4.ひとつめの「ありがとう」(3)
本当に聞きたくないし、知りたくもなかった。しかしそれならば、どうなったら満足するのか、それすら分からない。何もかもが嫌だった。
「待ちなさいな! 私は──」
深雪の声は聞こえていたが、彬は乱暴にアコーディオンカーテンを閉じる。
そんなに力を入れたつもりはなかったが、結構な勢いがついてしまって、カーテンはぐらぐらと揺れ続けている。
──どうしょうもねぇな、おれ──
心の中にそんな言葉が浮かんだ頃、しばらくカーテンの向こうにいたらしい深雪が、立ち去っていく足音が聞こえる。そして彬はふと考える。彼女はなぜ、わざわざ兄の罪滅ぼしを手伝うのだろうか、と。しかし、頭がグルグル回る気がして、別のことを考えるのに必死になった。
そして彼の頭は、いつの間にか、深雪の家にやってきた当初のことを思い出していた。彼女のことだって、最初は『叔母さん』と呼んでいたし、それなりにきちんとした言葉遣いで話をしていた。しかし、彼女を叔母と呼ぶたびに、その兄のことを考えてしまう彬は、それに気を取られると日本語すら上手く操れなくなるほどだった。
仕方なく、用事がある度に『ねぇ』『あの』などと言っていたが、それも面倒になって、そのうちに彼女を呼ばなくなった。彼女はそんな彬を見かねたのか『私のことは深雪って呼んで欲しい』と言ってきた。『楽なように話して。敬語もいらない。叔母さんだからって、私が偉いわけでもない』と。彼女が自分に対して、そんな言葉をかけてくれるのは、何だか嬉しかった。きっとそう思っていた。だが、彬はそんな彼女に素直に礼を言えた試しがないのだ。
ふと、瑠衣の手紙にあった "せめて、お話はしてあげてね" という言葉を思い出す。それを読んだとき、深雪が悪いわけではないし、八つ当たりしても仕方がない、そう納得したつもりだった。それなのに、何ひとつ実行出来ていない。あれから、季節が冬へと変わったというのに──。
彬がうつむけていた視線を上げると、去年までの教科書が詰まったカラーボックスの中段に立たせてあるヨーダと目が合ったような気がして、息をついた。なぜ、瑠衣やマスターと話すときのように、気楽になれないのか、まともな会話すら出来ないのだろうか、と。
よっぽど瑠衣よりも長く一緒にいる叔母なのだから、慣れていないというようなことでもないはずだった。
さんまが焼けるいい匂いが、辺りに漂い始めている。我に返った彬は、深雪が何をしているのか気になって、そっとカーテンを開いた。彼女は一生懸命に大根をおろしていた。「はぁ」と息をついて、手をブンブンと振っている。
深雪が悪くないと思うのならば、自分はもっと大人にならなくてはいけない、それは分かっている。意を決した彬は彼女に歩み寄り「あの」と声をかけた。
驚いたように顔を上げた深雪は、パチパチとまばたきをしている。その顔を見た途端、口を開きかけたはいいが、何を言いたかったのか――謝罪したいのか怒りたいのか──彬はどう言うべきか分からなくなってしまった。
「うん? あぁ……他のおかずを全然、用意してなかったからさ、せめて大根おろしでもって思ったんだ。でもなんか腕痛くなっちゃって進まないの。おっかしいよね」
「……」
肩の力が抜けるようなことを言われて、何とか口元に笑みを浮かべることが出来た。深雪の手から大根を奪うと、小さく「これ、やる」と呟いた。
なぜなんだろうか。
なぜ、彼女はこんな風に、嫌な顔ひとつせずいられるのだろうか。
瑠衣にしたってそうだった。なぜ助けてくれたのだろうか。こんな自分を。
そう思うからこそ、隣に突っ立っている彼女に言わなければいけない。『ごめん』でも『ふざけんな』でもない言葉を。
せめて、一言だけでも、と彬は吐き出した息を吸い込む。
「だから……。ありがとうって……思ってるから」
「……お?」
「とにかく。ちゃんと、思ってるから」
深雪がどんな顔をしているのか、彬には分からない。見ようとも思わなかった。彼女に今、どう思われているのかなど考えたくなかった。
とりあえず『ありがとう』と口から出し、大根をおろす。今はそんなことしか出来ない。それでも、やらないよりはきっといい――彬はそんなことを考えながら、手を動かし続けた。