神々へ送る曲
春の女神フォルツァヌスの甘い吐息は天界の雲を掻き分け、季節の規則正しい移り変わりと夏の女神ヒュギーヌスホを地上へ送った。
頭を花飾りのついた冠で縁どり、優美な乙女は踊る。
夏の洗礼式が終わったこの時期、神殿学校に五人の新しい子たちが入ってきた。
その中にはアデルとネヴァンの弟がいる。アデルの弟のカイロはアデルに見た目も性格も似ておらず、可愛い顔立ちのたれ目で物静かなおっとり系。ネヴァンの弟のタナトスは、見た目は似ているが性格は年相応なやんちゃな子。
後の三人は女の子で、そのうち一人がタナトスの婚約者らしい。洗礼式のタイミングで婚約したらしいが、相手の女の子の両親は、アシェア領で海運業を生業にしているそうだ。以前、海側からの運搬で他国への取引拡大を考えているっとネヴァンが話していたが、まさに政略結婚の神髄を見た気がした。
ちなみに、洗礼式前からお店で見習いの勉強を始める商人の子は、礼儀正しく挨拶や言葉使いなどほぼ完璧。いまだに気を抜くと下町言葉が出てしまうわたしとは大違いだ。
授業が始まると騒がしかった教室は一瞬で静けさを取り戻し、みんな真剣に神官の話を聞き必死に書き取りをしている。
そんな中、わたしは神官に呼ばれ別の部屋に移動だ。
講堂を出た廊下の先の部屋に入ると、神殿の式典で使っていたドゥーベという楽器が置いてあった。
ドゥーベは扇形に似た形の木枠に、黒と白の弦が四十本ほど交互に張ってある弦楽器だ。弦を張るピンは、黄色い鉱石で作ってあり、木枠に彫られた彫刻に黄色い鉱石が色を添えていた。
式典で使っていたものより小ぶりなそれは、初心者向けの練習用らしい。初心者用は正規の物より弦が少なく二十五本しかないので、弾ける音域が二音域分少ないが、淑女教育の一環として弾けるようになるのは初心者用の楽器で十分っということだ。
最高級の嗜好品である楽器を気軽に嗜みとして練習しているあたり、さすがは貴族。優雅。
「じゃあディアナそこに座って。まだ君の体には大きいかもしれないけど、初心者用の中でもこれが一番小さいものなんだ。」
渡されたドゥーベは小さいといっても自分の体より大きく、全身を使って楽器を支えることで精一杯。
何これ、重い。全く優雅じゃない。
そもそも、なぜ楽器の授業をすることになったのか。それは本当に何気ない神官との会話だった。
式典で演奏していた曲のことを授業終わりに質問し、演奏している姿が素敵だったとテンション高めに言うと、わたしが楽器に興味があると思った神官がリゲルに報告を上げ、「楽器も将来的に武器になる。」っと楽器の授業が組み込まれることになった。
あの神秘的な光景の中での演奏は本当に素敵だったっが、楽器を演奏したいと一瞬でも思ったためしはない。曲の質問をしたのは、単純にどこかで聴いたことがあるような曲だったので、曲名が知りたかった。何てことは言えず、あれよあれよと言う間に授業の日。
楽器の授業の先生は神官のカウス。式典で演奏していた神官たちの一人だ。
「それでは基本姿勢から始めましょう。」
楽器を持って目の前に座るカウスの真似をするように、楽器の木枠部分を足で挟み、右の肩に立てかけるようにして支える。両腕で楽器を抱え込むように右手で上側を、左手で下側の弦を押さえ基本姿勢で構えると、見た目だけは弾ける人っぽい。
「うん。その姿勢で大丈夫。姿勢が悪くなると肩に楽器の重みが乗って腕の動きが鈍るので、基本姿勢を忘れないように。」
「はい。分かりました。」
綺麗な姿勢で楽器を構えたカウスが、「少し弾くので見ててください。」っと親指で弦をはじくと、ピンッと高い音が部屋に響いた。低音と高音を全て使うゆっくりとした曲調の練習用の曲。全ての指が滑らかに動き、ある指で弦を押さえ別の指で弦をはじく。
