4.他人よりか近い、ふたり(2)
そうしているうちに、永遠に黙っているのかと思えたライカが「……別にさ」と呟く。ちらりと視線を送ると、ライカは未だ何かを考えているような瞳で、空を眺めている。やがて、彼は静かに続けた。
「おれを拾ったのがどんな理由だったとしても、瑠衣がお人好しなのは変わらないよ。もし、弟の代わりだとしても……おれは弟じゃない。いいひとぶった程度で、ここまで出来ないよ。瑠衣が優しいのは……瑠衣がそういうひとだからだ」
「こんな話聞いても、引かないでそんなこと言えるの、すごいね」
「……こんな頭おかしいやつと一緒にいて、引かない瑠衣のほうが……すげぇと思うよ」
自分で自分のことを嘲るライカは相変わらず死んだような顔をしていた。確かに、出会った頃からライカはずっとおかしかった。でもそれだけ追い詰められているだけなのだろう。ライカがまともでいようと必死に抗っているのは、このひと月、彼を見ていた瑠衣は理解していた。ふと、神様は意地悪だ、と瑠衣は思う。彼はまだ、ほんの子供だというのに。
「ライカは頑張ってるよ」
思わず、口から出てしまった言葉に、彼は笑ったようだった。変なことを言ってしまったかもしれない、と誤魔化すように笑い返した瑠衣に向かって「なんか……」と呟いたきり、何も言わなかったライカが、しばらく後にその言葉の続きを口にする。
「頑張ってるからなんだ、って話だけど」
「頑張らないよりは偉いよ?」
「……頑張っても、おれは瑠衣みたいに親のこと受け入れられないよ」
瑠衣が知っているのは、ライカの母親が既に亡くなっている、ということだけだった。ということは、彼が言っているのは、もうひとりの親――父親のことなんだろう。
「お父さんのこと……?」
ちらりと瑠衣を見たライカは微かに頷き、静かに深い深いため息をついた。あの踏切で聞いた、断片的な情報から察するに、ライカの家庭環境はかなり複雑そうだ。聞かない方がよかったのかもしれない、と瑠衣は口を閉じる。しかし、無言でいるのかと思った彼は、黙らなかった。
「おかしな話なんだけど。……結果としての現実と、おれの頭に残ってる記憶が、噛み合わない。なにが正しいのかわかんない。それが辛いのかもしれない。でも……本当のことを知るのも…………怖い」
「……そう」
ずっとはぐらかしてばかりいたライカが、本当のことを話している。でも無理やりに聞き出したいとは思わない瑠衣は、そっと相づちを打った。ライカが話したいのなら、話せばいい。そういう気持ちだった。
「さっき聞いた話だったら……瑠衣だって親を嫌いになってても変じゃないと思う」
そういうものなのだろうか。よく分からなくて、瑠衣は曖昧に口元を引き締める。何とも言いようがない。ヒステリック気味な母親も、脳天気で無関心な父親も、親は親だ。嫌いにはなれそうもなかった。恨もうと思ったこともない。ただ、少し離れたかったのは事実だったが。
「でもそうなってないだろ? すげぇよ。……自分が小者に思える」
「うちはそんな大したことないのよ。第一、こういうのって比べるものじゃないでしょう? ライカみたいにきちんと考えられる子がそう言うのには、それ相応の理由があるはずよ」
先程から自虐が過ぎるライカをたしなめようと、ぴしゃりと言い放つ。ライカは苦笑いを浮かべ、髪を掻き回した。
「確かに寝不足は……いらんこと言いすぎる」
「そうね。でも……たまにはいいんじゃないの? 本当のことを言うのは、大切なことよ。……多分」
吹き抜ける風が、その前髪を揺らす度に、抱えた膝の上にあごをうずめるライカの横顔が見えた。その顔を、どこか懐かしく感じていることに瑠衣は気付く。
