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5.残像(4)

◇◇◇


 ボーンボーン、と時計が鳴って我に返ったライカは顔を上げた。針は深夜一時を指していた。瑠衣の職場まで連れて来られた彼はひとり、休憩室のソファーに座らされていた。


『ちょっと置いて行けない』


 瑠衣は神妙な顔でそう言った。それは彼女が心配性だから、というわけではないだろうとライカですら思った。瑠衣に腕を引かれた日、ライカはどうやって部屋まで戻ったのか、ほとんど覚えていなかった。


 それはとてもおかしな話だった。いくら頭の中を探っても、窓辺で瑠衣と話したところまで飛んでしまう。昔のことを忘れるのならまだしも、思い出せないのは、つい数日前の話だった。何かを覚えるのは得意だったはずなのにな、とライカはうつむいた。


 その視線の先に、汚れた靴を履いた足が二本伸びている。そんなわけはないのに、まだ自分の身体さえも他人のように思えた。それなのに、感じたことのない痛みと、重すぎるまぶたと、それでも眠ってくれない頭は確かにここにある。感覚が噛み合っていない。


 気持ちの制御が出来ず、上手く働かない思考が見せた去年の残像が、さらにライカを混乱させる。


 あの一件以降、大人のように振る舞いたいと飲み込むしかないことは飲み込んで来た。何だってだ。不快ではあってもやって出来ないことはなかった。だから、頭のどこかで ”物事なんて、適度に目をそらしさえすれば、簡単に片付けられる” と思っていた。


 出来やしないくせに、何もかも自分で解決してやる、と虚勢を張った。自分ならば、器用に本心を見せずに立ち回れる。誰も信じずに、己さえも信じずに、薄笑いを浮かべて過ごしていけると。


 しかし、それはただの自惚れだった。伏せたまぶたの裏に見えるのは、大人ではなく、しかし子供でもない、ただの弱い人間だった。そして彼は気付いてしまった。実際は、まるでマネキンになどなれていなかった。

 思い通りこなしている気がしていただけで、実際は何も変わっていなかった。感情は確かにここにある。邪魔なほどに。


 本当はずっと、生きていないものの名前で呼ばれることは嫌だった。まるで、ただ存在していることすら否定されたような気がした。だからユイにもそう言ったのだ。『おれは生きてる』と。


 様々な思いが頭の中を駆け巡るのを止められないライカは、額をゴシゴシとさすった。瑠衣の話では丸一日、返事もろくにしなかったようだが、その状態に戻れたらいいのに、と思う。意識があれば何かしら考えてしまうからだ。たとえライカが何も考えたくないと思っていたとしても。


 思えば、物心ついた頃からライカはずっと考え続けてきた。なぜここに自分がいるのか、なぜいなくなってはいけないのか。いつだって、まるで見張るかのように、誰かが常に側にいた。それは客観的には恵まれているのだろう。だが、それは彼にとっては嬉しいことではなかった。意味もなく考えなくてはいけない。常に頭を使わないといけない。


「なんだよ、周りのせいか? ……甘えんな」


 思わず口から出たその言葉が真実すぎて、ライカは何だかおかしくなってきた。


 心から甘えていると思う。考えてしまうのは己だ。考えたくないと口では言いつつ、本当は考えたいのだろう。全部周りのせいにして誤魔化してこなかったのか? そう思うと違うとは言い切れなかった。


 生きていたいと怒るくせに、消えられないことを他人のせいにする、そんな矛盾だけで構成されているような自分を、ライカは本当に大嫌いだ、と思う。


 どうせ甘ったれた考えでしかないのなら、もっと前に甘えればよかったのだ。こんな風になる前に。ひねくれたライカを『友達だ』と言ってくれる人間がいた。深雪だって何か言おうとしていた。


 ちゃんと手は差し伸べられていたのだ。それをご丁寧にも全部振り払い、耳を塞いだのは、ライカ自身だった。深刻そうな顔をしているだけで、努力など欠片もしていなかった。ただ全てを投げ出しただけだ。


 ひとりになろうと家を出でも、結局は瑠衣に甘え、ひとりにはなれなかった。本来、大人の管理化にあるべき年齢の子供は、どうしたって、ひとりでなど生きられない。それが現実だった。ユイだって恐らく同じだった。だから彼女は壊れてしまったのだろう。


 脳裏に浮かんだユイの姿を消してしまおうと、ライカはソファーの脇に置いてあった女性誌を手に取る。しかし、三ページほどめくったことろで手が止まってしまう。


 ポーズを決める少女たちは余計に彼女のことを思い出させた。重たいその雑誌を閉じると、それを元の場所に戻す。現実が理解を超えている。ただただ辛いとライカは思う。


 ずっと誰かに心を許したかった。何も考えずに笑いたかった。ライカは、ユイとなら、それが出来ると思った。それなのに彼女はいなくなってしまった。信じたくなくとも、いなくなったと考える方が妥当だった。


 ちっとも話を聞いてくれなかった彼女に、本当はどんな言葉をかければよかったのだろうか。もっと出来ることはあったはずなのに。そう思うのは思い上がりなのだろうか。


 彼女が消えたことを、起きてしまったこととして片付けられたなら、どんなに楽だろうか。でもそうじゃない、とライカは思う。時間はあると心のどこかで思っていた彼はすぐに動かなかった。やりとりの順番など気にせずに、もっと早く瑠衣と話を付けていたなら。それよりも、あそこで別れずに無理やりに連れ帰ればよかったのかもしれない。


 そんな風にライカの中の後悔という後悔が全て、一気に押し寄せてくる。わけが分からなくなったライカは突っ伏した。何か違うことを考えなければ、気が狂いそうだった。


 何でもいいから、と頭の中に音楽を流そうとする。歌詞さえあれば何だってよかった。必死にうめいていると、出て来たのは、なぜか小学校の頃に習った、唱歌の "夏は来ぬ" だった。


 分かるようでよく分かっていない単語を延々脳内で再生していたら、うるさい思考が少しだけ静かになった気がした。


 そんなものは気のせいとも思えたが、それでもないよりはずっとよかった。「なつはきぬー、なつはきぬー」と額を膝にくっつけて呪文のように考えていたら、色々なことが少しだけ、どうでもよく思えた。


 こんなときですら、日本語の歌が浮かんでくるなんて、やっぱり自分は日本人でしかないんだろうな、とライカは思う。

 たとえ、見た目がどんな風であろうと。

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