3.藤棚公園(2)
「……なぜこうなったんだ……」
「え? まだわかんないとこ、ある?」
「……いや、そうじゃなくて……」
目の前で頬杖をつく千鶴をちらりと眺めたあと、さらにその隣の英明に恨めしそうな視線を送る。そんな彬に気付いた英明はきょとんとした顔で、頭を掻く。
「なんだよ。そんなさー、睨むなよ。言っちゃあ悪かったの?」
「……悪いっていうか……なんていうか。別にわざわざ草野を呼ばなくっても……」
三人は、千鶴の家の隣にある、こぢんまりとした公園に来ていた。遊具も少なく、小さな滑り台と、時期になると綺麗に花が咲く藤棚、その下に数セットのテーブルとイスしかないような公園だ。
この辺りの子供たちはみんな、正式名称が書かれていないこの公園のことを "藤棚公園" と呼んでいる。
「いいじゃん別に。千鶴の教え方、わかりやすいぜ?」
「そうだよー。わざわざってほどでもないよ。ここ、うちの隣だし。今日ヒマだったし。そういえばここ、だいぶ来てなかったな。近すぎると余計、来ないんだよね」
「そういうことを言ってるんじゃないんだ……。別に自力でどうにか出来たというか」
「そんな遠慮しなくても。だって明らかにわかってなかったよね?」
「……それは認めるけど」
「だったら、聞いた方が早かったんじゃねーの?」
英明の言うとおり、千鶴の数学の教え方は分かりやすかった。詰まっていた問は、すんなり解けてしまったし、苦手な古文については『詰め込みすぎるからわからなくなるのかもだから、一日くらい置いてみたら?』とこれまで思いもしなかった助言を受けた。
思い返せば、彬は焦るあまりに一日も休まずに勉強していた。一理あるかもしれない、と思い、取り敢えず試してみようと、ノートを閉じたのだった。
なぜ学年一位になりたいのか、その理由をふたりは聞いてこなかった。『なんだかわかんないけど、勉強を頑張りたいのなら、協力する』ということらしかった。
英明がついてきた理由は不明だが、他の人間に千鶴とふたりっきりでいるのを見られてしまっては、妙な噂が広がるに違いなかった。だから、英明はいてくれた方が好都合だった。
「なんか、思うんだけどさ。わかんないのって、単純に集中出来てないじゃなくて?」
彬のノートを取り上げ、ペラペラとめくっていた千鶴が「これだけまとめてあるのに、わかんないって不思議」と呟いた。確かに気は散っていた。もはや散りまくっている域だった。かといって、どうしたらそれが解消されるのか、彬には分からない。
「まぁ、気は散る」
「おうちの都合?」
「……ものすごく……簡単に言えば……家なのかもしれないけど」
「ものすごく簡単に言わないのとどうなるの?」
真っ直ぐこちらを見つめてくる千鶴を見つめ返しながら、彬は口を開きかけたまま止まってしまう。そう言われても、どう話したらいいのか分からないし、話したからといって何かが変わるわけでもない。それに彬は身の上話をすることに懲りていた。
「ちょっと、ヒデったら寝ないでよ」
ふっと隣を見た千鶴が、英明の腕を叩く。びくっと跳ね上がった彼は、慌てて辺りを見回していて、ギャグ漫画のようだ、と彬は思う。
「んぇ? 寝てねえよ?」
「おれー、かんけーねえからー、とか思ってんのかもだけど、あんたにだってわかるとこあるでしょうが! ちゃんと教えなさいよ!」
「いやぁ、むしろおれより彬の方が成績いいからな?」
「おれの方がいいんだっけ……? 周り見てなさすぎて知らないわ」
「いやおまえ、なめんなよ? おれのザッツ・低空飛行を……」
「ザッツってなによ! 威張んないで、バカか!」
ふたりは相変わらず楽しそうだった。いつの間にか、つられて笑ってしまって、それを意外そうに見ていた千鶴が、風で煽られた前髪を押さえながら言う。
「そーだ。家が複雑っていう話ならさ。ヒデの家の話、役に立たないの?」
「あー? おれの家ー? うーんどうかな。親がどうしようもねーってだけだけど?」
「だって、ヒデは一応、毎日元気に生きられてるわけじゃん。彬みたいに悩んでないでしょ?」
「まーそうだけど。じゃあなんで悩まないの? って聞かれると、おれもわかんねえしなあ」
「……もう、役に立たないねぇ……」
「言い方!! ひどいからその言い方!!」
「あはは」
ふたりの話を黙って聞いていた彬だが、あまりに何の話をしているのか分からない。
