5.ただ、話すという簡単なこと(2)
ざくざくとふたりが雪を踏む音だけが響く。いつもと同じ、ただの昼下がりだというのに、心なしか辺りは静かだった。不意に彬は、言うべきことをまだ言っていなかったことを思い出す。
「そういえば、草野さ。……テスト前、色々ありがとうございました」
「え? なにそんな改まってんのよ。大丈夫だって。あんなの、ついでじゃん」
「……なんか確かにすげぇなって」
「なにがすげーの?」
「話聞いてると、草野んちっておれよりよっぽど集中出来なさそうな感じなのに、でもおれより頭いい」
「頭いいのとは違うでしょ。……集中ねぇ。間違いなくうるさいねー。でも、ずっとそういう家だから。楽しいことも多いからうるさくても許せる」
思わず「そういうの、いいな」と呟いてしまった彬は、それを打ち消すように「いや、あのー」と口を開く。何か他に言うことがないか脳内を探る。千鶴は何も気付いていない様子で「あのー」ともう一度言った彬を不思議そうに見つめている。
「どうしたどうした?」
「……あれだよ。ヒデアキがさ、事あるごとに自慢してくるんだよね。『千鶴がすげぇ』って。もう『おれの千鶴がすげぇ』って勢い」
「ははは。バッカじゃないの、あいつ」
千鶴が笑い終わると、そこで会話が途切れてしまった。特にそれ以上、話したいことが見つけられない彬は、そのまま無言で歩く。そして彼はふと思う。こんな風にクラスの人間と話すという、ごく当たり前のことさえ、夏休み前は拒否してしまっていた。こんなものは、本当に些細なことなのに。そして、以前よりもそれが苦しくなくなっていることに気付くと、彬は少しほっとする。本当は好きで怒っているわけではないのだ。出来ることならニコニコ笑って過ごしたい、というのが彬の本音だった。そんなことを考えていた彬の腕を、隣の千鶴がちょいちょい、とつつく。
「彬さー。なんで突然、志望校変えたの?」
「……変えてはいない。こないだまでなんも考えてなかっただけ」
「ふーん。なんかさ、勉強しだしたの突然だったじゃん? どしたの急にって思って」
「んー。……まぁ」
そのことは、いつかは聞かれると彬も思っていた。「どうだっていいじゃん」と突き放すことも出来たが、色々と助けてもらったくせにそう言うのは、申し訳ないような気がする彬は黙り込む。しかし、ユイのことをどう説明したらいいのか悩んでしまって、彼は口を開けなかった。
「ま。別にいいんだけどね、言いたくないなら」
彼女がそう言う頃には、図書館の入り口に着いてしまった。千鶴はにこりと笑うと「じゃ! 私は本を探してくるから」と言って、走って行ってしまった。言い損ねた『うん』が自分の中に残ってしまったような気がして、彬は頭を掻いた。