8.はじめから決まっていた別れ(1)
長袖を着ているのに、今日は肌寒いな――朝方の街を歩きながら、瑠衣は思った。
全ては予定通りに終わった。ライカは少しの気配と、たくさんの本を残していなくなった。仕事から帰宅するたび、狭かった部屋が広く感じてしまう。
ライカを駅まで見送った日は、小雨が降っていた。『傘なんかいらない』と言う彼に、瑠衣はビニール傘を押しつけた。最後の借金をして切符を買った彼は、なかなか改札の前から動こうとしなかった。何かを言いたげに、瑠衣を見ては目を反らし、唇を噛んで瑠衣を見る、それの繰り返しだった。
『ほら、電車が行っちゃうから! 真っ直ぐ帰ってね』
そう言った瑠衣が無理やりに、彼を一回転させて背中を押すと、ようやく彼は改札口通った。まだ迷っている様子のライカに瑠衣は笑って手を振った。
『気をつけてね。叔母さんとゆっくり話すんだよ?』
ライカは静かに頷くと、踵を返して歩き出した。だが、停車していた発車待ちの電車に乗り込もうとしたライカが、何を思ったのか方向転換をしてこちらに足早に歩いてきた。
『なになに! ちょっと……ホントに電車が!』
別に次の電車を待てばいい、彼はそう思っているのかもしれないが、瑠衣にはそれ以上、笑っていられる自信がなかった。内心、早く行ってしまって欲しかった。
『ひとつ、言いたいことが!』
怒り出しそうな瑠衣の気配に気付いたらしい彼がホームに立ち止まってそう叫ぶ。発車のベルが辺りに響いて、振り返ったあと、ライカは口の横に手を当てて、さらに大きな声を出した。
『金、返すから!』
『そんなのいいから! 早くしなさいって!』
『いや、返す!!』
言い捨てた彼は、さっと背中を向けて駆けていく。その拍子に、マスター・ヨーダのフィギュアがぽろりと転げ落ちた。
『ライカ! ヨーダが落ちた!!』
瑠衣の言葉に反応して、素早くそれを拾い上げたライカが足早に滑り込むと、電車のドアは静かに閉まった。どうやら、ライカを見ていた車掌が、彼が乗るのを待っていてくれたようだった。
去って行く電車を、瑠衣は見送らなかった。その足で仕事場へ向かうべく、歩調を速めた。ライカを送り出したら、ママに告げようと思っていたからだ。 "田舎に帰るから、ここを辞めたい" と。
出勤してすぐ、通りすがりのマスターに挨拶をした。せっかく呼び止めたのだから、と『近々、店を辞めます』と告げた瑠衣は、ママから言ってもらうべきだったな、と後悔した。
マスターは絵に描いたように落ち込んだひとになってしまい、店の営業が終わるまで『……瑠衣ちゃんも……』と肩を落とし続けていたからだ。
世話になった店を突然に辞めることが出来なかった瑠衣は、変わりの求人を出してもらうことにした。退職をまるで急いでいないことは、最初にきちんと伝えてあったのだ。
大家のおじいさんには、店の次に話をした。彼は嫌な顔ひとつせず、部屋の様子を見に来たあと『これなら、掃除さえきちんとしてくれれば、出て行く一週間前までに言ってくれればいいよ』と言った。『綺麗に使ってくれてありがとう』、『次に借りてくれるひとが見つかるといいけどねぇ』とも言っていた。
確かに、これほど古い部屋となると、他の借り手は見つからないかもしれないな、と瑠衣でさえ思ったのだから、家主が心配してもおかしくはなかった。
引っ越し前に売るつもりのピアノだけは何もせずそのままだったが、最低限、生活に必要な物を残して、ほとんどの荷物をダンボールに詰めた。持ち帰らないものは同僚のミサキにあげてしまったし、必要以上のものは買わなかったからか、大した量にはならなかった。引っ越し業者もママの知り合いのところを教えてもらったし、最後に引っ越しの日取りを決めと、実家に電話をする、ということだけ残して準備は整った。
「はぁ……ヒマ過ぎる」
ひと眠りしようと寝転がったが、なかなか眠れず、諦めてむくりと起き上がった瑠衣は、何となく呟いた。ここのところ話しかける相手がいたせいで、黙っていることが難しくなっている。
ふとした気持ちで、ライカが持って行かなかった本を手に取った。古本屋に売ろうと、箱に入れなかったものたちだ。一番安いものを適当に買ったのは瑠衣だったが、どれを読んでも面白くなかった。このひとたちは一体全体、何が言いたいんだろう、と首を傾げるしかない。
ポンと本を重ねた拍子に、瑠衣は、すっかり忘れていたことを思い出し振り返る。そこには、回収に回す予定の雑誌類と一緒に分厚い電話帳が置いてある。
「えーと……。どのあたりだったかな……」
ページをペラペラとめくると、二つ折りにした新聞紙とティッシュを二重にしたものが、挟んだときと同じようにそこにあった。