雑学百夜 母親を指す『おふくろ』という言葉の由来って?
母親の事を指す「おふくろ」という言葉の由来とは?
鎌倉室町時代、財物を入れた『袋』を管理し、一家の中心的役割を担う女性を「おふくろさま」と呼んでいたことが由来とする説がある。
小生、大きな間違いを犯してしまった。
ママに関してだ。
小生の名前は小林敏治。齢は58。会社では信頼される上司として、家では頼れる父として只、実直に生きてきた。決して楽な道ではなかった。裏切る同期、子どもの反抗期……順風満帆に見える人生の影には数々の障害があった。
それら全て乗り越えてこられたのは他でもない、ママのお陰だ。
ママは頭が良くて優しい人だった。小生が迷った時はいつも助けてくれた。仕事で行き詰った時、育児に悩んだ時いつもどんな時も見放さず、的確なアドバイスをくれた。
子どもの頃からだ。大切な物を無くしてしまった時、或いは近所の同級生にいじめられた時、泣きながら帰った小生を見るなりママはいつも「どうして泣いているのか言ってごらん?」と言いながらそっと頬を撫でてくれた。
……物思いに耽ってしまった。話を戻そう。小生が一体ママに関してどんな間違いを犯してしまったのかだ。
まぁ、もう改めて言うまでもない。呼び方だ。生まれてこの方この歳までずっと小生はママの事をママと呼んできてしまった。「おふくろ」と呼び方を変えるタイミングをすっかり逃したまま、一人称については無駄に成長してしまい「小生」に安定してしまった事が余計に悔やまれる。
ちなみに、この前気になったのでふと調べてみたのだが「おふくろ」という呼び方の由来は室町時代まで遡る。その昔、財を入れた袋を管理していた一家の中心的な役割を担う女性を「お袋さん」と呼んでいたことが現代の「おふくろ」に繋がっているという説があるらしい。
その説に倣えば、ママは間違いなく小生にとって「おふくろ」でもある。何しろ結婚するまで通帳はママに預けていたし、もっと言えば小生の結婚相手もお見合いでママが探してきた相手なのだ。実質財を入れた袋どころか金玉袋までママに管理されていたといっても過言ではない。
だから小生がママを「おふくろ」と呼ぶ条件は満たしている。これまで何度も呼び方を変えようとチャレンジはしてきた。だがその度何とも言えない気恥ずかしさが勝り、今日に至った。半分もうどうでもいいかとも思っていた。それが大きな間違いだった。
「息子さんが呼びかけてくれたらきっと喜びますよ」
新人の佐藤さんが声を掛けてきた。
黙ったままの小生の様子を見て先回りするように「お母さまもさっきはちょっと調子が悪かっただけですから」と慰めるように言ってきた。
佐藤さんは勘違いをしている。小生はもうこんなママの調子には慣れているのだ。
ママは今、老人ホームに入所している。
親父が亡くなってから一気に老け込んだママは家に引きこもりがちになり認知症を発症した。暫くは何とか小生もママの家に通い頑張ってはみたが、程なくしてケアマネに相談し施設へママを入所させる運びとなった。
仕方がなかった。仕事をしながらの介護にも限界がある。子どもは既に成人し家庭を持っているし、妻だって自分の両親の介護があるのだ。家で転び骨折するかもしれない。夜中家を飛び出したまま帰ってこないかもしれない。ニュースで取りざたされる認知症ドライバーの話はもう他人事ではないのだ。施設であればいくらか安全。これはもうやむを得なかったのだ……。
……後悔していないかと聞かれると自信がない。住み慣れた家を出ていくことにママは最後まで反対していた。「とし君がどうして勝手に決めるん!?」そう叫ぶママの言葉が今も耳にこびりついている。そう云えば小生がママの言うことを聞かなかったのはあの時が最初で最後だったかもしれない。
最初こそ施設での生活に抵抗していたものの一年もしないうちに慣れたのか、はたまた気力を失ったのかママは一日中窓の外を見ながら過ごすようになった。その頃からママは面会に行っても小生のことが分からなくなる事が増えた。「お構いもしませんで」そう言って初めて会う客人のようにお茶を勧めてくる事もあった。
ただそれでも今日みたいに「誰ですか! 誰か! 誰か! 警察を呼んでください!」と暴れ始めたのは初めてだった。担当の佐藤さんが「すみれさん、息子さんですよ」となだめても「いえ! 違います! 早く誰か警察を!」と取り乱し続けた。
