4.ひとつめの「ありがとう」(1)
鍵を差し込んだあと、部屋の中からひとの気配が漂っていることに気付く。
彬は、注意深く扉を開いた。もちろん、中にいるのは深雪だろうと思う。しかし、もしかしたら別の人間がいるのではないかという思いが一瞬、頭をかすめてしまうのだ。一応、靴を確認するが、深雪のパンプス以外、そこにはない。
「おかえりー」
まだスーツ姿の深雪が、イスの背に頬杖をついてこちらを振り返る。すぐに着替えればいいのに、彼女は一息つくまでスーツを脱がないのだ。きっと帰ってきてまだ間もないのだろう。
「……ただいま。早いね」
「ちょっとね。彬は遅めだね」
「……うん、まぁ」
呟くと、リビングの奥へ向かう。そこは彬の部屋として使われている。部屋と言っても、アコーディオンカーテンで仕切ってあるだけの空間だった。それでも、仕切ってくれるだけありがたい。彬はこれまで自分の空間など手に入れたことはなかったのだから。
「お腹の空き具合はどおー?」
カーテンの向こうで深雪が声を上げる。着替えの途中の彬は、少し考えてみるが、あまり空腹ではなかった。意味もなくため息をつくと、息を吸い込んだ。
「あんま腹減ってない」
「そっかー。ご飯作ろうかと思ったんだけど。でも作っちゃおっかなー」
「いや、待って」
制服を脱ぎ始めていた彬は、反射的に深雪に返す。何でもいいや、と洗濯物に回す予定だったパーカーとジーンズを履くと、カーテンを開く。夕食を作ろうかと思っていた割に、まだイスに座り込んだままの彼女に向かって、問いかける。
「……なに作る気? やれることあんなら、やるけど」
「あぁ、とりあえず魚でも焼こうかと……」
「それくらい、自分でやる」
「いーよいーよ、大丈夫」
「……やる」
ただひと言、そう言うと彬はキッチンへ向かう。深雪に料理をさせたくなかったのだ。瑠衣にもそんな話をしたが、いつか家が燃えるような気がしていた。
「あー、こないだ魚を焦がしたの、記憶に新しすぎ……だよね?」
「……あれは食えなかった」
「ホントに……不味かったね。あれはもう、消し炭と改名する必要が……。深雪の特製! 消し炭!」
なぜ、深雪がこんなにも料理が出来ないのか、彬は不思議で仕方がなかった。彼女は几帳面ではないが、そこまでがさつでもない。他の家事の出来はそこまでひどくないのだ。それなのに料理となると別人のように下手くそになる。
最初は新手の嫌がらせなのかと思った彬だったが、彼女は自分でもその料理を口にして『美味しくない……』などと言っていたし、見ている限り真剣に料理をしている。しかし、固すぎる肉入りの野菜炒めやら、酸っぱいカレーやら、それまで出会ったことのない味のものを彬はたくさん食べてきたのだ。
「あれ……なんであんなに焦げちゃったんだろう」
そう言う深雪に対して首を傾げたあと、冷蔵庫から取り出したサンマを、グリルに乗せて火を点け、キッチンタイマーをセットする。ものの十秒で終わってしまい、彬は手を洗いながら呟く。
「魚、置いたら時間決めるだけなんだけど」
「おかしいなぁ」
「……食えればなんだっていいけどさ」
「わかるよー。食えるならね、いいんだよね。食えなかったよね」
前回、深雪が魚を焦がしたときは、仕方がないのでレトルトの中華丼をふたりで食べた。それはそれで、美味しかったけれど。
「……なんなの、急に魚焼こうとか言い出して」
「え? あぁ、うーん。……早く帰って来られたからね? 買い物したし」
彼女は笑っているが、その笑顔の奥に、複雑そうな気配を忍ばせている。何かあるな、と彬は思う。言うことがあるならさっさと言えばいいのに、深雪はいつもこうだった。奥歯に物が挟まったような言い草をダラダラ続けることが多いのだ。
「なんかあったの? 結婚でもすんの?」
「んっ?」
「なんか言うんなら、気にせず言いなよ」
なぜ毎回こちらから催促してやらなくてはいけないんだろう、と思う。世話になっていて、そんなことも思うのは罰当たりだと思いつつ、しかし、どうしても彬はこういう言い方になってしまうのだ。
「あのね。まあ……。そこ、ちょっと座って」
「はい」
イスを引いて座ると、テーブルの縁を眺める。どうせいい話ではなさそうに思えた。いつだってそうだったからだ。
「えっとね。彬、怒るかもしれないけど……。今日、学校にね、行ってきたの」
「学校……? おれの学校?」
意味が分からず問い返すと、コーヒーを飲んでいた彼女に「そう。他にないでしょ」と告げられ、それはそうか、と黙って頷いた。一体、何をしに行ったのか、彬には心当たりがなかった。担任が呼び出したのだろうか、無理な志望校について、何か言われたのだろうか、と考えを巡らせる。
「去年の、謹慎させられた件があったでしょ? なぁーんか引っかかるから、再調査してって言ってたの。あの先生に」
「……?!」
驚きすぎて彬は声も出せなかった。ただ、目を見開いて、彼女を見つめ続けた。