それに、ふたりの間では彬は "毎日悩み悶えている" ということになっているようで、それにも反論したかった彬は口を開く。
「別におれ、常に悩んでるわけじゃないんですけど。めんどくさいだけで」
「そう……? なんかすっごい苦悩してるみたいに見えるよ?」
「……そりゃご心配をおかけして申し訳ない」
「へー。勝手に心配してんじゃねー、とか言わないんだね。怒られるかと思ったよ」
千鶴の呟きに、パチパチと目を瞬かせた彬は、眉根にしわを寄せる。言われてみれば確かにそうだ。今までだったら、こんな風に頼ることも、謝ることもしなかっただろう。もちろん、心からの謝罪ではないにせよ、確かに申し訳ない、とは思ったのだから。 ”素直になろう” が少しずつ出来るようになっているのかもしれない、と彬は小さくうなずいた。
「まー、ここで真打ちのおれが出てくるわけなんですけどーぉ」
大きな身体を折りたたむようにして、机に寝そべっていた英明が、そう言いながらひじをついて頭だけ持ち上げる。その顔は何だか得意げだ。
「……あんた、真打ちって意味わかって使ってる?」
「いやわかんねえ、ラスボスみたいな? ……なんでもいいじゃん。あれだろ、おれのこの朗らかな考え方をだな、彬に伝授すればいいんだろ?」
「色々と疑問は残るけど……。じゃあ伝授してみろよ」
「んー。とにかくね、慣れて諦めること。だってどうしようもないじゃん? どうしようもないんだろ?」
「……まぁな」
「なにやったって、おれもバカだし、親がバカなの変わらないし、バカなのが親なのだって変わらないし。それにあっちも人生かかってるわけじゃん。家はデカいよなって思うし。仕方なくて揉めてるんだろうから、もう好きなだけ揉めれば? って感じなわけよ」
「……なあ。話の腰を折るようだけど……全然、話が見えない」
「ん?」
「おれ、おまえの家がデカいも小さいも知らないから。聞いてりゃわかるのかなと思ったけど、わかんなくなる一方だよ」
「あれ? そうだっけ? あれ? 言ってないっけ?」
出来る限り口も利かないようにしてきたのというのに、なぜ話をしたつもりになっているのか、と彬は苦笑いを浮かべる。「聞いてねぇよ」と答えると、英明は眉間にしわを寄せて上空を睨み始める。
「あーそっか。彬、転入してきたからだな、知らないの。おれ、だいたい喋っちゃうからな」
「ホント、ベラベラとよく喋るわよね」
「なんだよ、千鶴ちゃんまでそんな……。いやだって、おれが遅刻するの許してほしいじゃん?!」
「え……それで喋ってたの……?」
「そうだよ?! みんなよりむっちゃくちゃ早起きしてるんだから、それくらい許してほしい、みたいな」
「……あの。おれ、まだ話見えてないんですけど」
当の彬の存在を忘れてしまったかのように話すふたりに、一応告げると、英明は忘れてた、とでも言いたげな顔で彬の方に向き直る。
「あー、ごめんごめん。えっとな。うちの親、ずーっと別居中なんだよ。お父さんが女作ってさ。なんか家もないし。だから今、ばあちゃん家に転がり込んでるんだよね。なんていうの? 差し押さえ? よくわかんねえけど、親の激揉めが悪化してて。おかげでめちゃくちゃ早起きしないと学校間に合わないっていう。すっげ迷惑なんだよ」
「家がない……」
「そう、ないの」
「……ちょっと待って? なんか……大事じゃん。え、ヒデんちってそんな話だったっけ??」
「いや、聞いてなかったのかよ!! 千鶴には話したと思うんだけど」
「……差し押さえなんてあった?? なんかおうちに入れないとか言ってたから、お父さんがダメだよーみたいな話かって思ってた」
「そんなねぇ、ほのぼのしてんならこんなに困ってないっての。こーんなに小っちゃくなった制服すら買い換え出来ないし。姉ちゃん機嫌悪いし、おふくろはついにダウンしたし、それどころじゃないっていうか。……まあ、先生に相談したら、誰だったかのデカいのもらえそうだからいいんだけど。最近、さすがに動きづらくなってきて限界限界ー」
英明は面倒くさそうに、やれやれと首を振る。以前から彼の制服は、とても窮屈そうだった。いつだったか、雑談の中で『それ、小さすぎじゃないの?』と聞いたとき、彼は『おれ、すっごく急に背が伸びちゃってぇえ、注文が間に合わねーのよー』などと笑っていたことを思い出す。