6.マスター・カワハラ
「ねぇ?」
不意に肩を叩かれたライカは、はっと顔を上げる。そこには黒い前かけを着けた男が立っていた。歳はいくつなのか分からなかったが、ライカよりもかなり上だろうな、ということは見当がついた。
「名前、ライカくんで合ってるんだよね?」
「……あ、はい。そう……です」
ぼうっと呟くと、彼は笑って「ごめん、読経中だった?」と言いながら、ソファーの隣に座り込んだ。
聞かれていたのか、と思うと恥ずかしくなった。考えごとをすると周りの声が聞こえなくなるのは、ライカにとっていつものことだ。
「いや、冗談だけど。全然反応しないからさ。名前、聞き間違えたのかと思ったよ」
このオジサンとも思える男が誰なのか、ライカに分かるわけもなかった。
ライカが店まで連れて来られたのは今日で二日目だ。店に電話をかけた瑠衣の話はよく聞いていなかったが、どうやらライカは親戚の子、ということになったようだった。
「俺はね、川原っていいます。みんなはマスターって呼ぶけど、マスターじゃない」
「……はぁ。……そうなんですか」
「ライカくん、瑠衣の親戚なんでしょ? 彼女は確か……徳島出身だったっけ」
ライカは「あぁ……」と呟いた。ずっと一緒の部屋にいるというのに、瑠衣がどこからやってきた人間か、など考えたことがなかったのだ。言われてみればときどき、よく分からない単語を呟いてたりしたな、と思い出す。
「ってことは、きみも徳島のひと?」
「いや……北海道です」
「え?! ずいぶん遠いんだねぇ」
彼のセリフにライカはパチパチと瞬きをした。思わず、本当のことを言ってしまったのだ。どうにもぼんやりしてしまう。ライカは気を引き締めようと、とりあえずマスターを見つめ返した。
「……遠い……遠い遠い親戚なんです」
「へぇー。そっか」
彼は持ってきたらしいグラスに入った何かを飲んで、静かになった――そう思ったのに、彼は黙らなかった。馴れ馴れしい笑顔を浮かべてライカの方を向く。
「大学、どこ受けるか決めたの?」
「大学……」
「……あれ? 来年、受験なんでしょ? ……まあいいか、細かいことは」
瑠衣はこのひとたちに、一体どういう風に説明したのだろうか。しっかり聞いておくんだったと思いつつ、適当に誤魔化すつもりで笑おうとした。
だが、顔の筋肉がこわばってしまっているようで上手い具合に動かなかった。いつもより一層、酷い表情だったのだろう。彼は神妙な顔付きになって、ライカを観察するように眺めている。
見つめられるがままに視線を返していると、オジサンに見えた彼がだんだん、もう少し若い人間に思えてきた。口に出さずとも、オジサン呼ばわりしたことを内心詫びながら、ライカは口を開いた。
「あの、すみません。静かにしてるんで」
「まぁ別にうるさくしてても構わないけどね。ほどほどにならね」
そう言うと彼はニッと笑う。何かの洒落のつもりなのだろうか。それが何であるのか、ライカには不明である。曖昧に笑みを浮かべながら首元を掻く。
「……はぁ」
「それはいいんだけどさ。ここに昨日もいたよね?」
「はい」
「ヒマじゃない?」
「まぁ……。でも瑠衣がここにいろって……言うから」
「ふぅん」
そう呟いて顎をさすると、彼は首を捻りだした。彼が何を考えているのかライカはどうでもよかったが、放っておいて欲しかった。話しかけられても、疲れるだけだ。
「あぁそうだ。きみ、皿洗いしない? 眠くなければ、だけど」
「……さら、ですか」
「だって退屈でしょ? 何時間もここで、ぼおーっとしてるの」
「あの……いや……」
「ちょっとママに聞いてくるわ」
「まま……?」
呟いたライカを残して、マスターはさっさと出て行ってしまった。そして、数分で戻ってきた彼の話を聞くと、どうやらライカは皿洗いをすることになっているようだった。
「あの……。ちょっと待って下さい。マスターカワハラさん」
