3.空が泣いてる
少年はずっと窓の外ばかり見ていた。様子のおかしいライカを無理やり部屋まで連れ帰ったはいいが、彼はほとんど話もせず、脱力して座り込んだままだ。
『気付かなかった』と、そんな風に彼が言っていたことを瑠衣は思い出す。きっと全てを背負い込んで自分の責任だと思っているのだろう。瑠衣は憂鬱な気持ちになって、ため息をついた。
「ねぇライカ、ご飯食べない?」
問いかけるが、返事がない。そっとしておこうと、今まで近付かずにいたが、もうそれも限界だった。歩み寄って肩を叩く。
「ライカってば!」
「……ん」
少し時差があって、ライカの顔がこちらを向く。その表情に人間味が欠片も感じられなくて、瑠衣は怖くなる。
「ねぇ、ご飯、食べようよ」
「…………いらない」
「ねぇ、もう二日目よ? そうやって……。なに言ってもろくすっぽ返事ないし……。さすがに死んじゃうよ、なにか食べないと……」
「二日……?」
意外そうに彼が呟き「二日……」と、うつむいたままもう一度言う。その言い方は、いつもよりもっと、他人事のようだった。
「あのね、ライカ……。新聞、私も読んだ。大体なにがあったのかは想像出来たけど……。大丈夫じゃないのもわかる。だけど……このままそうやってずっと座ったままでいるつもり? そんなの……。とりあえず、水分とか、ご飯とか……」
言いかけた瑠衣は、何と続けたらいいか分からなくなる。友人を失ったであろうライカに、どう接すればいいのか分からなかった。
「……あれ……あの花……」
黙ってしまった瑠衣に向かってそう言うと、ライカはキッチンを指差した。そこには彼が握りしめて離さなかったマリーゴールドが生けてあった。
「あぁ……。あのままだったら枯れちゃってたからね。ライカ、持って帰って来ちゃったんだよ」
「……そうだっけ」
生気のない顔で彼は言う。瑠衣は頷くと、咳払いをした。ライカが喋らないと、瑠衣も話す相手がいないことになる。何だか声がかすれてしょうがなかった。
久しぶりに彼と会話らしい会話をしている。話は出来るらしい、と分かると瑠衣は少し安心した。
「……私がどうこう言えることじゃないのはわかってるけど……。その……永田さん? の家は知ってるの?」
ライカはぼうっと瑠衣の顔を見ると、微かに首を振った。「……そっか」と呟くと、しばらくの沈黙の後、ライカが口を開く。
「そういうの……全然話さなかった。おれもあいつも、話したくなかったから……」
彼の秘密主義を思えば、それはそうか、と思い直す。瑠衣はこめかみを押さえた。どうしたら、この少年は立ち直れるのだろうか。信号待ちの最中に、ライカが道路に飛び出そうとしたときは、本当に生きた心地がしなかった。
どうしてこの少年は、こうも死にたがるのだろうか。他人には計り知れない、何かがあるんだろう、と自分に言い聞かせることくらいしか、瑠衣には出来なかった。
「あの……」
うなだれていたライカが、床を見つめたまま、言いかけて言葉を切る。何だろう、と頬杖をついだ瑠衣が彼を見守ること数十秒、ライカはやっと口を開いた。
「考えたんだけど……おれ、家に帰るから」
「…………えっ?」
まるで、コーヒーに入れる砂糖の数を告げるかのように、さらりとライカは『帰る』と言った。目を見開いた瑠衣に向かって、彼は淡々と続ける。
「……なんか、ヤバいじゃん、おれ。なんかやるかもしれないし……瑠衣が面倒に巻き込まれると、いやだし」
「……でも――」
「なんか……わかんないんだけど、ヤバいのはわかる。なんか、ヤバい」
「私にもそう見えるよ……。だけど今……絶対、普通に帰れないでしょ、きみ。真っ直ぐ歩くのだって怪しいわよ」
「……ヤバいね」
虚ろな瞳は、じっとマリーゴールドを見つめている。まばたきすら忘れるようで、時折、思い出したように目を瞬かせている。
「……あぁ、瑠衣……仕事は?」
「仕事!? そんなの……どうでもいいでしょ。こっちの心配してる場合? 休んでるから平気よ」
「……そうなんだ……」
放心して呟くライカのことが心底、心配になった。再び窓の外へ視線を移した彼は、ぼうっとしたまま呟いた。
