9.いなくなった猫の名前なんて(3)
手短に支度をすると、テーブルの上に投げっぱなしだった、鍵を掴んだ。哀れな電話帳は、拾い上げるのも面倒で、瑠衣はそのまま跨いで部屋を出る。後日、ちゃんと回収に出すのだろうが、今の瑠衣にそれを持ち上げる気力はなかった。
財布だけを入れたトートバッグを手に、見上げた空には、平たい雲が広がっていた。辺りには、花のいい香りが漂っていた。その正体がキンモクセイだということに気付き、もう秋なんだ、とハッとする。夏が終われば秋が来る、そんな当たり前のことに驚いてしまった自分に、瑠衣はふっと笑みをこぼした。
泣きすぎたのか、痙攣する左目を押さえながら、てくてくと歩き、雑貨店の扉を開ける。値が張るから、と普段は来ない、個人経営の店だった。かわいらしいものが溢れる店内を歩きながら、目当てのものの棚に気付いて、瑠衣は物色を始める。そして、シンプルなレターセットと青いインクのペンを手に取った。そのままレジに行こうとしたが、ふと思い付いて、木製の写真立てをカゴに入れた。
「ありがとうございましたー」という店員の声に背中を押されながら外へ出ると、決して心地よいとは言えないビルの谷間風が吹き抜けていった。暴れる髪もそのままに、瑠衣はコンビニエンスストアを目指して歩く。
何だか自炊をする元気はなかった。年甲斐もなく号泣したせいで、頭の痛みは増すばかりだ。思い返せば、レジの店員が、瑠衣の顔をまじまじと見ていた気がした。
まあ、そうなるわよね、と通りの窓ガラスに映った自分を眺めると、不鮮明でも分かるほどに瑠衣の鼻は赤くなっていた。瑠衣は泣くと鼻が赤くなるのだ。そんなことは、瑠衣自身も忘れていたことだった。
眠気がようやく襲ってきた身体を引きずるようにして、瑠衣は部屋に戻った。紙袋に入れてもらった、購入したものたちをそっと見下ろし、写真立てだけを引っ張り出した。
カラカラに乾いたマリーゴールドを、新聞紙の束から取り出すと、写真立てにそのまま収めた。本来なら、紙に貼り付けたりするのだろうが、そんなものはどっちでもよいと思えた。
『瑠衣って、雑だから』とライカに笑われそうだ、そんな想像をしていると、小さな笑みが浮かんだ。そして、彼女は写真立ての押し花を見て、満足してしまった。実家に帰ったらピアノの上にでも置こうかな、などと思う。
手紙の返事を書くつもりになって、買い物に出かけたというのに、眠くてそんな気分になれなかった。それに、ライカが特別に早い返事を待っているとも思えなかった。せっかく買ってきたお弁当が冷たくなることが分かっていても、瑠衣は「眠すぎる!」と叫んで、そのまま布団に潜り込んだ。
明日になれば、きっと──こんな生活をずっと続けてきたせいで、いつが "今日" で、いつから "明日" なのか、そんな普通のことが分からなくなってきている瑠衣だったが、漠然とそう思った。
「違う……。ダメだ。待って……。寝る前に……」
瑠衣は呟くと布団をはねのけ、電話の前までよろよろ歩いた。今でなければ、出来ない気がした。受話器を取って、記憶から消そうとしても決して消えない番号を押し、瑠衣は待った。
「…………もしもし、お母さん? 私、瑠衣。……えっとぶり」
数ヶ月ぶりに聞いた母親の声は、何だか疲れているように思えた。彼女をさらに疲れさせることを言おうとしている瑠衣に心に、少しの躊躇いが生まれた。
「うん。元気にやっとるよ。……あのなぁ、私なぁ…………近々、ほっちに帰ろうと思っとるんよ。うん。……あ、ごめん。今、時間ないけん。日にち決まったら、また電話するわ」
早口にまくし立て、瑠衣は無理やりに話をまとめてしまった。何か言いたげだった母親の言葉の気配を遮るように、瑠衣は続ける。
「うん、分かっとるよ。また連絡する。…………ほなまた」
受話器を置くと、瑠衣は真っ直ぐに布団に戻った。ぐっすり眠って晴れやかに目が覚めたなら、先月までの自分のまま、ライカに手紙を書ける。きっと書ける。
そんなことを考えながら、瑠衣は目を閉じた。