1.勉強する、というお仕事(1)
秋の風が、教室の窓から吹き込んでくる。ライカと呼ばれなくなった彬は制服に身を包み、ぼんやりと流れる雲を見やっていた。
そして、手を抜いた分を挽回しなくては、と広げた教科書に視線を落とす。彬はまるで上の空だった。放課後の教室で自習を始めてみたものの、ちっとも身が入らなかった。威圧的な存在感を放つ、何も書かれていない黒板が集中力を奪っていくのだろう、そんなことを思いながらため息をつく。家に帰っても落ち着かない。かといって教室でも上手くいかないようだった。だったら、どこへ行けばいいんだ、と彬は教科書とノートを閉じた。カバンに机の上にあったものを全て押し込むと、彬は髪を掻き回した。
彬は相変わらず学校では、ほとんど口を開いていない。しかし、彼が話さない理由は、以前とは違っていた。目を開けていても何も頭に入って来ないような。そんな感覚に、彬は戸惑いを感じていた。よく分からない不調はまだ続いているらしい。
進んで会話をしない、ということと、何か言おうと思っても、どう言うべきか躊躇う、というのは、まるで違っていた。たかだか、少し素直になる、というだけのことが全く出来ない。いつの間にかそんなことを考えてしまっていた彬は、再びため息をついて呟く。
「それどころじゃない……」
要らぬことを考えている場合ではなかった。やらなければいけないことは、たくさんある。それなのに――。そこまで思ったところで、彬の座っていたイスに何かが当たった音と振動が伝わってきた。何だろう、と彬が振り返ると、草野千鶴が彬に向かって、手を振っている。どうやら、彼女がイスの脚を蹴ったようだった。
「……なに?」
「なに? って……。さっきからずっと呼んでたんだけどなぁ。気づいてよー」
「……ごめん。なに?」
「結局『なに?』なんだね。あのさー、ちょっと聞きたいことがあるんだよね。あ、帰るとこ?」
「……まぁ」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ」
面倒くさいな、そう思った彼の感情を見透かしたように、千鶴が口をへの字に曲げ「そんなさぁ。思いっきりめんどくさそうな顔しないでよ」と言いながら眉を下げた。それを顔に出したつもりがなかった彬は、やはり自分のマネキン計画は全く上手くいっていないことに再認識しつつ、立ち上がるとカバンを右肩に背負った。
「おまえの家、どの辺りだっけ?」
「藤棚公園の近くだよ」
彬の記憶では、自宅まで帰るルートに、小さめの公園があった。つまり、通学路はほとんど同じなのだろう、という予測をつけると、視線を落とした。一体、話とは何なのだろうか。何か学校関連の用事があるとは思えなかった。
「……あいつは? あの、デカいの」
「あぁ……ヒデ? 部活じゃない? 私だっていっつも一緒にいるわけじゃないからねぇ」
そうでもねぇじゃん、と彬が口の中で呟くと「一緒にいないもん。腐れ縁なだけ」と千鶴は納得がいかない、といった口調でハッキリと言った。そう言われて考えてみた彬の記憶では、ふたりはいつも一緒だった。といっても、いつも千鶴を見張っているわけでもなかった。知らないことだってあるよな、と余計なことを考えることをやめ、先を歩く千鶴を何となく眺めながら、彬もあとに続いた。
「……で? 話ってなんなの?」
沈黙に痺れを切らした彬は、校門を出た辺りで切り出した。彼女は振り返ると「えへへ」と笑う。なぜ笑うのか、と彬は不思議に思う。
「なにがおかしいの」
「んー。なんかさー、井沢の殺気がすごいから、誘ったはいいけど、ちょっと怖かった」
「はぁ。そんなの、出してねぇけど」
「出てるんだってば」
正直な性分らしい千鶴が、怖いと言っている割にズケズケと話してくるのに苦笑いを浮かべ、彬はポケットに手を突っ込んだ。怖いと思われることなど、もう彼は飽きている。そういう話なら聞きたくはなかった。
「あのさぁ、話ってのはねぇ。……おばさん、大丈夫だった?」
「……あぁ」
千鶴の問いかけに、彬は深雪とのやり取りを思い出した。