1.勉強する、というお仕事(3)
◇◇◇
「……まぁ、怒り狂ってたけど……大丈夫」
『叔母さんは大丈夫だったか』と問われれば、取り敢えず大丈夫だった。だから彬はそのままを口にする。彼女が聞きたいのはそういうことではない、ということは分かってはいたけれど。
「そっか。いや……親が言うには、おばさん、相当パニクってたみたいだったからさ」
「……そうですか」
「なにやったの、あんた」
「草野には関係ない」
「……まぁ、どうでもいいけどさぁ……。家出?」
「どうでもいいんなら、聞いてくんなよ」
「……じゃあ、どうでもよくなかったら教えてくれんの?」
当たり前のように返してきた千鶴を、彬は黙ってちらりと見て、視線を外した。そんなことを聞いてどうするのだろうか、そう思ってしまった彬は、やはり疑うクセというものがどうしようもなく抜けないのだ。
「もー。そうやって無視するぅ」
「……無視じゃない、考えてるんだよ」
「そんなに考えることでもないじゃん。前も言ったけど、そうやって無駄に警戒するのやめてよね。なんか私、悪いひとみたいじゃない」
「はー。まるで自分がいいひとだ、みたいな言い草だな」
「え! ひっどーい。ホントに嫌なヤツだと思ってるわけ?」
「……」
「マジでひどい……。心配してたのに!!」
生け垣の葉をむしった千鶴が、それを彬に向けて投げつける。葉のくずを払う彬を睨んでいた千鶴は「もー、いいよなんでも……。もう心配してやんないっ!!」とそっぽを向いた。苦笑いが張り付いた顔で、彬は彼女を眺めた。確かに迷惑はかけたのかもしれないが、別に千鶴に心配して欲しかったわけではなかった。そんなの知ったことではないと言われたらそれまでなのだが。
「……前から聞きたかったんだけど」
ふと思いついたことを言おうと口を開くと、相変わらず鼻息の荒い千鶴の顔がこちらを向く。なによ、と言いたげなその顔を真っ直ぐ見つめ、彬は続けた。
「おまえら……草野たち、なんでおれにそう執着するの?」
「しゅうちゃく?」
「……なんでそんなにしつこく寄ってくるの? って聞いてるの」
「あぁ……。だって友達じゃない」
彬は言葉を失う。千鶴にしろ、英明にしろ、邪気がなさすぎるのだ。しかし、そう思う自分が、逆に邪すぎるだけなのかもしれない、と思い直す。しかし、口は全くいうことをきかず、気付いたときには「なにをどうしたら、おれとおまえらが友達ってことになるわけ?」などと言ってしまっていた。ついさっき、 ”素直にならなければ” と思ったばかりなのに、と彬は自身に呆れてしまう。そしてそれ以上に呆れたように、千鶴が口を尖らす。
「じゃあさぁ? なんかをどうにかしたら、無条件で友達なの? 別にそういうんじゃないでしょ? もしかして、友達になるのに、いちいち決まりとかあるの?」
どうやら本気で怒っているらしい千鶴から目をそらすと、彬は空を見上げた。漠然と ”素直になろう” などと思ったところで、無理に決まっている。もっと具体的な決めごとを作らなくては、と考えつつ、彬は口を開く。
「あー。あの……」
どうにか話を繋げようと口を開くが、次の言葉が出てこなかった。すると、何を勘違いしたのか、彼女は焦ったように前髪を掴んだ。
「あ! 跳ねてる?」
「……え?」
「前髪、跳ねてる?」
「……なにも言ってない」
「私、めちゃくちゃ前髪うねるからさー。毎朝ドライヤーで伸ばしてるんだー」
「……はぁ、そうなんですか」
思わずそう呟くと、不意に脳裏に必死で癖毛の前髪にドライヤーをかける千鶴の姿が浮かんできて、彬は何だか笑えるな、と思う。そして、それは、彬が顔を見られなくなくて髪を伸ばすのと変わりがないと気付く。コンプレックスなどは、どんなに明るく楽しそうな人間にも存在しているのだろう。誰だってさほど変わりはしないのだ。そして何よりも、怒っている様子だった千鶴が、そんなことなどすっかり忘れたように、別の話をするのが意外だった。
「怒ってんじゃ、ないんだな」
「え、なにが? ……あぁ、井沢の態度が悪いこと? ……怒ってるよ!!」
「そんなこと言われても……。前髪の話とか間に突っ込まれたら、説得力がない」
「前髪は前髪で困ってるの!! どっちにも怒ってる!!」
何だかよく分からないことを言う千鶴は、やはり怒ってはいないようだった。笑って視線を落とすと、以前よりさらに汚れたスニーカーの先が目に入った。瑠衣に買ってもらったものを、校則違反を承知で履いている。案の定、教師たちは何も言ってこない。きっと見放されているのだろう。
足下を眺めていた彬はふと、数日前に瑠衣から届いた手紙のことを思い出した。ずっと引っかかり続けていた "ライカのために使わせた金銭の件" を、彬は解消したかった。そんな理由で、貯金の大きい札を全て、瑠衣に郵送したのだが、彼女はご丁寧に倍以上にして送り返してきた。
『自分で稼いだんだよ』と、何度も書かれていたその手紙を読んで、そういえばそうだった、と思ったほど、アルバイトをしたこと自体、頭から消え去っていた。そもそも、あの店からいくらもらったかすら彼は確認していなかった。