2.届きそうもない伝言(1)
夜が更けていっても、辺りは暑かった。ふらふらする歩みの中で、瑠衣のところに帰ろうという思いとは裏腹に、ライカはまだ帰路につけなかった。
前回この道を通ったときは、ユイがライカのすぐ前にいた。しかし今はひとりだ。何かが足らないような、そんな鈍い痛みを感じていても、足が自然と大将の店へと向かわせている。
なぜだかどうしてもあそこに行かなくてはならない気がした。まるで何かに操られているかのように、ライカは歩き続ける。行ったところで、ユイに会えるわけでもないのは分かっていた。しかし、この街でやり残したことといえば、大将にお礼を言うことくらいだ、と足を進めながらライカは心に決めた。
記憶していた場所に大将の店はちゃんと建っていた。豪快な字面も、何も変わらずそこにある。その赤地に白い文字が浮かぶのれんをぼんやりと眺めたまま、ライカは立ち尽くしていた。大将に会ったとして何を話すのだろうか、突然お礼を言うというわけにもいかないだろう、でも言うしかないじゃないか、などとグダグダと考える。
何分間そうしていただろうか。やがて後ろから「おお、兄ちゃん!」と、聞き覚えのある声がした。振り返ると、両手に買い物袋をぶら下げて長靴を履いた大将が、袋ごと手を挙げた。
「いやー、買い出し行ってきてね。すれ違わなくてよかったよ。元気かい? ……ライカくんだっけか? あ、もしかして病院行ったか?」
「……あ、いや……そうじゃなくて。おれ、元気です」
「えぇ? 大丈夫なのかい? そんならよかったけどよ。あ、なんか食ってく?」
「いや……今、金持ってなくて」
「いいよいいよ! サービスするからよ」
「あの……」
「うん?」
休業中の札を裏返しながら、大将は笑顔を浮かべてライカ振り返った。その様子は初めて会った日と何も変わっていない。どうやら彼はユイに何があったのか、ひとつも知らないようだった。
ライカはここまで来て、本当に何をしたかったのか、完全に分からなくなった。 "ユイが死んじゃったみたいなんですけど、なんか知ってます?" などと聞くわけにもいかず、ライカは黙りこくる。
「なんだぁ、ユイちゃんとケンカでもしたか?」
「……え」
「違ぇのかい? なんかなぁ、あのあとすぐにユイちゃんが来てなぁ。元気なんだか元気ねぇんだか、みてぇな感じだったけどな」
「ユイが来たんですか……?」
「あ!! そうだよ! いっけねぇ、忘れるとこだった。なんかな、もし兄ちゃんが来たら渡してくれって、手紙預かってんだよ」
「てがみ――」
手紙を預かっている――その言葉に、まるで頭を殴られたような衝撃が走った。心臓はどくどくと音を立て続け、それが大将に聞かれているような気がして、ライカは唾を飲み込んだ。
「ちょっと待ってなー。どこにしまったんだっけ。こんなすぐに来るとは思ってなかったからな。……ま、とにかくさ。なんか食ってきな。ほら、入った入った」
大将に手招きされて、店内に入る。ここに来たのはたった一週間ほど前の話なのに、ずいぶんと昔のことのように感じた。それと同時に昨日のことのようにも思えた。ライカの頭の中の時系列はぐちゃぐちゃのままだった。
「あったあった! はいよ」
どうやら、レジにしまってあったらしいそれを持って、大将はライカの前に立った。相変わらず、何が楽しいのか分からない彼は笑いながら「あ、オレどっか行ってようか?」と言いながらライカの肩を叩く。
「真ん前で突っ立ってたら読みづらいよなぁ、ははは。……ん? いらねぇのかい?」
見つめるだけで、いつまでもその手紙を受け取ろうとしないライカを見て、大将は不思議そうに首を傾げる。「ほら」と催促されて、ライカはやっとおずおずと手を差し出す。その手のひらにポンと封筒と置いた大将は再び首を傾げながら厨房へと戻って行った。
その封筒はユイからもらった煙草が入ったポーチと同じネコの柄だ。表に "来夏へ" と書いてある。ライカはユイの書いた文字を初めて見た。それは実に女の子らしい字だった。小さくて、少し潰れていて。乱暴なユイの言動からは欠片も想像も出来なかった。
自分の知らないユイなど、いくらもでいるように思えた。分かった気になっていただけで、何も知らかったのかもしれない。それは今でもそうだった。
「なんだか知らねぇけど、そこ座ってゆっくり読みな。いつまで突っ立ってんだよ、ずっとじゃねーか」
どうも大将はライカのことが気になって仕方ないようだった。ぼうっとしている場合ではないし、出来るだけ普通に振る舞わなければ、何か勘付かれてしまいそうだった。
ライカは何も知らないであろう彼に、あの新聞記事のことを伝えるつもりはなかった。よく笑うこのおじさんから、笑顔を奪いたくなかったからだ。なるべく自然に見せたい場合、まずは何をするのかと考え、言われた通りすぐ側のイスに座り込んだ。
確か、顔を冷やしていたときに座ったのも、このイスだったことを思い出す。考えたくないのに、色々な場面が頭の中を駆け巡っていく。
しかし、自分からここに来たのだから、きちんと向き合わなくてはいけないと封を切ろうとしてはやめ、切ろうとしてはやめ、を繰り返しているうちに、ライカは疲れた腕を下ろした。手紙を読むという、普通のことをするのが、今のライカにはなかなか出来なかった。
「へい、お待ち! 焼き鳥、好きなんじゃなかったかい?」
大将はライカの返事も待たずに、焼き鳥の皿をテーブルの上に置いた。視線だけ上げてどうにか笑って頷くと、目の前に置かれた串にそっと触れる。
あの日、ユイは泣いていた。何度も泣いていた。きっと、何かをライカに訴えていたのだ。それなのに、何も出来なかった自分を、ユイは怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。脳内を駆け巡るユイの残像が「しっかりしなさいよ、来夏なんだから!」と言っているような気がした。
自分はこれを読まなくてはいけない、強くそう思うと、息を吐いて無理やりに腕を動かした。いうことを利かない指が上手く封筒を開封出来ず、思ったよりも下で破けてしまった。慌てて中を覗き込むが、便箋は破れていないようだった。
中身は紙切れが、たった一枚だった。広げると、便箋の真ん中に数行、鉛筆書きの文字が並んでいた。
全然、上手く書けない。
ごめんなさい。本当に、ありがとう。
☆この手紙、読んだら捨ててね。カッコ悪いから☆ 唯
数秒で読み終わってしまったその手紙を呆然と見下ろすと、ライカは天を仰ぎ見た。一体、彼女は何を伝えたかったのだろうか、考えても考えても、彼には分からなかった。
「なんだよこれ……。わかんねぇよ、バカ」
気が付いたら、そう呟いていた。始まりからずっと、わけの分からない女すぎる──ライカはそんなことを思いながら、手紙を丁寧に畳んで封筒にしまう。テーブルの上に置いたユイからの手紙を眺めながら、大将がくれた焼き鳥を頬張った。
やはり、ちっとも美味しくない。ユイはライカに美味しい焼き鳥を食べさせるつもりはないらしい。そのことに気が付くと、ふっと笑みが浮かんだ。
「……ユイはユイでしかねぇな」
それはとてもユイらしい。悲しい告白もなければ、理由も教えてくれない。ただ、『ごめん』と『ありがとう』だけが並んだ、最初で最後の手紙だ。
彼女は怒ってはいないようだった。呆れてもいない。そこにあったのは、本当に謝罪と感謝のみで、それ以外のものを感じ取ることは出来なかった。