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8.三羽の鶴(2)

「ふぅん。悩みって色々ね」


 あっけらかんとそう言い、彼女はラーメンの(つゆ)を飲み始める。なぜ嫌いなのか聞かれると思っていたライカだったが、そのあっさりとした反応はかえって都合がよい、と視線を落として麺を持ち上げる。


「あれ? ライカのラーメン、ちっとも減ってないじゃない」


「……瑠衣、早すぎない……? 半分以上食ってるじゃん」


「そう? 普通だよ? 伸びちゃうの嫌なんだよね。あ……もしかしてライカ……猫舌?」


 「猫だけに」と言ったあとに、ラーメンをレンゲに乗せた瑠衣がニヤニヤ笑う。自分で言ったことが面白かったのかもしれないが、いつもと少し違う瑠衣が、酔いすぎているのではないかとライカは不安になる。


「大丈夫なのかよ……。ビールだってあんなに一気に飲んで……」


「だいじょぶよ? 私、結構強い方だし」


 自分の経験を思い返してしまったライカは、それが怖いんだよと思いつつ食べきれそうもない麺を、瑠衣の真似をしてレンゲに乗せた。なかなか上手いこと乗り切らない。意外と技術が要るんだな、と躍起になっていると、彼女が口を開く。


「どう、少しは落ち着いた?」


「落ち着いた……って?」


「気持ち、落ち着きましたか?」


「あぁ……どうだろ」


 瑠衣はきっと、ここのところの自分のイカレ具合を言っているのだろう、ということは理解出来たが、落ち着いているのかはライカ自身にも分からなかった。「わかんない」と正直に言うと、瑠衣は少し黙ったあとに眉を上げ、陽気な表情で笑う。


「あれね。なんか楽しそうにしてるわよね、働くの」


「まぁ……どうやったら熱いグラスを素早く拭けるか、とか……酒の種類覚えたりとか……、あんま、ぼーっとしてる暇ないし。マスターカワハラがいいひとってのもある。なんか……顔は疲れるけど」


「……顔が疲れる? どういうこと?」


 ライカは何だか、昨日あたりから顔が痛かった。喋ることを止めすぎていたせいで、顔の筋肉が衰退しているのかもしれない。たかだかマスターと会話しているだけで、顔面が痛いなんて自分でもおかしいなとライカは思う。


「……喋ると顔、疲れない?」


「よく……わかんないんだけど」


「そんなもん、瑠衣はわかんなくっていいよ。別にいいことじゃねぇもん」


 真面目に首を傾げた瑠衣に、ふっと笑みがこぼれた。もうすぐ食べ終わりそうな彼女に追いつこうと、ライカは必死で麺をかき込んだ。


 そんなライカに気付いたのか、瑠衣は「別に慌てなくても……」と呟く。しかし、慌てなければ恐らくずっと、麺を持ち上げたり泳がせたりになってしまうであろうことをライカは分かっていた。急ぐしかないのだ。


「いいわよ、待ってるから。このあと予定もないじゃない。眠いけどね」


 それはライカも同じだった。働くようになって、身体が疲れるせいなのかよく眠れるようになった。今までは動かなすぎただけなんだな、ということにライカは今さら気付いた。


 無言で箸を動かしていると、瑠衣は二杯目のビールを注文する。鼻歌まで歌って、彼女は何だか楽しそうだった。正しく酔っている人間を、初めて見たような気がして、先ほどの不安が取り越し苦労だったことにほっとする。


「そういえば。びっくりしたわよ。きみって、ちゃんと受け答え出来るんじゃないって」


「あ?」


「なによその『あ?』って。なんで私にはそうなの……」


「なんの話?」


「こないだ、マスターに『課題は終わらせてあるので』とか『夏休みが終わったら帰ります』とか言ってたじゃない。ちゃんと喋れるんなら最初から喋ってよ」


「あぁ……。だってあそこで喋らないの変じゃん。おれが無言なことで瑠衣に迷惑かけてもなんだし」


「えぇ……? きみが無言なことで、私これまでずっと迷惑かけられてたんだけど……」


「それとこれとは、別」


「意味わかんない……」


 口を尖らせた瑠衣は、おもむろに紙ナプキンを折り始める。折り目を付けたり、破いたり。食べ終わるべく頑張っているライカの前で彼女は器用に折り続ける。ライカは口と手を動かしながらそれをぼんやり見ていたが、やがて視線を落とし、考えごとの海に落ちていく。