「これは初心者用に再編集された曲ですが、原曲は夏の女神ヒュギーヌスホの舞を賛美する奉納曲です。基礎となる音が全て使われているので、楽譜を読む練習にもなります。最初はこの曲を完璧に弾けるようになるのを目標にしましょう。」
ではまずっと一番手前側の黒い弦をはじき、奥に向かって黒い弦だけをはじいていく。黒い弦は基本の音だ。次は半音の白の弦も加えて弾くと、ポロロロっと綺麗な音が響いた。
音程は体から遠い近い短い弦ほど高音になる。初心者用の楽器はこの高音の弦を二音域分外してあるが、練習用の楽譜ではこの二音域を使わないので問題ないそうだ。
カウスがしていたように、まず一番手前側の黒い弦をはじいてみる。ビンっと低い音が響き、別の黒の弦をはじくと少し音が高くなった。
どこがどの弦の音階か感覚的に分かるようになるまで、かなり時間がかかりそう。
「では、音を鳴らす練習をします。先に私が弾くので私の指を真似してください。」
一音ずつ弦をはじいていく指を真似しながら、同じように弦をはじく。最初は違う弦をはじいていたのが、何とか間違わずに同じ弦を触れるようにまでなった。
そもそも音が鳴らなかったりもしたが、それは指の位置に気を取られすぎて、はじく力の強弱が悪かったかららしい。変に力が入っていたせいか、指が痛い。
繰り返し何度もやっていると、それっぽく聴こえるから不思議。なので「自分の才能が怖い」っとか言ってみる。まだ弦を一音ずつはじいてるだけですけどね!
「楽器を知らない平民の子にどれだけできるのか心配だったけれど、問題はなさそうだね。このまま練習を続ければ楽師として使い者になるのは早そうだ。」
一人満足げに頷き、「練習計画を立て直さないとな。」と呟くカウス。嬉しそうに目を輝かせながら、用意していた練習用の楽譜以外に棚に並んだ楽譜を見て何やら思案している。
「楽師ってどういうことですか?」
意味が分からないっという風にカウスを見ると、逆に何も聞いてないのっという視線を向けられる。
「うちの楽団は圧倒的に楽師が足りてなくてね、新しく入って来る神官たちにも声をかけてはいるのだけど、神官になる者は下位貴族が多いから楽器を嗜んでいる者が少ないんだ。ほとんどが基礎の段階でつまずいてそのままだ。そこで君に白羽の矢が立った。」
「わたし?」
「そう。向き不向きは別として、君の年齢なら練習を始めるのも丁度いい。もっと幼い頃から始める子もいるけど、楽器を持つことを考えると幼すぎるのも体格的に大変だからね。」
一番小さいドゥーベっと言って渡されたこれも、同年代の中でも体格に恵まれているわたしが持て余してしまう大きさだ。
本格的に子どもに練習させたい家は体に合わせて楽器をオーダーするらしいが、四人家族の平民が一年は余裕で生活できるくらいのお金がかかるらしい。お金持ち、怖い。
「まずは練習用の曲で様子見だね。壊滅的に下手なら楽器は諦めた方がいいと思うけど、今のところしっかり指も動いてるから問題ないかな。リゲル様には練習計画表を作り直してお渡ししますので、そう伝えてください。今後は毎日練習の時間を作りましょう。」
「毎日ですか!?」
「えぇ。楽器を覚えるには毎日の練習が必要ですよ。それに最初は演奏だけでいいですが、本来の奉納曲は歌詞があるので、演奏に慣れたら言葉を紡ぐ練習も行います。」
「演奏しながら歌うのですか?」
「そうです。ただ、今は演奏だけに集中してくれれば問題ないです。毎日弾いていれば指が硬くなって痛みもなくなりますよ。」
指が痛くて無意識に指先を触っていたことに気づいていたカウスは、物凄くいい笑顔で「じゃあ音を鳴らす練習を再開しましょうか。」っと楽器を構え直した。
イヤイヤ、指痛いって知ってるよね。厳しい。厳しすぎる。
全身の筋肉痛でスプーンを持つ腕がプルプルし、スープを口元に運ぶのが難しい。ナイフとフォークも持つのがままならないわたしを、目を細め怪訝そうな顔で見るリゲル。楽器の練習をする予定と聞いていたが、一体君は何をしていたんだっと顔に書いてある。