ライカの都合も聞かずに話を進めてしまう彼を、思わずそう呼んだ。するとマスターは何だか嬉しそうに「えっ?」とこちらに顔を向ける。その反応にライカも「え……」とそれ以上言葉が続かなくなった。
「すっげぇ! なんかジェダイ・マスターみたいだね」
「……はい?」
どっちで呼ぶべきか迷っていたら、両方出てしまっただけの話だった。先ほどから彼の言うことがよく分からないライカだった。
「……え?! スター・ウォーズ知らないの??」
「あぁ……。ええと……」
驚愕だ、と言わんばかりの顔で、マスターは叫び、ライカは口ごもった。それを全く知らないわけではなかったが、映画だということと、宇宙空間を飛び回るということ以外、詳しいことは知らなかった。
「宇宙で……戦うんでしたっけ……」
適当に答えると、彼は心配そうに眉をひそめた。悪気はないようだったが、それは哀れなものを見るような視線にも見えた。
「本当に知らないんだね……。観た方がいいよ、かっこいいからさぁ。ロマンだよ、ロマン」
「はぁ……。ロマン……」
「そうだよ。ちょっとあとで色々と教えるよ」
「はい。……すみません」
反射的に謝ると、マスターは優しく笑って「はい」と、彼が着ているものと同じものであろうワイシャツと前かけを差し出した。
「……あの。おれ……ホントに皿を洗うんですか?」
「もちろん、無理強いはしないけどさ。いやね、昨日もきみを見かけたけど、こう……かなりヒマそう、というか……ま、よければって話だよ」
言い淀みつつ言葉を繋げたマスターは笑みを浮かべた。ライカは彼がそんな顔を向けることが不思議だった。自分が皿洗いをすることが、この男にとって何かよいことがあるのだろうか。仕事を減らしたいのだろうか。ライカの頭の中は、疑問でいっぱいになる。
「瑠衣から聞いたんだよ。最近、身内に不幸があったんだって? 大変だったね。ただ座ってるより、なにかやってた方がいいんじゃないかと思ってさ」
「……」
「色々と考えすぎるからね。ほら、夏場の皿洗い、気持ちがいいよ」
そう言って着替えをもう一度、こちらに差し出してくる彼のその優しい口調が、ライカは気持ち悪かった。そして思う。なぜなのだろうか、と。瑠衣が優しいから、周りのひとも優しくなるのだろうか。それとも、瑠衣が優しいのはこのひとのおかげなのだろうか。
「どう?」
そう問いかけるマスターを見上げ、ライカは思い直した。こういうところがよくないのだ、と。むやみやたらに他人を信用するのもおかしいが、接してきた他人を全否定するものじゃない。さっき、そう考えていたのを、危うく忘れてしまうところだった。
「……じゃあ、やります」
たったそれだけのことを言うのに、ずいぶん勇気が必要だった。両手で着替えを受け取ると、シャツをそっと指でさする。学校のそれとは少し違う、つるつるした感触は心なしか高級感があった。
「ねぇ。……すごいどうでもいいこと言ってもいいかな?」
「……はい、なんでしょうか?」
「もっかい、 "マスター・カワハラ" って言ってくれない?」
「…………え?」
「いや "マスター・カワハラ" ってもっかい言ってみてくれたらなって」
「……マスターカワハラさん」
「あ、 "さん" は、いらないです」
「マスター……カワハラ」
「あー、いいねぇ。いい響き。今度からみんなにそう呼んでもらおうかなあ……」
彼はうっとりした様子で、照れ笑いのようなものを浮かべた。自分より遙かに年上であろう男が、異様な様子で笑っている。その姿はライカの通常の怖いを通り越してしまい、もはや面白くさえ思えた。
「オビ=ワンが好きなんだよ、俺」
「……帯……椀?」
帯と椀が何であるのか、よく分からなかったが、彼はまだ例の映画の話をしているようだった。マスターが、かなりマイペースな人間であることは間違いないが、悪いひとではなさそうだ。
取り敢えず、 "マスター・カワハラ" の話題から離れたい、とライカはどこで着替えるべきか、問いかけながら立ち上がった。