ライカは成り行きで家に引き入れた他人であって、家族でもなければ、弟とは全くの別人だ。それなのに、気が付けば心を許していた。本来なら言わないような本音も、いつの間にかぶちまけるほどに。それはきっと、他人だったから、出来たのだろうと、瑠衣は思う。家族――姉という立場、ただそれだけのことなのに、無意識につまらないプライドが邪魔をしていたんだと、瑠衣はやっと分かったのだ。
いつまでもこんなことを考えていても仕方がない、と瑠衣は顔を上げると、無理やりに笑う。
「とにかく! そういう理由でした! ……うん。話せてよかった」
ライカがすっかり元気になったとは思えなかったが、少しだけ、いつも通りに戻ったような気がする。瑠衣は彼の肩を叩いて、努めて明るい声を出した。
「ねぇ、ご飯! 食べようよ。なにがいい?」
「……んー。あんま……食べたく──」
「ダメ! おかゆ作ろうか? 胃の調子悪いんでしょ? 冷蔵庫空っぽだから、具がないけど。……あ、待って。ネギがある」
怠そうに呟いたライカの言葉を遮ると、瑠衣は彼の両手を握って無理やりに引っ張る。されるがままに立ち上がったライカは、「疲れた」とぽつりと言った。
「そりゃあ疲れるでしょう。とにかくライカは寝て。だって全然寝てないでしょ? ほら。もう特別でもなんでもないけど、また布団貸してあげるから」
「……うん」
「はいはい、立って!」
そう言うと瑠衣は、強引にライカを部屋の中に引きずり込んだ。思ったよりも素直に、彼は部屋に入ると、布団の脇に座り込んだ。
「もたもたしないで横になりなさい。とにかく、ちょっとでもいいからね、感じ悪いライカに戻ってよ。そのままズーンとされてたら、私だって疲れちゃうんだから」
「はぁ……まぁ……。そう……だね」
口の中で呟いたライカが、ふっと瑠衣を見た。そのまま酷く真面目な視線を向けてくる彼に、瑠衣は首を傾げる。「なあに?」と聞いても彼は黙っていた。
しばらく見つめ合っていると、ライカがするっと視線を外したうえで「……いや、いい」と言葉を濁す。瑠衣は諦めずにもう一度問いかける。
「えー? 言ってよ」
「……言わない」
「言いなさいって。……気になるじゃないの」
肩を小突くと、ライカは困ったように唇の端を引き上げ、ガリガリと頭を掻く。もごもごと何かを言った彼に「もう一回!」と催促する。
「もう言ったじゃん」
「聞こえなかったもん。ほら」
「だから……。瑠衣みたいな姉ちゃんがいたら……少しは違ったのかなって……」
「え」
「おれ、ひとりっ子だから……。もしかしたら、そういうひとがいたらって……ちょっと思った。だから……弟、別に瑠衣にはなんも思ってないんじゃないかなって……。おれだったら、だけど。おれなら瑠衣にはなんも思わない。……って思ったっていうか」
そんな風に慰められるなどとは瑠衣は思っていなかった。みるみる涙が溜まってきてしまって、それを見られたくない瑠衣は、誤魔化すように両手でライカの頭を撫で回す。「ありがと」と呟くのがやっとで、足早に瑠衣は彼の側から立ち去る。
「とにかく! 私は聞いたわよ、帰るって。撤回は許しません。もう少し元気になったら、帰るといいよ。元気になったらね?」
逃げるように立ったキッチンで、瑠衣は必死に元気に声を出す。ライカの返事は聞くつもりはなかった。きっと彼は何かを言っただろう。でも瑠衣は耳を澄まさなかった。
「最初からそういう話だったしね。うん、そうそう。よし、おかゆを作りまーす!」
陽気に言ったのに、瑠衣の視界は涙で曇ってしまった。希望通りになっているというのになぜ泣くんだ、と瑠衣は不思議で仕方がなかった。もし気まぐれだったとしても、あのライカがやっと『帰る』と言ったのだ。それは喜ばしいことだった。初めから望んでいたことだったのだから。