7.さよなら、東京
「んよいしょっと」
瑠衣は大きなボストンバッグを抱えた。ここのところすっかり、吐く息が白くなってしまった。もう冬なのだ。結局、次の人員がすぐには見つからず、こんなにズルズルと東京に残ってしまった瑠衣だった。
「まぁ。私って、お人好しだからね」
誰に言うわけでもなく呟くと、瑠衣は昨日から雪を降らせる雲を見上げた。本当に、今日で東京の空ともお別れだ。マスターはやはり泣きながら、小型の譜面立てを餞別として贈ってくれた。名前も知らないフィギュアが現れる可能性を信じて、楽しみにしていた瑠衣だったが、いわゆる一般的な物で何だか肩透かしを食らった気分だった。よっぽどママからもらったメイクパレットの方が持て余しているかもしれない、と彼女はクスっと笑う。もちろん、気持ちが嬉しいのであって、何をもらってもそれ自体は変わらないのだが。
数時間前、羽田空港に降り立った瑠衣は、物珍しさで辺りをきょろきょろした。想像以上に広い空間に、目をぱちくりさせるしかなかった。それと同時に目的の飛行機の搭乗ゲートまでたどり着けるのか、少し不安になった。
四年前、東京にやってきたときは夜行バスだった瑠衣だが、同じ道を帰るのが何だか癪で、今回は飛行機を使うことにした。飛行機に乗るのは初めてだった。元々、瑠衣は飛行機が少し怖かったのだ。
以前、ライカとなぜ飛行機が飛ぶのか、という話になったことがあった。瑠衣が頑なに『鉄の塊が飛ぶなんて信じられない』と譲らずにいたら、『明治とか大正時代の人間じゃないんだから』とゲラゲラ笑われてしまった。あそこまで笑われたのなら、私だって飛行機くらい乗れる、ということを証明したかったのだ。とはいえ、証明したところで結果を彼に伝えるつもりも瑠衣にはなかったけれど。
飛行機の出発時間まで、あと二十分ほどだ。雪は止みそうでなかなか止まなかった。初めての飛行体験が豪雪で中止、などとなったら、もう笑うしかないなと思う瑠衣だったが、フライトは時間通りらしい。あちこちに機体が滑り込む滑走路を、ゲート近くでぼんやりと眺め続ける。
母親とはあれから、何度か電話で話をした。手放しで歓迎している様子ではないとはいえ、早く帰って来いと言っていた。父親の方は声の調子から察するに、単純に喜んでいるようだった。
「んー! よぉし、帰るぞ!」
周りに誰もいないのをいいことに、瑠衣はのびをしながら声に出した。ひとりで故郷に帰ることは、思っていたより寂しくはなかった。それは決して強がりではない。あのライカだって、帰っていったのだ。自分に出来ないわけはないと思う。
彼と出会って、そして別れ、瑠衣は少しだけ自分を認められるようになった気がしていた。どうしようもなく真っ直ぐな彼が "そのままの瑠衣でいい" と恥ずかしげもなくそう言ってくれたから。そんなことを言われたのは初めてだった。あまりに自然に告げてきたものだから、そういうことを言わないでいる方がおかしいのかしら、と思ってしまったほどだった。
思うがままに、自由でいること。それは瑠衣にとって、とても縁遠い物だった。思い返せばいつだって、誰かのために生きていた。そうしなければいけないと思い込んでいたからだ。でもこれからは、誰のためでもない、蜂谷瑠衣のために生きるよう、そう思う。
もう、自分に嘘をつくのはやめよう。ライカの──彬のためについた嘘を最後にしよう。この終わりは、悲しいことではないから。数ヶ月前、そう思った自分は間違っていなかった、瑠衣はそう思う。
──きっと、この真っ直ぐな道の先に私の未来が待っているんだ──
瑠衣は胸の奥でその思いを抱きしめながら、滑走路に吸い込まれる粉雪を、時間の許す限り眺めていた。