壁側には蔦のような彫刻の円柱の柱が等間隔で並び、柱の奥の壁には様々な神の石像が飾られている。
普段は絨毯を中心に左右に横十人ほどが座れる長椅子がずらりと並んでいるが、今日はそれが取り外され広い空間になっていた。
いつもは飾り気がなく無機質な石の祭壇は、赤い布で覆われ、色とりどりの花が飾り付けられている。祭壇の前に置かれたテーブルにも花が飾られ、果物や布など供物らしい物が並べられている。
改めて全体をグルリと見渡すと、各扉の前には青色の衣を着た神官が立っていた。あまり華美な衣装ではないけれど、たまに神殿で見かけていた神官とは衣装が違うので彼らも式典用の衣装のようだ。
チリーン
扉の前に立つ神官が金色のベルを振ると、想像以上に音が大きくその音が神殿中に響く。その音にディアナが驚いて振り返ると、ギギッと重そうな音を立てて周りの扉が閉まっていく。
きっちりと全ての扉が閉まったのを確認すると、もう一度ベルを振ってチリンチリンと鳴らした。
祭壇の後ろの扉が開き、軽やかな足取りで華美な装飾が付いた青い衣の神官が入って来る。ぞろぞろと入ってきた神官たちの手によって、祭壇に聖書と聖杯が準備される。
「神殿長、入室」
どこからともなく音楽が流れだし、白い衣装の長い裾を引きずるようにゆったりと好好爺然とした風貌のおじいさんが入ってきた。
立派な顎髭を蓄えた神殿長は、そのまま祭壇の前に立ち全体を見渡しながら静かに両手を上げる。
「洗礼を迎えたファンエリオンの子よ、神のお導きにより今日この日を迎えることができたことに感謝し、神に祈りましょう。」
祭壇にいた神官たちがサッと片膝をつき、両手を胸の前で交差させて祈りの姿勢に入る。
「神に感謝。」
神殿長の声は見た目より若々しく低音で聞き取りやすい。祝福の言葉から始まり、続けてファンエリオンにまつわる神話を語り始めた。ファンエリオン建国以前の創成期から始まり、生まれ月の神に関するものだった。
「春の女神フォルツァヌスは豊穣の神ウゥルカーヌに恋をしたが、フォルツァヌスの母神である太陽神ヒュペリオーンは彼女たちの恋に反対し、春になると雷光の神フラグルトゥルをけしかけ二人が会えないよう邪魔をしていた。」
子どもでも分かりやすいように簡単な言葉で、季節の移り変わりを語ってくれている。だけど、結局のところ男女のドロドロな恋愛話なので、心の機微に疎い子どもにはいまいちピンときていないようだ。
ディアナが周りを見るとみんな話に興味もなく、退屈そうに身体を揺すったり、隣にいる子とお喋りをしている。そしてディアナも神様の名前が多すぎて話を理解できないでいた。
「生命を与えるウィトゥムヌスに道を与えられ、太陽神ヒュペリオーンの光に照らされた其方等の足元は、迷うことなく最高神アルゲンティヌスまでの道を示されている。其方等の心が悪に染まらぬ様、悪には夜の女神ニュクスの目隠しを。人を信じられなくなった時は、愛の神クピードーの抱擁を。神の祝福を受けた人はみな、自身で考える力を与えられ、困難に立ち向かう強い心を持つ。みな、等しく神の祝福を与え給え。」
気づいた時には全く内容を理解できないまま神殿長が話を締めくくっていた。
「ファンエリオンの子らに神の祝福を。」
もう一度、両手を上げ神殿長が全体を見渡した。チリンと音が聞こえたので、みんな慌ててお喋りをやめ神殿長の方に視線を向ける。
「では、最後はみなで神に祈りを捧げましょう。神々に祈りと感謝を示すことで、皆等しく加護が与えられます。」
ほとんどの子がお祈りの仕方は洗礼式前に家で教えてもらってくるので、神殿長の言葉でみんな片膝をつき両手を胸の前で交差させる。知らなかった子は周りの子を見てそれを真似するようにお祈りの姿勢をとる。
「神に祈りを捧げます。神に感謝を。」
「神に祈りを捧げます。神に感謝を。」
神殿長の言葉を神官が復唱し、子どもたちみんなで復唱する。
「「「神に祈りを捧げます。神に感謝を。」」」
