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4.他人よりか近い、ふたり(1)

 それは突然だった。

 朝、瑠衣が目を覚ますと、母親が騒いでいた。何事かと目を擦りながらリビングに降りていくと必死の形相の彼女に両肩を掴まれ、問いかけられた。


(こう)、どこ行っきょったか知らん?!』


 寝耳に水だった。母親の話によると、昨日までいつも通りそこにいた、弟の航が消えたというのだ。


『服がなくなっとんよ』

『瑠衣、ヤスくんに電話して!』

『航の通帳、ケースごとない』

『瑠衣? 聞っきょん?!』

『こないだ、ケンカしよれへんかった?! ほんまに何も言うてなかったん??』


 呆然とする瑠衣に向かって、母親は部屋中をバタバタ動き回りながら、マシンガンのように話し続けた。そう言われても、瑠衣は何も聞いていない。


 確かに、一週間ほど前の晩、航とちょっとした喧嘩をした。瑠衣と同じ大学に進学が決まっていた彼が、大学に行きたくない、と言い出したからだ。

 何を言っているのか、と説き伏せた。いつもは素直な航が珍しく反抗し、口論した挙げ句、彼は最後にこう言い放った。


『俺は姉ちゃんみたいに出来がよぅないけんな。わからんよね』


 本当に意味が分からなかった。航は瑠衣よりもピアノが上手く、成績も良かった。大学だって余裕を持って受かったし、母親は航ばかりをかわいがっているように見えた。

 何の不自由もなく暮らしているのに、そして自分が努力しても得られなかった才能だって持っているに、なぜそんなことを言うのか、瑠衣には心底分からなかったのだ。


『なに言よん? 航の方が出来いいでぇ。オマケじょ、姉ちゃんなんて』


『姉ちゃんが先にやり始めたんだろ。理想の子供をさ?』


『別にえぇで? ……なにがあかんの?』


『ほんなら、姉ちゃんだけおったらええよ。……俺は必要ないだろ』


 その発言の意味が、やっと分かった。航はあのとき、家を出ることを決めていたのだ。

 ダイニングテーブルに手をついて、イスに座り込んだ瑠衣の後ろで、母親はずっとヒステリックに叫んでいた。でもそんなものは、瑠衣の耳に入ってこなかった。


『お母さん……。私と航、どっちが出来がえぇと思う……?』


 しばらく黙ったのち、やっとのことで瑠衣の口から出て来たのは、そんな言葉だった。


『何言よん……?!』


『私がおらんようになっても、同じくらい探してくれる……?』


 母親はわけが分からない、といった顔をすると、電話の子機を瑠衣に押しつけた。


『早ぅ電話して! 探さなんだら! しょうもないこと言わんといてよ!』


◇◇◇


 結局、航はどこにもいなかった。友達の家にも、学校にも。

 警察に届けても、事件性がないということで捜査すらしてもらえなかった。


 駅前に立ってビラも配った。家族が失踪したことは、あっという間に世間に知られ、何とも言えない視線に晒される日々だった。そして、家の中は死んだようになり、何も出来ないまま一年が過ぎた。


 そんなとき、東京に進学した同級生が、街で航に似た人物を見かけたと言ってきた。そんなものは他人のそら似だ、ということくらい頭では分かっていたが、瑠衣はじっとしていられなかった。

 何もなかったように普通に過ごし、通学とアルバイトを繰り返し、何もしないまま、ただただ時が過ぎていくのが辛かった。自分にも何か出来ることがあると思いたかったのだ。


 航を見つけるまで地元には戻らないつもりで、両親に黙って大学に退学届を出し、貯金を持って飛行機に飛び乗った。親が用意してくれた学歴も将来も、躊躇(ちゅうちょ)なく捨てた。

 そのあとどうするか、なんて、何も考えていなかった。もっと利口なやり方はあったと思う。しかし瑠衣には、どうしても航に伝えたいことがあった。今すぐにでも言わなければ、と気持ちが焦っていた。


