5.残像(1)
あれから――ユイが死んだらしいと知った日から、どれくらい経ったのだろうか。
ずっと他人のことなど興味がないはずだった。しかし、今の状態を考えたら、とてもそうだとはライカには思えなかった。ユイと会えないであろうという現実に、彼は自分の想像以上に強い衝撃を受けていた。
夢だったらいいのに、という思いは相も変わらずライカの中にある。そう願う頭の中はもやもやするばかりで、はっきりしなかった。全てが夢の中で起こっているような感覚のままだ。
もしもあの記事がライカの勘違いで、ユイが元気なのだとしたら、彼女はあの店にいるはずだ。本来なら、きちんと確かめに行かなくてはならないのに、彼はどうしても動けなかった。
本当にもう会うこともなければ、触れることすら出来なくなってしまったとしたのだとしたら。それを現実として、はっきり見てしまうのがライカは恐ろしかったのだ。
誰もいない部屋で、エアコンの風に当たりながら、ぼうっと床の割れ目を見ているうちに、ふっと自分の身に降りかかったことが頭をよぎった。
◇◇◇
それは、去年のことだった。
ライカは所属していたバスケットボール部の上級生との間で問題を起こした。元々、まだクラスに溶け込んでいなかったライカが ”何となく浮いている” から ”完全に触れられなくなった” のは、あれ以降だった。
あの部に入ったのは、なぜか自分の部活に入れたがる、恐らく学年で一番の長身な新田英明という男子の猛プッシュがあったからだった。本音を言えば、別に部活など入りたくはなかったが、校則で必ず何かの部活動に入ること、と決められていた。どこかを選ぶしかなかったのだ。
元々体育祭で燃えるようなタイプではないライカだったが、やってやれないことはない運動を淡々とこなした。走れと言われれば走ったし、面倒な練習も、片付けだって何だって、言われたことはきちんとやっていた。
それなのに、先輩たちにはよく文句を言われた。無言だったのがいけなかったのだろうか、にこにこ笑って、ふざければよかったのだろうか。しかしそれは、ライカにはとても難しいことだった。
きっとこの顔が悪いんだろう、と嫌いな顔がもっと嫌いになった。自分でも何となく気付いていたが、子供から大人になりかけるのが早かったライカは、目立ちたくなくても目立っていた。ただボール拾いをしているだけでも視線を感じた。それは嬉しくもなかったが『見てんじゃねぇよ』と怒鳴るほど困ることもなかった。
目が合うと逃げていく女子たちに、あれは一体何がしたいんだろうか、と首を傾げた。『用事があるなら言えばいいのに』と呟いたライカに『あれはかっこいいおまえのギャラリー』と英明は言い、よく分からないが楽しそうに笑っていた。他人に『かっこいい』と言われたところで、見た目にわざわざ触れられることは不快でしかなかった。素直に喜べばよかったのかもしれない。だが褒められても、どうしたらいいのかライカには分からなかった。それでも、行くしかない体育館にライカは足を運んでいた。
そんなとき、更衣室で事件が発生した。いつも難癖を付けてくる上級生の財布がなくなったと騒ぎになったのだ。身に覚えがないのに、ライカが疑われた。『知らない』と言いはしたが、部員同士で噂が立ちのぼり、自然とライカが悪者になって部活内の空気はおかしくなってしまった。
後日、顧問の教師に呼び出され『盗んだのか』と言われたとき、ライカは心の底から教師を呆れた目で見た。あんなやつの財布なんか盗まない、と思っても、ライカは投げやりに『違います』と繰り返した。それ以外、何を言っても無駄に思えた。
きちんと否定して調べるなりをさせるべきだったのに、ライカは何も言わなかった。自分の周りにこんなやつらがいる時間を少しでも減らしたかった。そのときの彼は、他の教師にどう思われるかまで気が回せなかった。それが失敗の元だなんてライカは思いもしなかったのだ。
問題を大きくしたくなかったのか、顧問は事件を謎として葬った。気付けば体育館から足が遠のいていった。もう行く必要もないと思ったからだった。自分などいない方が、あの部員たちはうまくいくのだろう――そう思うと、部活に行く理由が消えていった。
そして、それまでは普通――むしろ模範生だったはずのライカは、いつの間にか素行不良の生徒として扱われるようになった。何も言われなくても、それは教師たちの態度で分かった。ライカはついに、学校に行く理由すらなくしてしまった。
それでも家は出なくてはならなかった。深雪に学校で起こったことを言いたくなかったからだ。学校にいるべき時間に制服姿でうろつける場所もなく、ライカは駅のトイレの個室にこもるようになった。決して気持ちのいい場所ではなかったが、学校よりはマシに思えた。
しかし学校を全て休んでしまったら、きっと何か言われてしまう。だからライカは適当なタイミングで登校し、適当に教科書を読んで過ごす日々を選んだ。
微妙な空気の中でも、気を遣っているのか同じクラスの英明はわざわざ話しかけてきた。構わないでほしいと言い放っても、彼はしつこかった。そのうちに英明の友人らしい女子まで現れ、チグハグな三人組が出来上がった。
目の前で楽しそうに話すふたりを、何となく眺めているうちに、このリスのような顔をした彼女が同じクラスの草野千鶴だということは覚えた。
ふたりが側にいたからなのか、少しずつ以前に戻ってきているような感覚があった。校則違反の帰宅部になった、それだけで終わっていたのなら、もしかしたらライカは学校という仕組みから、はみ出さずにすんだのかもしれない。だが、そうではなかった。
◇
ある日、廊下を歩いていると、向かいから例の上級生たちがやってくるのが見えた。向こうも気付いているようだったが、そんなものは知ったことではない、とライカは歩き続けた。何を言われても無視するつもりだった。この人間たちに振り回されるのはもうたくさんだったからだ。
『おい、なんで部活来ないんだよ?』
彼らはニヤニヤしながらそんなことを言った。何で、というのは、ライカよりも彼らの方が知っているはずだった。なぜ勘違いしたのかを知る由もないが、彼らがライカが盗みを働いた、と言ったからに決まっているのに。
『無視かよ。おまえ態度悪いんだよ。返事くらいしろよ』
どうしておまえに返事しなくちゃならないんだ、と思いつつ、ライカは振り返った。そんなに返事が欲しいならくれてやる、そういう気持ちだった。
『おれは窃盗犯ですから。返事するほどのこともないですよ』
『窃盗犯だってさ。すっげー。まだ盗ってんの?』
つつき合ってげらげら笑う上級生たちを見ていたら、ライカは何となく気付いてしまった。元から財布などなくなっていなかったのではないか、と。もし本当に何か実害に遭っていたのなら、犯人だと疑っている人間に対して、こんな顔はしないんじゃないか、とライカは思ったのだ。
『……ホントは、なにもなくなってないん……ですか?』
『えぇ? 聞こえねー』
嫌な顔で彼らは笑っていた。ライカの心はどす黒い気持ちでいっぱいになった。