1.ある晴れた八月の午後
乱暴にフライパンを置いた音が辺りに響く。瑠衣は怒っていた。
もちろん、ライカに対してだ。一度怒りを露わにしたら、収まりがつかなくなって、怒りが怒りを呼んでいる。
そんなに怒ることはない、たかが少年の二度目の朝帰りだ。それに、こちらの気持ちを気遣えなんて無理なことだろう。どちらもちゃんと分かっている。それでも瑠衣は怒っていた。
喧嘩をしたんだかどうなのか、瑠衣には判別がつかなかったが、彼の顔は腫れていた。それについてもライカは何も言わないのだ。それは言う理由がないから。分かるからこそ、腹が立つ。
適当に作ったベーコンエッグと、サラダを持って、テーブルへと足を向ける。居心地が悪そうに、膝を抱えるライカの前にそれらを置くと、踵を返した。
「……あの……瑠衣」
遠慮がちにかけられた声を、わざと聞こえないふりをする。米をよそったご飯茶碗をふたつ持って、またテーブルへと向かう。
「……瑠衣?」
彼をちらりと見ると「なんでしょう?」と返した。ライカは困ったように瑠衣を見上げている。そんな顔をしたってダメだ。許す気は瑠衣にはなかった。口を真一文字に結んで、茶碗を彼の前にずいと押し出した。
彼を、出来る限り無視し始めて丸一日が経った。最初は単純に腹が立っていた。だが、今は何かが違う。それは拗ねている、というのが最も近い感情だった。こんなに心配しているのに、なぜ分かってくれないのか。
酷く自分勝手な考えだと自分でも嫌になる。しかし、瑠衣のやさぐれた気持ちはなかなか鎮まらなかった。
「ちょっと……聞きたいことが」
「はい、どうぞ」
「あ……いや……その」
「醤油」
「へ?」
「その醤油、取って」
「あぁ……はい」
手渡された醤油差しから数滴の醤油をベーコンエッグに垂らすと「えっ」とライカが声を上げる。そんな声を出す理由が分からず、瑠衣は、久々に彼の顔を真正面から見た。
「……なに?」
「あ……いや、塩じゃないの、目玉焼きって」
「醤油だとなにか問題が??」
心のままに声を出したら、語気が強くなってしまった。そんな瑠衣を見て、ライカは呆れたように、への字口になった。
「……あのさぁ、そんなに怒らなくたっていいでしょ。醤油かけてるの、初めて見ただけだよ」
「別に、怒ってないわよ」
「……ウソつけよ」
彼は聞こえないように言ったつもりなのだろうが、しっかり聞こえていた。ライカは分かっていないのだろうか、と疑問に思う。醤油を否定されたから怒っているわけではないのだ。
「で、なに? 聞きたいことって」
「あぁ……。あの……なんて言ったらいいのかちょっと……。つまり、助けて欲しくて。友達が……。そいつ、ユイっていうんだけど……」
「……ゆいっていうんだけど?」
聞き返すと、口を開きかけていたライカがぴたりと止まって、黙り込んでしまった。高圧的な態度は抜けなかったが、話は聞くつもりだった瑠衣は、眉を上げる。
「いや、やっぱいい。なんでもない」
「言いかけてやめるの、どうかと思うんだけど」
「そんな怒ってる瑠衣に言ったら、もっと怒られる」
「……なぁに、怒られるようなことしたの?」
「いや、別に……悪いことはしてないけど」
「……ふぅん」
ベーコンエッグに視線を戻すが、瑠衣にはひとつ気がかりなことがあった。当の本人が、何も言わずに食事をしようとしているのだから、恐らく大丈夫なんだろうというのは察することが出来たけれど。
「ライカ、具合どうなの?」
レタスを頬張りながら問いかける。彼は驚いたようにこちらを見るが、何のことか分からないようで、首を傾げる。
「……あなたの体調はどうですかって聞いてるの」
「あぁ……。うん、まぁ。大丈夫、多分」
「なんで顔、腫れてるの?」
「……なんでだろ、ね?」
「それ、明らかに殴られてるよね?」
「いや。……コケたの」
「へー。あごから地面に突っ込んだの?」
ちらり、と彼を見る。ライカは難しい顔で空中を睨んでいた。そんなところに答えがあるとは、瑠衣には思えなかった。
「もう、なんでもいいよ。ライカが本当のこと言うわけないもん」
喉が渇いて、瑠衣はテーブルを見渡すが、飲み物がない。持ってくるのを忘れてしまった。面倒臭いと思いつつ、立ち上がると冷蔵庫を開く。一リットルのペットボトルの水が入りっぱなしになっていた。残り三分の一程度だ。飲みきってしまおうと蓋を捻って、直接口を付ける。
「瑠衣ってホント……オッサンみたい」
「……あぁ。そう」
ガンっと冷蔵庫を乱暴に閉めると、瑠衣は振り返りツカツカと歩くと、しまった、という顔のまま無言で下を向いているライカの目の前に、ペットボトルを乱暴に置いた。