 ──姉ちゃんには、航の代わりは出来ない。ちゃんと話を聞いてあげなくて、ごめんなさい──


 そんなたわいもない、息継ぎもせずに言えてしまうようなこと。

 未だにそれが伝えられないまま、航がいなくなって、五年も経ってしまった。東京に来てからは、四年になる。同じ街にいれば、噂も聞くかもしれないと思った。だが、何も分からない。もうきっと、ここにはいないのだ。


 いや、元からどこにもいなかったのかもしれない。近くにいれば会えるに違いない――そんな風に考えていたかっただけなんだ、と心のどこかでそう思っていた。

 そして、全てを諦めかけた頃、ゴミ捨て場でうずくまるライカを見つけた。もしかしたら航もこんな風に、どこかで動けなくなっていたのかもしれない。誰かに助けられたのかもしれない。そう思ってしまったら、声をかけずにはいられなかった。


 ライカの面倒をみるのは瑠衣にとって、いわば罪滅ぼしだった。弟に出来なかったことを、代わりにやっていたに過ぎない。分かってはいたが、その気持ちを無視し続けた。気付いたことに気付きたくなかったのだ。


 心の中はとても醜かった。もちろん、見過ごすことは出来なかった、という理由もあった。だが本当のことろは、そんなに簡単な心情ではなかったのだ。

 ただ、自分を助けたかっただけなのかもしれない。ずっと続く罪悪感に押し潰されそうになっていた。ライカがそこにいてくれるだけで、心なしか無様な自分を忘れることが出来た。弟の苦しみにも気付かない姉なんて、存在する意味がない。そう思ってきたから。


 他の家がどうかは知らないが、瑠衣と航は仲がよかった。何をするにも一緒にいたし、理解者だった。そのつもりだった。だが、そんなものは幻想だったのだろう。

 もし本当に瑠衣が思っているような、姉弟(きょうだい)だったなら、彼は黙っていなくなったりしなかった。きっと何か話してくれたに違いなかった。

 瑠衣はきっと、何も分かっていなかった。今でも何をどうしたらよかったのか、全く分からずにいる――。


◇◇◇


 そんなようなことを、瑠衣はぽつりぽつりと話し続けた。東京に出て来てから、誰にも言ったことがなかった、さほど遠くない過去の話。


 話しているうちに、涙が浮かんでくる。鼻をすすると手のひらでまぶたをこする。何だかおかしくなってきて、瑠衣は「へへへ」と笑う。


 今まで、瑠衣はほとんど泣いたことはなかった。弟を探して探して探して、それだけに必死になっていた。そうやって毎日が過ぎていった。それでもときどき、真っ暗な部屋で目を覚ますと、どうしようも寂しくなった。泣いてしまったのは、そんなとき以来だ。涙を引っ込めたくて、上を向くと夕立はとっくに去っていた。


「……ライカはよく、私のことを『善人だ』とか『お人好しだ』って言うけど……そうでもないでしょ? ライカが帰っちゃう前に、話したかったの。だって、なんだか卑怯じゃない。本当はそうじゃないのに、いいひとぶって恩着せたままなんて」


 ライカは返事をしないだろう。彼は瑠衣が話している間も、ときどき「うん」と呟く以外、黙っていた。生返事かもしれない。でもそれでも構わない、瑠衣はそう思う。たとえ、ライカが興味を持たなかったとしても、伝えることだけはするべきだ。この人助けが、善意だけで出来ているわけではなかったことを。


「……なんか、こんなタイミングでおかしいよね。寝不足のせいね。嫌になっちゃう」


 唐突に自分語りをしてしまったことをが恥ずかしくなって、瑠衣は早口でまくし立てる。それでもライカは口を開かなかった。幻滅されたのかもしれない。それでも、事実は事実なのだから、仕方のないことだ。しかし、次の言葉が浮かばない瑠衣は、ひたすらに色んな形に変化する雲を目で追う。やがて、すごい速さで流れる雲が切れ、夕焼けが見えた。鮮やかなオレンジ色だ。夜と昼が混じり合ったその色は、とても綺麗だ。

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