普段は使わない筋肉を使ったからなのか、指だけじゃなく腕や背中も痛い。
なんてこった。肉が切れない。
「今日はドゥーベの練習だったはずだが、なぜ軍の訓練終わりのような顔をしているんだ?慣れるまでは仕方ないが、楽器とはもっと優雅に奏でるものだ。そしてその練習の苦労は、本来、人に見せるべきものではない。」
言ってることはごもっとも。だからこそ楽器がこんなに大変だなんて思わなかった。楽器は優雅な金持ちの嗜みじゃないのか。
カウスの情報だとリゲルはドゥーベがかなり上手いらしい。この人に苦手なことはあるのだろうか。
「分かってます。リゲル様はドゥーベが得意と伺いましたが、演奏されることはあるのですか?」
「以前は私も式典で弾いていたが、今は弾く機会がない。たまに練習で弾く程度だな。」
「だったらリゲル様の演奏が聴いてみたいです。」
わたしの上達のためにお手本をお願いしますっと提案すると、リゲルは食事の手を止め、思案するようにジッと視線を向けられる。すんなり了承してくれるとは思っていなかったけれど、何か条件を付けられそうな予感。
「そうだな。弾くのは構わないが君の上達のためというならば、時々、腕前を確認するのでそのつもりでいなさい。」
うん。そんな予感はしてた。
面倒なのでやっぱりいいですと言いたかったけど、意外とリゲルが乗り気な雰囲気なので、今さらその提案を断る勇気はない。そもそも言い出したのはわたしだ。
結局のところ、楽器に楽しみを見いだせないわたしが真面目に取り組むには、リゲルの監視付きという縛りが必要なのだろう。
小さく溜め息つきながら覚悟を決めて顔を上げると、わたしの返事を表情の読めない顔で注視していた。
「分かりました。わたしの上達速度に関しては、大目に見てくださいね。」
分かっているっと言うように食事を続けるリゲル。わたしも食事を再開し、食べるのに力のいらない、ふわふわのパンを取ろうと手を伸ばすが、予想以上に腕が上がらない。
ツラい。ツラすぎる。
そしてこんな日に限って、デザートは食べにくいパイ生地のフルーツたっぷりケーキ。断面の色合いも綺麗で見るからにリゲル好みだ。
分かりづらいが、僅かに目元を緩めて食べる姿を見るとかなりご満悦らしい。
上機嫌で食事を終えると、側近のプロメがリゲルのドゥーベを持ってきた。椅子の位置を変え、楽器を構えると、ポロンと中指で弦をはじいて音を確かめる。
「成人の儀で弾いていた曲だ。君も聴いたことがあるだろう。」
しっかり調律はされているようで、ドゥーベを構え直し軽く目を伏せた。リゲルの長い指が滑らかに動き、旋律を奏で始める。
『我、天高く舞う・・・』
静かに目を伏せたまま言葉を紡ぎだすリゲル。低音で耳に通るいい声だなっとは思っていたけれど、ドゥーベを弾きながら歌うその声は、耳から脳へ伝わり身震いするほどの鳥肌が立った。
声に抑揚をつけ、男神の強さを表現する場面では力強く声を太くし、女神へ愛を語る場面では甘く耳元で囁くように歌う。脳内へ響くその声にうっとり聞き惚れてしまう。
美声すぎる。破壊力ありすぎでしょ。
ポローン
最後の一音の余韻に浸っていると、無意識に「ホゥ」っと感嘆の溜め息が漏れていた。
「リゲル様の美声にうっとりしちゃいました。何人の女の子をこれで落としたんですか?」
「バカなのか君は?」
眉間に皺を寄せ、信じられないものを見るような険しい表情を向けられ、慌てて口を閉じる。ご機嫌を損なわないように余計なことは言うまい。美声にうっとりしたのは本当なのだ。
「わたしにはまだ難易度が高いですが、カウスが毎日、一刻は練習すると張り切っていたので頑張って弾けるようになりたいと思います。」
「あぁ、期待している。」
口角を上げて満足げに頷いてくれたので、ご機嫌は死守できたらしい。よかった。




