1.勉強する、というお仕事(4)
ライカが稼いだお金が『使ったお金を差し引いても、余ってしまう』ともあったが、本当に余るほどあるのか、それこそ怪しいもんだ、などと思いながらも、瑠衣が送ってきたそれはありがたく頂戴しておくことにした。
瑠衣は、実家に帰るらしい。きっと、返事を書いても、もう彼女の元には届かないだろう、そう思って彬は手紙を書こうとはしなかった。それに、何か書いたとしても、懲りもせず、同じことばかり何度も言い続けてしまいそうだったからだ。
『必要なら、きっとまた会える』
あの手紙にはそんなようなことも書いてあった。どいつもこいつも、似たようなことを言う。 "また" などということが、そうそう起こるわけがない――彬にはそう思えた。
「なんか言った?」
千鶴の声に、ふっと我に返った彬は静かに首を振った。また無意識に声で出ていたのか、と口をきつく結んだ。自分は本当はお喋りなのではないか? などと考えていると、千鶴が立ち止まった。
「あっ。私の家、ここだから。じゃあね、井沢。また明日!」
「待って、草野」
踵を返しかけた千鶴に彬は声をかける。前々から言おうか迷っていたことを、どうせなら今言ってしまおうと、瞬間的に思ったのだ。彬から話しかけられるとは思っていなかったのか、彼女は意外そうに「えっ?」と振り返った。
「その呼び方……名字で呼ぶのやめて欲しい」
千鶴は傾げていた首をさらに傾げ「んん??」と不思議そうな表情を浮かべる。なかなか起き上がれない、起き上がり小法師のように見えた。
「名字、嫌いなんだよ。今後は名前でお願いしたい」
そうは言ってみるが、本当はその名前の方だって嫌いだった。己を表す名前全てが吐き気がするほど嫌いな彬だったが、そうも言っていられなかった。自分の存在を消すことが出来ないならば、名前だって消すことは出来ないことが分かったからだ。
「……井沢さ……。ずっと思ってたんだけどね。そのオジサンみたいな話し方、やめた方がいいよ。お願いしたい、とかさ」
確か、瑠衣にも似たようなことを言われたっけ、と思いながらも、彬は投げやりに「余計なお世話」と言い返す。不満げに唸った千鶴は彬を叩こうとしているのか手を伸ばす。それをひょいと避けながら、彬は話を終わらせるべく続きの言葉を吐いた。
「いいから。名前で呼べ、つってんの」
「えーっと? ところで、下の名前……なんだっけ?」
「……そんなことも覚えてないで話しかけてんのかよ」
「よっぽど仲良くなけりゃ、名前呼びなんかしないの! で、なんだっけ。タダシ?」
「彬だよ……。ひと文字もかすってねぇじゃん……」
「三文字は合ってたでしょ! 了解。あきら、ね。……ねぇ、偉そうに言ってるけどさ、自分だってこっちの名前覚えてないんじゃないの?」
「覚えてるよ」
彬にとって名前を覚えることは、さほど大変なことではなかった。関心がないから、顔と名が一致していない者もいたが、何ならクラス全員の名だって言えるくらいだ。しかし千鶴は訝しげに彬を見て「ホントにぃ?」と唸る。
「草野千鶴、新田英明。知ってる、悪いけど」
「じゃあさ。ヒデのことも、ちゃんと名前で呼んであげなよ。……せめて名字で。いっつも『デカいの』とか『あれ』じゃ、いじけちゃうよ? ヒデ、彬のこと大好きじゃん?」
ふふふ、と笑った千鶴の発言の意図が分からなくて、彬は頭を掻いた。よく考えたらクラス中の人間が意味もなく笑っているように思えた。そして人数から考えてそちらの方が普通なのかもしれない、と思う。
「なんだよその……大好きって。あいつ、一方的すぎて恐怖を感じる」
「ほら、真逆じゃない、あんたたち」
「……真逆?」
「え……。もしかして同じキャラだと思ってんの?」
確かに全くもって違うが、真逆、ということは――などと彬が考えていると、千鶴がいとも簡単に言葉を繋げた。
「憧れてるんじゃない? 彬のその……なんていうの、クールな感じに?」
「……あぁ……。クールメンズね……」
彬は別段、クールに装っているつもりはなかった。でも同級生たちにはそう見えているのかもしれなかった。もっとへらへらしないといけないな、などど思って、それはそれで気持ちが悪そうだ、と頭を振ってその考えを振り払った。
「……いや……なんでもいいよ。とにかく、あいつにも言っといて」
「自分で言いなよー」
「出来れば、話したくないから」
彬が自然に言い放つと、千鶴は大きな声で笑い始める。驚いた彬が立ち尽くしていると、千鶴が「あー」と言いながら目をこする。
「ごめんごめん。なんかさー。その言い方でしかもめちゃくちゃ真顔、っていう本気度がおかしくて。なんかヒデが哀れ。まあいいや、言っとく。でもどうしたの? 急に名前で呼べとか。名字が嫌いなのはわかったけどさー」
「だって……どうせ話しかけてくるんだろ? これ以上、無駄に名字で呼ばれるの、堪えられん」
「なんでそんなに嫌なの? 呼ばれるのも嫌とかすごくない?」
「草野には関係ない」
「はいはーい、そうでした、私は彬と関係ないんでした! じゃあね!」
そう言ってから小走りで無機質な団地の階段に向かって行った千鶴を、何となく見送ると、踊り場らしい場所の窓が、ガラッと開く。
「おーい! ちゃんと家、帰れよ? 家出すんなよ??」
「わかってます!」
彬が言い返すと、千鶴は唐突に親指を立て、笑顔で窓の向こうに消えていった。彼女のよく分からない行動に首を傾げたあと、彬は再び空を眺める。貼り付いて見える雲が、ゆっくり動くのを眺めていると、ふっと風に乗って香ってきた何かの花の匂いが彬の鼻腔を刺激した。この香りを嗅ぐと懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。
のろのろと歩きながら、家に帰ったらやるべき家事を頭の中で並べた。やりたくないな、とは思うが、それを中心になってやるべき者、というものは彬以外、あの家にはいない。深雪が自分の生活の維持に加え、彬を養うために、お金が必要なのは分かっていた。彼女は働き続けなくてはならないのだ。
学校に通うことが、義務として課されている彬と、同じように。