 家に帰る、ということは、ずるずると先送りにしていただけであって、ずっと前から決まっていたことだった。しかし瑠衣にそう告げたあの言葉は、決して勇気から出た言葉ではなかった。あのときのライカには ”今の自分がおかしい” という自覚があった。


 突然狂ったり、暴れたりして世話になった瑠衣を傷付けるのが、家に帰ることよりも何よりも嫌だった。そしてまた、その状態にいつ戻ってもおかしくはないのだ。


 そこまで考えたライカは気付く。瑠衣の元から去ることと、深雪から逃げたことと、何が違うというのだろうか。初めてこの街に来た頃と何も変わっていない。振り出しに戻ってしまったような感覚に襲われる。真っ直ぐ歩いているつもりでいるのは自分だけで、本当はただ、丸く引かれた線の上をグルグル進んでいるだけのように思えた。


 それに ”瑠衣を傷付けたくない” なんて嘘だとライカは思う。そして、ユイが言っていた『ライカは優しい』という言葉だって、きっと勘違いだった。


 優しさなんてものは相手が都合よく考えただけの話で、本当は、他人を傷付たことで、自分が傷付きたくないだけでしかない。少しも素敵な話ではないのだ。


「あとちょっとじゃない、頑張れ頑張れ」


 声をかけられ、はっと視線を上げると、いつの間にか瑠衣のビールはなくなっていた。一体どれくらい同じ麺をすすっていたのだろうと、ライカは残りを全部口に投げ込んだ。


「もう……真顔すぎ。怖いって言ってるでしょ」


「食べながら笑ってる方が怖いし、どうせおれはずっと真顔だよ。……ごちそうさまでした」


「……言われてみればそうね。きみって現れたときからずーっと真顔。もっと笑えばいいのに」


「出来るならやってる」


「……それもそうか」


 そう呟いた瑠衣の手元を見ると、折り鶴が出来上がっていた。手に取ると、思った以上に柔らかくて、くにゃっと曲がってしまう。


「よく折れたね、これ」


「何枚か破いたわよ。鶴なんか忘れてるかと思ったけど、意外と出来た。ちょっとヘロヘロなとこが、かわいいでしょ」


「……どうやってやるんだっけ。記憶にない。折ったことはありそうなんだけど」


 水を飲みながら問いかけると、彼女は「教えてしんぜよう」と偉そうに言いながら紙ナプキンをちぎって正方形をふたつ作り、片方をライカに渡す。


「まずこうやって、三角にしてー」


 言われた通りに、向かいで鶴を折る彼女の真似をして折る。こんなことをするのは、一体どれくらいぶりだろうか。「折れてる、折れてる」と嬉しそうに言う瑠衣とは違って、ライカは必死だった。こんなに難しいことだとは思っていなかったのだ。


「出来たじゃないの」


 不格好な鳥らしきものを瑠衣の方にずいと押しやると、彼女は満足げに笑顔を浮かべる。どうやってやるのか、なんて気軽に聞くんじゃなかった、と思いつつ、ライカは眉を上げた。


「……なんか、不細工だなそいつ」


「そう? まあ……ちょっと見た目悪いけど、鶴は鶴だよ」


 その不細工な鶴を眺めていると、瑠衣が「行こっか?」と呟く。

 少しふらつきながら歩く彼女に続いて立ち上がり、そのあとに続いた。


 会計をしている瑠衣の後ろに立って、テーブルを振り返ると、三羽の鶴が置き去りになっていた。ライカは何だか、その三羽がかわいそうな気がしてくる。この妙に名残惜しい気持ちは何なのだろうか、と不思議に思いながら、ライカも店をあとにした。


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