9.いなくなった猫の名前なんて(1)
その手紙を読み終えた瑠衣は「はぁ」と息をついた。あんなに名乗るのを嫌がっていたライカが、これほどあっさりと差出人付きの手紙を寄越してくるなんて考えもしなかったのだ。
瑠衣は床に寝転がって紙切れを天井にかざし、ライカからの言葉をもう一度読む。男は大抵、字が汚い記憶だったが、ライカのものはそうでもなかった。少し右に傾き気味で、決して美しい字ではなかったが、すらすらと読めるようなものだ。
そうやって、彼の言葉を読み返していた瑠衣はいつの間にか、あの納涼祭りの帰り道のことを思い出していた。
◇◇◇
あの日、瑠衣は最大の失敗を犯した。履き慣れないものを履くと、必ず皮がむけて歩けなくなることを分かっていたはずなのに、絆創膏が入った救急セットを持っていくのを忘れてしまったのだ。
裸足になって歩こうとしたときに、ライカが突然『体重、何キロ?』と聞いてきた。『失礼ね!』と思わず頭をはたくと、彼は不満げに 『おんぶする。お返し』 と言ったのだった。そんなお返しなどいらなかった。自分の重さが気になったし、何よりも浴衣だった。ものすごく格好が悪いじゃないか、と瑠衣は精一杯の拒否をした。
それでも、頑としてライカは譲らなかった。『瑠衣がおれをおんぶ出来たんだから、おれにも出来る。裸足なんて、バカがやることだから。やったおれが言ってるんだから』そう言って彼は、瑠衣の前にしゃがみ込んだ。
振り返ったライカの顔が、本気だということを物語っていた。そして、仕方なく瑠衣が折れたのだった。
密着していることが照れくさくて、話すことが思い浮かばなかった。彼は結局、一度も口を開かなかった。もちろん、瑠衣も話さなかった。
不自然に持ち上げていた首が疲れて、諦めた瑠衣はライカの後頭部に額を当てた。瑠衣のお気に入りのシャンプーの匂いがふわっと香ってくる。
──こんなはずじゃなかった──
傷む胸を抱えたまま、目を閉じると、踊りで使っているのか、背後から演歌の甲高い声が聞こえた。 ”さようなら、好きになったひと” 。そういう歌に共感する日が来るだなんて、瑠衣は考えたこともなかった。
◇◇◇
過ぎたことなんか思い返してどうするのよ、と笑うと、しまい忘れていた漢和辞典でライカの下の名前の読みを調べた。瑠衣の周りにその字を使った名前はいなかった。見たことはあったような気がしていたが、はっきりと分からなかったのだ。
「へぇ……。なんか……この名前、別のひとみたいね」
漢和辞典を段ボールに投げ込むと、瑠衣は無言でそれを見つめる。その行為自体に、意味などなかった。何だか、目眩のような、身体がどこかに吸い込まれていくような、そんな感覚を覚えて、瑠衣は辞典から目を反らした。