7.夏は終わる(2)
ライカは瑠衣をちらりと見たあと、戸惑ったように視線を外した。そして少ししてから、静かに口を開いた。
「なんか、わかんないけど……。こうなっちゃった」
「……いいんじゃない? 確かにあそこにずっといろ、ってのも酷かったわ。ごめんね」
「いや……別に」
「でも平気なの? ……働くとか」
「まぁ、多分」
「ひとりで家にいるよりはマシ、か……」
「うん。マスターカワハラも、そうしろって」
「マスターカワハラ? ……なにそれ」
「あのひとの……名前?」
「……マスターって、そんな名前だったっけ?」
他にも色々と言いたいことはあったが、疲れていた瑠衣は「そう言ってたけど……」と首を捻っているライカに、着替えるように告げる。もう、さっさと家に帰ることにしよう、と自分もそそくさと支度をした。
服の脱ぎ着をしていると、様々なことが頭をよぎっていく。ここのところの四日程度で、物事の流れが加速した気がしていた。
マスターが言っていた、帰宅先ことを思い出しても、ライカの守りのようなものが綻び始めていると感じた。
「……なによ、北海道って」
瑠衣は思わず独りごちる。彼がどこから来たのか、なんて考えたこともなかった。国内であれば、多少遠くてもここまで来ることは出来るだろう。本当に北海道から来ていたとして、一体どうやって帰るつもりなのだろうか。全く分からない。
「はぁ。もうやめよ」
深く考えることを諦めて、瑠衣はロッカーの鏡で前髪を直した。このおかしな前髪も、店に出てみると意外と好評だった。それ以来、意図的に短くしている。その前髪が、少し伸び始めていた。
月日が経つのは早いものだ。切りすぎた前髪を、キープするために切り直すのは、もう何度目だろうか。
ライカの髪も伸びていることだし、一眠りしてから自分の髪を整えるついでに、少し切ってやろうと瑠衣は思う。先週、そういう話をしていたこと自体すっかり忘れていた。
「……最近物忘れが酷いわ……疲れすぎだし」
誰もいないのに、誰かに言いたくて呟く。本当はずっと、この仕事にも限界を感じているのだ。ライカに家族の話をして、瑠衣も初めて気が付いたが、もう航を見つけようという気持ちは、ほとんどなくなっている。
昼間の仕事に切り替えた方がいいのだろうか。それとも、地元に戻るべきか――。東京にいる意味もないが、帰ったところでどうなるのだろう。両親の小言と、世間の目と、一気に受け入れなくてはいけないだろう。
しかし、何も考えずに家を飛び出した自分が悪いのだから仕方がない。ライカも帰ることだし、区切りとしては、ちょうどいいように思えた。
「そっか。ライカ……本当に帰るんだな……」
着替えを終え、ロッカーを閉めながら、知らぬ間にそう呟いていた。彼女は慌ててその考えを振り払う。当たり前じゃないか。大体、しつこく帰れと言っていたのは自分なのだから。
「……やだ、私ったら……」
何だか笑えてきた。 "いなくなったら寂しい" までは想定の範囲内だった。だが、ふと思えば、これからもずっと彼が側にいるような気がしている。
そんなことは有り得ない。だが、頭のどこかで "そうあって欲しい" と願っている瑠衣がいるのだ。ずっと抱えてきた、ライカに対する不思議な気持ちは一体、何なのか。
それを突き詰めてしまうと、まるで恋心だった。違うけれど、それに近い――いや、違うと思いたいだけなのかもしれない、瑠衣もそれに気付いている。弟よりも若いであろうライカにそんな感情を持つなんて、普通とは思えない。
それとも一種の依存なのか、それとも元の猫に抱いていたようなものなのか。しかし、彼は人間であり猫ではない。そんなことは分かっているのだ。
「……おかしい、本当」
ライカがやってきて、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。しかし、思い返せば一瞬で通り過ぎて行ったように思える。ただただ漠然と、日々を過ごしてきた瑠衣にとっては激動の夏だった。
だが、最近は熱帯夜も少なくなってきた。もう、夏は終わろうとしているのだ。