5.残像(2)
あれで人生を変えさせられたと言えば大袈裟だが、それでもライカの学生生活はあの件ですっかり変わってしまったのだから。
今までたまたま標的になっていなかっただけで、多くの嫌がらせに理由がないことも、ライカは分かっていた。見ている限りはそうだった。まるでサンドバッグのように、目に付いた人間を叩いているだけだ。
彼の言うように、ライカの態度が悪いとして、百歩譲ってそれは申し訳ないとしても、誰かが気に食わないという理由だけで、何の言葉もなくその相手を貶めることをわざわざしようなどとライカは思ったことがなかったし、少しも理解が出来なかった。
人間は対等であるべきで、どちらが上も下もない。そんなくだらないものは小学生で終わると思っていたのに、そうではなかった。呆れてしまったライカの口から、思わず本音がこぼれた。
『そっか。バカにはなに言っても無駄だよな……』
それはさきほどよりもずっと小さな声のはずだったが、上級生には聞こえていたらしく『あぁ? 誰がバカだって?』と胸ぐらを掴まれた。ライカは『聞こえてんじゃん』と呟き、笑ってしまった。
"頭がいいとか思ったことないけど、本物のバカは存在するんだな" 、などと考えていると、彼に思い切り殴りつけられた。痛いと思う前に、口の中に広がった血の味が、生臭くて気持ちが悪かった。
『ケンカ売ったの、おまえだからな』と、言い訳のように彼は言った。殴ったことすらライカのせいにするようだった。どうでもいいわ、と起き上がろうとしたライカに向かって、上級生は続けて言い放った。
『ちょっとからかっただけじゃねーか。いちいち本気にすんなよ。あんなのノリだろ? 冗談だってわかるじゃん』
その言葉を聞いた瞬間、ライカの頭は真っ白になった。 ”いちいち本気” にしたのはライカではなかった。その発言に従うならば、あのとき、どうしたらよかったのだろう。
あの状況で彼の思惑に気付いて『アレ、冗談みたいっすよ』とでも教師に言えばよかったのだろうか。そんなことは人間業とは思えなかった。
ライカの頭の中を、ありとあらゆる悪態が駆け巡っていき、どうしようもない感情で身体がびりびりした。上級生を見上げると、身体の大きな彼は熊のようだったが、恐怖より怒りの方がずっと勝っていた。
こんな方法がまかり通るなんて、この世はどうかしている。ライカにだって ”自分” はあるのだ。そんな気持ちが溢れたことに驚きながらも、もう自分を抑えることが出来いと悟った。そして気付いたときには、彼を突き飛ばしていた。
空気が変わったことを肌で感じながら、武器がなければ勝てないと、背負っていたカバンを下ろした。教科書は常に持ち帰らなければならなかったため、カバンにはそれらがつまっていて、結構な重量があった。
一度やり返してしまったのだから、彼が向かってくることを覚悟した。だったら、やられる前にやるしかない、やらなければ殺される、ライカはそう思ったのだ。
ふっと我に返ると、カバンを手にぶら下げて息を切らした自分と、目の前でうめく上級生の姿がそこにあった。取り巻きのひとりは逃げたようだった。
ライカがどういう暴れ方をしたのか、それは自分でも分からなかった。しかし、上級生は全治三週間という診断を受けた。取り巻きの説明が聞き入れられ、ライカが一方的に悪い、ということになった。訂正したくとも、自分が何をしたのかよく覚えていないため、またもやライカはきちんと説明しなかった。何も言えなかったのだ。
さすがにもう、深雪に隠したままでいることは出来なかった。呼び出された保護者同士の話し合いの場で、ライカはただ、謝り続ける深雪の背中を見ていることしか出来なかった。上級生の親は怒り狂っていた。怒るのは当然だとも思えた。ライカはただ、顔に青いアザが出来ただけなのに、上級生は腕の骨にひびが入って生活にも苦労しているようだったからだ。
本当はもっと、話さなければいけなかった。だが、ライカの頭は混乱していて、何をどう言ったらいいのか分からず、なかなか思うように口が開かなかった。話すのが上手かったらどれだけいいか、とライカは思った。
同席していた上級生はおどおどした様子でライカを見ては目をそらしていた。自分の悪事が知られてしまうのを恐れているように見えた。
どうにか話を始めようと口を開いた瞬間、間に入るべき教師はライカを責め始めた。ライカは反論の機会を失ってしまった。
謝罪しろと言われ、どうでもよくなってしまったライカは、謝って済むのであれば謝ってしまえ、と言いかけた言葉を飲み込んで、ただ『すみませんでした』と頭を下げた。そして言ってから後悔した。言うべきではなかった、と。
それは自分で思っていたよりもずっと屈辱的だった。もちろん、骨にひびが入るほどの暴力を振るったことは、よくないことだ。しかし、先に殴ったのは上級生だった。ケンカを売ってきたのも彼だった。それを理由として振りかざすことはおかしいとは思ったが、彼らが何も責められないというのはもっとおかしい。でも何も言えない自分はもっともっとおかしいとライカは思った。
きっと全部、自分が悪い。だから、こんな人間は消えてしまえばいい、という感情がはっきりと生まれたのは、あれが最初だったのかもしれない。
あの話し合いから帰宅までの道中、のろのろ歩くライカを深雪が振り返った。何かを言われるのかと身構えたが、彼女は何も言わずに、ただ切なげにライカを見つめた。
その視線が余計にライカを惨めにさせた。よっぽど怒鳴り付けてくれた方がいいとすら思った。そんな思いを知らないであろう深雪は、何度目かに振り返ったとき、遠慮がちに口を開いた。
『ねぇ。……どうして、ああなったの?』
何も言わないライカに、深雪は『……ねぇ?』と返事を催促をした。さすがに黙っているわけにもいかなそうだった。うつむけていた顔を上げ、仕方なく口を開こうとしたが、どう言ったらいいのだろう、と考えてしまった。『どうして?』と聞かれると、あの心の動きはライカにもどう説明したらいいのか分からなかったのだ。もし理由があるとしたら、許せなかったから、ということだけだった。
『許せないなって思ったから』
『そうじゃなくてね。一体、なにがあったの?』
首を傾げた叔母を、見つめ返す。相手をバカにしたライカ自身も、利口な頭脳を持っていなかった。もっと頭がよかったなら、自分をきちんと制御出来たなら、こんな風に彼女を困らせることもなかっただろう。
『……ごめんなさい。病院代とか……それは、本当にごめん』
自分が彼女の家に住んでいるという時点で、罪悪感があった。そのうえ、こんな騒ぎまで起こして、深雪に労力をかけさせてしまった。それ自体は心から申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そんな思いから謝罪の言葉を述べると、深雪は静かに首を振った。
『起きちゃったことは仕方ないでしょうが。それはもういいの。ただ……私はなんで自分が謝ったのか知りたいの。どうしても理由もなくあんな──』
『意味ないよ』
『意味ない……って?』
『なにをどうしたってもう、おれが先輩、殴ったことには変わりない。深雪が謝らなくちゃなんなかったのはごめんって思う。だけど、これ以上もう話したくない』
はっきり言い放つと、困ったようにライカを見ていた深雪は、何か思案しているのか、小さく唸って前方へと視線を移した。そしてあの日、彼女もライカもその件について口を開くことはなかった。