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2.名も知らぬ花はゆらゆら揺れる


 気が付くと、あのビルの下にいた。どれくらいここに立っていたのだろう。ライカは全身汗まみれだった。貼り付くTシャツの感触がなければ、それすら気付かなかっただろう。


 既に何もかもが終わった後のようで、規制線も張られていなかった。ビルの根元に花が供えられていて、それだけがあの新聞記事が真実であることを訴えていた。


 永田(ながた)(ゆい)――確かにそう書いてあった。彼女が一度だけ口にした名字は、永田だった。


 同じ名前、そしてこの場所。いくら都合よく考えようとしても、ライカが間違っているという確証は、何も得られなかった。あの記事の女子高校生はきっとユイなのだろう。

 呆然としたまま歩み寄ると、ライカは思わず置いてあった花束の中でひとつだけ、種類が違うオレンジ色の花を手に取った。ギザギザの花びらと、丸い形の、よく知らない花だ。何も考えられない。ゆらゆらふわふわ、と頭の中が真っ白になっていく。


 ──また、置いていかれた──


 一瞬、そんな言葉が彼の頭をよぎって、何のことだろうとぼんやりと考えた。ふと足下を見ると、焦げ茶色の点が見えた。後ずさるともう少し大きな染みが現れた。それが、消し切れなかった血痕の名残だと気が付くと、視界がぐらっと揺れた。


 寒気と吐き気とが同時に襲ってきて、ライカは堪らず隣の建物のブロック塀に手をついた。こみ上げた吐き気は抑えきれずに、ライカは嘔吐した。吐いても吐いても気分が悪い。終いには吐くものがなくなって、その場にしゃがみ込んだ。


 自分の吐瀉物で地面と靴が汚れている。ライカは何だか申し訳ない気持ちになってしまう。しかし、それは我慢が出来るような類のものではなかった。袖で口元を拭うと嫌な臭いがした。それがさらに吐き気を誘う。


 涙で滲んだ視界に、手にした花束が入り込んでくる。綺麗な花だ。こんなことがなければ知りもしなかったであろう、オレンジ色の花。

 ライカは動けなくなった。立ち上がることも、座り込むことも出来ない。


 どくどく鳴る心臓がうるさい。自分は生きているのに、彼女は死んだ。

 ついこの間まで一緒にいたのに。笑ったり、泣いたりしていたのに。


「ライカっ!!」


 ぐいと腕を引かれて見上げると、そこには瑠衣がいた。新聞を握りしめたまま、息を切らして、短い前髪がぐちゃぐちゃに絡まっていた。


「……なんでここに――」


 瑠衣がいるんだろう? と続けようとしたライカだが、自分がどこまで口にしていて、そしてどこから続ければいいのか分からなくなり、口を閉じた。

 彼女は何も言わずにそのまま、ライカの背中をさすり始める。瑠衣が途方に暮れているのが気配で分かる。


「ねぇ……。この記事……知ってる子なの?」


 そう聞かれても、上手く話せそうもなかった。何も答えられずにいると、掴まれている腕がさらにぎゅっと握られる。


「……帰ろうよ、ライカ」


 覗き込まれた瑠衣の目を、ライカは見る。酷く悲しみを(たた)えた色だった。他人のはずの彼女は、まるで自分のことのように悲しそうに目を伏せた。


「ね? ……帰ろう」


 腕を引かれて、どうにか立ち上がったライカは、動かない足を無理やりに前に出した。靴底がアスファルトとの摩擦で、ざりざりと音をたてた。まるで実感がなかった。歩いているのに、地面を踏んでいる感覚がなかった。


 ライカは思う。自分はどんな顔をしているのだろうか。泣いているのだろうか、それとも笑っているのだろうか。しかし、腕を引く瑠衣は何も言わない。


 世界が揺れている気がした。知っている景色なのに、どこか偽物に思えた。夢であって欲しい、こんな現実は、ただの悪い夢であるべきだ。


 信号が青になる。それでもライカは歩き出せなかった。最初にこの街に降り立った頃と同じように、ライカはいつまでも足を踏み出せなかった。


 知らないひとたちの群の中で、誰でもない存在でいるというのに、ちっとも消えていないじゃないか。なぜ、自分ではなく、彼女がいなくなったのだろう。消えるべきはユイではなかった。それを望んでいたのは――。


「ねぇ? 青だから……渡れるよ?」


 心配そうに様子を窺う瑠衣を黙って見つめ返した。色々伝えなくてはいけないのに、喉がカラカラで、ちっとも声が出てこなかった。


 ――ごめん、なんで、わかんない、どうしよう――


 そんなような思いがライカの頭の中を行ったり来たりする。そうこうしているうちに、信号は赤になってしまった。瑠衣は諦めたように、腕を離した。


 目の前をびゅんびゅんと車が走り始め、路面をゆらゆらと金色の陽炎が漂っている。寒くて凍えそうな気分なのに、地球は暑いらしい。(あった)かそうだな──そう思うと足が自然と前に動き出した。


 一歩踏み出したところで、ガシッと瑠衣に再び腕を捕まれた。見下ろすと、その顔は、恐怖で歪んでいた、ライカにはそう見えた。


「帰るんだよ、ライカ……! 帰るの」


「……うん」


 聞こえたか聞こえないか、分からないような声しか出せなかったライカは、やっとのことで頷いた。ぼんやりとした頭はちっとも働かない。黙って(こうべ)を垂れると、瑠衣はさらにきつく手を握りしめ、ぎゅっと腕を組んだ。


「あとで話そう? お願いだから、帰ろうね」


 ライカは、横断歩道のシマ模様を眺めながら、必死でその声を聞いていた。

 ──帰る、家に、帰る。話す、あとで、話す──

 念仏のように頭の中で繰り返すと、わずかな理性を保つことが出来た。街頭のテレビはいつもと変わらず、どうでもいい宣伝を流し続けている。


 蝉が狂ったように鳴いていた。心なしか、その鳴き声は苦しみを訴えているように聞こえた。もうすぐ死んでしまう、その儚い必死な鳴き声の中で、ライカはずっと自分の足下を見つめた。

 そうする以外、どうしようもなかった。


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