「なんだろ……。なんか……変なんだよね、すごく。頭がおかしいのが……わかるんだけど、治んない感じ」
「うん……」
「さっき……二日って……言ったっけ」
「え?……うん、今日で二日目、だよ」
「そう……」
呟くとライカは黙ってしまった。無意識に瑠衣の口からため息が漏れた。膝を抱え、顔を伏せる。『寝ようよ』と言っても眠らないライカが心配で、ろくに寝ていなかった瑠衣は、その場でうとうと、と眠ってしまった。
それからどれくらい経ったのか分からないまま、ふっと我に返って顔を上げるとライカがそこにいない。
「えっ……」
辺りを見回しても、どこにもいなかった。まさかと思ってベランダに目をやると、突っ立っているライカが視界の隅に入った。冗談でしょ、思った瑠衣だが、全く笑えない。これは冗談ではなさそうだった。
「待ってよ……待って、待って!!」
網戸をバァンッと開けると、夢中でライカの腕とシャツを後ろに引いた。
「ちょ……!! 何回アホって言わせるん?!」
力任せに引っ張ったせいで、よろけたライカの肩が窓ガラスにぶつかった。それでも瑠衣は彼の服を離せなかった。怖くて怖くて、仕方がなかった。
「……なに」
「なに、じゃない……よぉ」
ライカのTシャツを掴んだまま、瑠衣はへたり込んだ。腰が抜けたのか立ち上がれない。シャツが引っ張られる形になったライカは、ズルズルと座り込むと、ガラス窓に背中を付けて息を吐いた。
「風……当たりたくて……」
ぽつりと言ったライカが続けて「誤解」と呟いた。どうやら「誤解してるよ」と言いたいようだった。
「はぁ? そんな顔して、ベランダ立ってたら、誤解もするわよ! こんアホ!!」
瑠衣は思わずライカの頭を平手で殴ったが、彼は無反応で、ただその茶色い髪が乱れただけだった。ライカは相変わらず死人のような顔で瑠衣を見て口を開く。
「……おれ……別に……なんか……。あぁダメだ……。気持ち悪い。……ちょっと……あの」
何かを話そうとして、混乱したらしいライカが頭を抱える。懸命に言葉を繋げようとしていることだけは伝わってくる。
荒くなった息を抑えようとしたのか、唾を飲み込んだ彼の言葉を瑠衣は遮る。
「もういいから! 落ち着くまで、静かにしてて? 色々聞こうとした私が悪かった。ごめん……。ごめんね」
そう言った瑠衣の腕を、今度はライカが掴む。力なく、触れられた手を瑠衣はそっと握り返した。
「いや……違う。ホントはね。落っこちたら……消えるのかなって。ずっとこの辺……ここが苦しくて……。そういうの、消えるのかなって、思ってた、さっき。別に落ちたい……わけじゃないんだけど。おかしいな、上手く言えない」
喉の辺りをさすりながら、ぽつりぽつりと彼が言う。背筋がぞわりとした。ライカの言葉に嘘がないからだ。彼は本気で言っている。誇張もなく、思ったことをそのまま言っているように、瑠衣には聞こえた。
「ねぇ……おれさ。なんか……もう死んでる、みたいな……そういう感じするのにさ、こんなに苦しいの、ひどいと思うんだ」
その言葉を聞いた瑠衣は、堪らずにライカを抱きしめた。なぜだか分からないが、そうしたいと思ったのだ。何だか辛すぎて、涙が出てきそうだった。
「死んでないでしょ?! なに言ってるの??」
腕の中のライカは、まるで力が入らないようだった。抱き寄せられたまま、静かに息をしていた。
「……ちょっと寝た方がいい、ホントに。無理やりにでも寝て」
「ん……」
「中入ろうよ」
彼の身体を引き剥がしてその顔を覗き込むと、ライカはゆっくりと視線を上げた。どこを見ているのか分からない瞳が、瑠衣を捉えると、不意に瞬きをした。
「……瑠衣、ごめんね」
「大丈夫よ」
「いっつも……ごめんね」
弱々しく呟くライカを見ているのが辛い。瑠衣は目を伏せると、もう一度強く彼を抱きしめた。
「ライカ、死ぬのは違うよ? 絶対、ダメ。きみは生きるのよ、約束して」
「……うん」
「ショックなのは、わかるよ? だけど……。たとえばライカが死んだって……なにになるって言うの? その子が生き返る? そうじゃないよね? わかる?」
「……うん」
「本当にわかってる?」