「きみさ 『ひと言、余計』って言われない?」
「……すみません。豪快だったから、つい」
「飲むならどうぞ!」
「……あぁ……いや」
「なによ」
「なんかコップ持ってくる」
「あれだね、ライカって本当、お育ちがよろしいわよね」
「あ?」
「これくらいどうってことないじゃん。いちいちコップとか……。どこの坊ちゃんよ」
ベーコンを大きく切りすぎた。茶碗に乗り切らなそうなので、箸で小さくする。ちらりとライカを見ると、浮かせた腰を下ろして、憤慨したようにこちらを向くところだった。
「気を遣ってんの、わかんねぇの?」
そう言うと、彼はペットボトルを掴んで煽ると、ダンっ! とテーブルに置いた。
「居候だからね? おれはさ。悪いかなって思っただけだろ。これがおれのペットボトルだったらわざわざコップなんか持って来ないからな」
空気が気まずい。それを作っているのが自分だと気付くと、瑠衣は箸を置いた。あまりに大人げがなかった、もう終わりにしなくては、と息をつく。
「……ごめん、イライラして。ライカ、ウソばっかりつくから」
「いや……それはおれが悪いんだけど……。瑠衣、怒りすぎだよ」
「そうね。ごめんね。話なら聞きます。なんだったですか?」
取り敢えず謝罪の言葉を述べるが変な空気のせいで、さらに変な敬語になってしまう。瑠衣の口からため息が漏れた。自分の気持ちの方がおかしいのだ。彼の言うとおり、ライカはただの居候で、何でも話せというのは無理がある。心配するのもこちらの勝手で、彼には関係のないことだ。
当のライカはうなずきはしたが、もぐもぐと口を動かしていて、しばらく話は始まりそうもなかった。
何だか食欲がない瑠衣は、茶碗を奥に押しやって、目を伏せた。ふと思い立って、瑠衣は新聞を広げた。それは瑠衣の日課だった。バサバサはためく新聞紙を抑えるのが面倒くさい瑠衣は、扇風機をライカの方に向けた。
特に世情に興味がないのに、新聞を隅から隅まで読む理由――それは何か手がかりがあるかもしれないからだ。 "あの子" についての何かが。
そのとき、新聞の向こうで、ガチャン! と大きな音がした。何事かとそっと覗くと、茶碗を乱暴にテーブルに置いたらしいライカが、瑠衣が裏返した新聞の隅を凝視して、まるで貼り付くかのように記事を読んでいた。
「……なに、どうした?」
問いかけるが、彼は答えない代わりに、瑠衣から新聞を奪うと、さらに舐めるように記事を読み続ける。忙しなく動く眼球を、さすがに不審に思って彼の顔をまじまじと眺める。
「どうしたの?? なに?」
一緒になって、彼が読んでいるであろう部分に目を向ける。小さな記事には、ただ、文字だけが並んでいる。
「女子高生……飛び降り? ……やだ。これ、うちの近くっぽいわね」
読み終えたらしいライカが、瑠衣に新聞を押しつける。「ちょ……っと! 破れちゃうじゃないの」と呆れながらふっとライカを見ると、彼は放心したように瞬きもせずにテーブルの一点を見つめていた
「え……どうしたの? 大丈夫?」
声をかけてみても、そんな声は聞こえないのか、ライカはぴくりとも動かなかった。彼の顔からみるみる血の気が引いていく。瑠衣の手から再び新聞を奪うと、彼はまた同じ記事を読み始める。
「かわいそうにね。……この辺、よくあるんだよ」
なんだかおかしいな、とは思いながらも、瑠衣は敢えて何でもないように言葉を繋げた。ライカは新聞を床に置くと、青い顔のまま「……またかよ」と呟いた。はっきりとは聞こえなかったが、そう言ったように瑠衣には聞こえた。
「ん?」
「また、気づかなかった」
「……なんの話?」
質問には答えずに、ゆらりと立ち上がったライカが瑠衣の後ろを通り過ぎる。「え、なに?」と声をかけても彼は答えることなく、靴を履くと玄関の扉を開いて出て行った。
「ちょっと?! どこ行くの? ……ライカ??」
追いかけようと立ち上がるが、思い直して振り返りテーブルの上に皺が寄った新聞を置き直す。そして、先ほどの記事に、もう一度しっかり目を通した。
「……一四日、午後……。文京区の……永田唯さん十八歳が……路上に倒れ……」
そこまで読むと、はっとした。先ほどライカが言いかけた言葉の中に、 "ゆい" という名前があったような。
「……ウソでしょ。友達……とか?」
そして顔を上げる。ライカはこの現場に向かったのではないかと気付いたのだ。細かい番地までは書いていなかったが大体の目星はつく。それに、走れば追いつけるかもしれない。
瑠衣はサンダルを突っかけると、ライカを追いかけた。