両手をおろした神殿長は満足そうに頷き、祭壇の後ろにゆっくり下がると、小さく一礼し最初に入ってきた扉から出ていった。
洗礼式が終わりみんながざわざわと騒ぎ始めると、神殿長と入れ替わりに祭壇に神官が立った。これからまた何か始まるのかと、先ほどまで騒がしかったのが嘘のように神殿の中は静けさを取り戻した。
「これより識別登録を行う」
正面に机がいくつか並べられ、神官が何人か並んで手続きの準備をしている。
神官の説明だと洗礼式前の子どもはまだこの国の市民権がないので、これから行う個人の識別登録を済ませて始めてファンエリオンの国民として認められるらしい。どんな理由があれこの儀式を終えなければ、市民権が得られないということだ。
説明が終わると横一列に並んだ神官の前に、登録を行う地区事に振り分けられる。大人たちがみんなでまとまって動くようにっと、口を酸っぱくして言っていた理由が少し分かった。
前の方を覗きこんで小さく「げっ」と声を出している子もいる。わたしもドキドキしながら登録をしている子たちの様子を伺っていると、神官が針のようなもので親指を刺し、その指をギュッと紙に押し付けているのが見えた。
小さく悲鳴を上げている子や、顔をしかめて指先を見ている子もいるが、流れ作業のようにどんどん登録が進む。
「はい、次。こちらへどうぞ。」
あっという間にわたしの順番が回ってきて、空いている机から声がかかった。呼ばれたところへ向かい恐る恐る手を差し出した。
「それほど痛くはないから大丈夫だよ。痛みがあっても一瞬だからね。」
痛くないと言われ痛くなかった試しはない。針で刺された瞬間、鋭い痛みがして赤い血がジワリと盛り上がってくる。やっぱり痛いものは痛い。
「じゃあこれに血を付けて。」
神官に指を押し付けられるのかと思っていたけれど、この神官は紙を手渡してくれた。わたしも他の子と同じ要領で血を付け、予想していたより簡単に終わったのでそのまま列を抜ける。
「え!?あっ!君、ちょっと待って!」
呼びかけられたのと同時に、ガタンっと椅子の倒れる大きな音が神殿中に響く。わたしを担当した神官が慌てて立ち上がったらしく、あきらかに動揺しているその神官の様子に周りの神官が集まってきた。
「どうかしたのか?」
「あぁ、実はおかしな反応があったんだ。これ、どう思う?」
紙を見せられた神官がわずかに目を細めて、わたしを上から下まで一瞥し、紙を覗き込んだ周囲の神官たちがざわつき始める。
あれ?わたし何かやり方間違った?
「少し待っててもらっていいかい?」
「え?あっ、はい。」
そのまま神官はどこかへ行ってしまい、戻って来る気配はない。待たされているわたしの傍らでは、問題なく登録を済ませた子たちが次々に帰って行く。気づけば同じ地区の子はみんな帰り、他の地区の子もほとんど残っていない。全員の登録が終わった机は既に片付けをしている始末。
「待たせましたね。もう一度、登録してもらってもいいかな?」
先ほどの紙とは違う厚手の上等な紙を持ってきた神官は、わたしの手を取ると同じように指に針を刺した。二度目でもやっぱり痛い。
神官はわたしの血で滲む指に紙を押し付ける。
ボワッ
「キャッ!?」
血を押し付けた紙は目の前で突然火がつき、灰も残らず燃え尽きた。
「え?えっ?何これ?」
何が起こったのか分からず神官の顔を見るが、神官は唖然とした表情で立ち尽くしていた。
わたしたちを近くで見ていた神官が慌ててどこかへ駆け出した。
遠くで子どもが騒ぐ声が聞こえる。まだこの場に残っていた子は突然起こったことに悲鳴を上げ、怯えて泣き出した。
泣きたいのはわたしだ。勘弁してほしい。
視線を感じ顔を上げると、目の前の神官が恐れと畏怖が交じり合った瞳をわたしへ向けていた。
洗礼式を司る夏の女神ヒュギーヌスホの祝福の光が、夏の短い夜空を明るく瞬かせる。皆等しく照らされた煌めく祝福が、強く輝き大空を流れた。
運命の子の星が動き出した瞬間だった。