「……うん」
ダメだと思った。ライカには届いていない。ぼうっとこちらを向いたまま「うん」と繰り返す彼は、壊れた機械のようだった。
「ライカ!!」
バチッと両頬を挟み、叩くと微かに、揺れていた視線が定まって目が合った。
「ライカのせいじゃない。気がつかなかったって言ってたけど、それはね、きみのせいじゃない。いい?」
「……」
彼は何も言わずに、僅かに首を振った。思わず「違うってば!」と叫ぶが、ライカは真っ直ぐに瑠衣を見る。
「違くはない」
思っていたよりもはっきり、彼の言葉は返ってきた。言葉に詰まった瑠衣に向かって、ライカは口を開く。
「……気づいたと思う……。おれだったら」
「ちょっと待っ」
「わかってたんだよ。あいつがおかしいことも……。なんか変だと……思ってた。おれは知ってた。なのに、なにがどう変なのか、わからなかった」
「ねぇって」
「……気づけなかった」
「聞いてよ、ライカ」
「気づかなかったんじゃない……。気づけなかったんだよ……おれ」
ライカは微かに笑っていた。呆れているのか、嘲っているのか、瑠衣には分からなかった。もう、かける言葉が見つからず、黙り込んだ。ただ、隣にいることしか、出来そうもなかった。
本当に出来ることがないのか、瑠衣は考え続けた。ずいぶん時間が経ってしまったようだ。顔を上げると、涼しい風が頬を撫でていく。
夕立が来そうな空気だ、と感覚的に察知する。空が泣こうとしてるんだ、瑠衣はそんな風にぼんやりと思う。
少し落ち着いたらしいライカの手を離し、ガラス戸に寄りかかってみたら、勢いをつけすぎて頭がぶつかってしまった。大して痛くもなかったのに音だけは大きくて、誤魔化すように「いたた」と呟く。
ライカを立ち直らせよう、なんて、ものすごくおこがましい、と瑠衣はふっと笑う。自分だって未だに吹っ切れていないというのに。
ライカの喪失感はきっと、瑠衣のものとは違う。しかし、彼女には苦しむライカの気持ちが痛いほど分かるのだ。彼から色々聞き出そうとする割に、瑠衣には、まだ話していないことがあった。今、それを話さなくてはならない、それに彼女は気が付いた。
「ライカ……。言いたいことがある……」
膝を立ててうなだれていた彼の目が開き、その頭が微かに縦に動いた。『言いたいことがある』と言ったのは瑠衣なのに、ちっとも言いたくはなかった。
だが、漠然と「わかる」や「元気出して」などと言うよりは、彼にも伝わるような気がした。自分に起きたことを言えば。あのときの気持ちを話せば。
「うちから……いなくなったのはね。……猫だけじゃないの。私も気づけなかったし、わかんなかったの。こんなの、安っぽく聞こえると思うけど、わかるよ。……ライカは『なんでおれ助けたのか、どうして放っておけなかったか、なんでなの?』って言ってたよね。それは……」
ライカは答えない代わりに顔をこちらに向けた。虚ろな瞳が、瑠衣を見つめる。そんな話をしたのはずいぶん前だった。しかし、物覚えのいい彼なら覚えているかもしれない。しかし、今この言葉が、彼に届いているのか瑠衣には分からなかった。
「……聞こえてる?」
「うん……聞いてるよ。猫以外に……なにが逃げたの? 鳥? 犬……?」
その言葉聞いた瑠衣は、笑ってしまう。「そうよね」呟くと、はぁ、と息をついた。ざあっと音がし始め、瑠衣は空を見上げた。
やはり夕立だ。大粒の雨を眺めながら、彼女はぽつり、と吐き出す。
「いなくなったのは……弟だよ。私の弟」
彼は瑠衣の大事な家族だった。地元の人間以外と、この話をする日がくるとは思っていなかった。足下を見つめる瑠衣を、ライカはただ見つめ続けている。その視線に気付いてはいたが、瑠衣は彼を見ることが出来なかった。
弟のことは、瑠衣にとっては勇気を振り絞らなければ話せないことで、顔を上げたら決心が鈍ってしまいそうだ。胸の奥でずっとチクチクと痛み続ける、あの朝のことを思い返すのは、辛かった。
でも、言わなくてはならない、と瑠衣は思う。ライカにも関係している。 彼を助けた理由で、 放って置けない本当の理由なのだから。
瑠衣はうつむけていた顔を上げて、そっと口を開いた。