結局、いったん退室し少し時間を空け再度訪室すると車椅子に座ったママはさっきまでの様子が嘘のように穏やかで、一瞬こちらを見て微笑んだあとまた窓の外をじっと見つめていた。
小生としてはショックというより諦めが勝っていた。もうここまで来たんだなという妙な安心感のような感覚さえ湧いてくる。小生は少しずつママの老いを受け入れているのかもしれない。
そんな事を考えていると佐藤さんが声を掛けてきたのだ。
「どうぞ、呼んであげて下さい」
屈託ない笑顔で佐藤さんは言う。
いや、そう言われても……
「認知症といっても新しいことを覚えるのがちょっと苦手なだけなんです。案外昔のことは覚えていたりしますから」
佐藤さんが詰め寄ってくる。
いや、その……小生も流石に恥ずかしい。この歳で母親をママと呼んでいるのをこんな娘ほど年の離れた人に聞かれるのは。
「日常的にお世話しているのは私達ですけど、そんな私達でも決して出来ないケアなんです。家族さんにしか出来ないんですよ。お母さんって呼んであげるのって」
佐藤さんの言葉が心なしか皮肉のように聞こえてしまったのは、仕事の忙しさにかまけ、少しずつ減っていた面会の頻度に対する自身の罪悪感からだろうか。
……仕方ない。
私はママに向けて言った。
「……おっ、おふくろ。元気?」
――恥ずかしさに負けた。人前でママなんて呼べない。初めて呼んだおふくろという言葉は何だか舌先がざらつくようなそんな感じがした。
そんな小生の事などまるで知らないといった様子で、ママはこちらに一瞥もくれなかった。
「あれっ? すーみーれーさん!」
佐藤さんがママの肩を何度か叩くとようやくママはこちらを向いてくれた。
「すみれさん! 息子さんが来てくれましたよ!」
佐藤さんが両手で私を指し示す。
「おふくろ、会いに来たよ。最近寒いけど体調とか大丈夫か?」
二度目のおふくろ。一度目より案外すんなりと言えた。ただ、ごくごく自然に言えばいうほど粘つく後悔が喉元に張り付くようなそんな気がした。
そんな小生の心を見透かすように、ママは何も言わずこちらをじっと見つめる。
不安になるほど透き通ったママの空っぽの瞳には嘘つきが1人映っていた。
「ほらっ、息子さんですよ! 嬉しいですね! すみれさん体調はどうですか? ですって。ねっ、いつもみたいにすみれさんの声を聞かせて下さい! …………あれっ? すみれさん? すーみーれーさんっ!」
佐藤さんがどんなに促してもママは一言も発しないまま、また窓の外に向き直ってしまった。
無視された……というよりは見放されたと言った方がいいかもしれない。少なくとも小生はそう感じた。
「……今日はやっぱり調子が悪いみたいですね」
佐藤さんが寂しそうにそう言った。
違う。違うんだ。
「すみれさんね、たまに息子さんのお話してくれるんです。本当にしっかり者の自慢の息子がいるんだよって。だから邪魔しないようにしなきゃねって」
佐藤さんがママの手を撫でながら言う。
やめてくれ。何が自慢だ……。
「何だか最近特に元気がなくなってしまって、ボーっと窓の外を眺めるばっかりだから私心配になっちゃって……せめて今日息子さんが声かけてくれれば喜んでくれるかなと思ったのですが……」
窓の外を眺める――それが“誰か”を待っているのだとしたら。
小生はもう耐えきれなかった。
「ママ! ごめんなさい!」
小生は跪きママに頭を下げた。
突然の事に佐藤さんが困惑したように小生を見てきた。
もうどう思われようと構わない。
小生はただ無我夢中で話しかけ続けた。一度口にした“ママ”を引き金に胸の中の想いがどっと溢れた。
この齢になって、まだママに伝えたい言葉がこんなにも残っていた。
小生はさらに頭を下げ、謝り続けようとしたときママは初めて真っ直ぐこちらを見つめた。ママの瞳には目を真っ赤に腫らした“しっかり者”が映っていた。
皺だらけのママの顔が滲む。
あぁ、ごめんなさい。
親の老いを受け入れる、そんな生意気な事こんなバカ息子に出来ているはずがなかったのだ。
そんな事を考えた次の瞬間、ママはほんの少しだけ車いすから腰を浮かした、慌てて佐藤さんが横からママを支える。ママは佐藤さんに少しだけ体を預けながら、それでもそっと小生の方に手を伸ばしてきた。
温もりを頬に感じる。
ママはただ優しく小生の涙の理由を聴いてくれた。