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* 唯 ーただのわたしー


 唯一(ゆいいつ)の人間になるように。それが両親の願いだった、きっと。


 どこで狂ってしまったのだろう。私は、ただの私だったのに。誰も分かってはくれなかった。私はちゃんと、唯一のひとになったつもりなのに。


 もう充分だ。私は私を終わらせなくてはいけない。逃げ出すなんて卑怯だ。だけど、そうしなきゃいけない。


 ……彼は怒るだろうか。もし彼の言葉に嘘がなかったのなら、怒るかもしれない。だけど、本当なんて思えない。今の私には彼を信じることは出来ない。もしまた裏切られたら……? それがとても怖い。もう、何も見たくないの。


 彼はきっと、約束は守る。たとえ出来なかったとしても、守ろうとする。だから、私も約束は守る。私なりのやり方で。それだけはやらなくちゃ。


 何も感じることが出来なくなって、随分時間が経った。これはもう、ずっと前から決めていたこと。それを今日、私は決行することにする。


◇◇◇


 彼女は、ポケットの中の封筒を握りしめ、それがどこかに行ってしまわぬように、ポケットの奥にしっかりと押し込んだ。風が吹き抜けて髪を暴れさせても、怖くはなかった。身体が軽くて、どこまでも行けそうだった。


 もう一度空を見上げる。彼と見た空を。それは綺麗な青だった。抜けるように白い雲が、風に流されてぐんぐん進んでいく。


「美空……」


 ふっと思い付いて、手のひらを空にかざす。小さい頃に歌った童謡の歌詞を思い出したのだ。手のひらを太陽にかざすと血が流れているのが見える、とその歌は言っていた。だが実際は、単に青い空を背景にした自分の手が見えるだけだ。


「血なんて見えないじゃん……」


 分かっている。あれは抽象的なもので、皆が平等に生きていることを子供に教えてくれる歌だ。好きな歌詞だった。用もないのによく歌っていたっけ。

 もうあの少女はどこにもいないのだろう。──だから、血が流れているのが見えないんだよね──彼女は思う。あの頃ならば、実際に何も見えなかったとしても、何とも思わなかった。きっと。生きることを疑問にも思わなかっただろう。


 彼女は静かに目を閉じた。

 あれから――彼と最後に会ってから何日経ったのだろうか。よく分からない絶望感に心が支配されていくのが分かった。

 彼と離れること。それは自分で決めたことなのに、そうしたかったのは自分なのに、それに耐えられないなんて。彼女はおかしくてはたまらなかった。


 閉じていた目を開くと、彼女は手すりから手を離した。足下を覗き込むと、眼下に虚ろな街が広がった。歩行者はいない。


 とても幸せだった。それなのにその幸せが怖かった。いつか消えてしまうから。きっと、()くなってしまうから。その恐怖が、彼女を突き動かしていた。



「バイバイ……来夏」



 ひらひらと宙を舞った身体が、美しく着地することはなかった。真夏の空に飛行機雲が、青を切り裂いて白い直線を描く。それが消えるまで、さほど時間はかからない。

 それと同じように、(ユイ)という少女が、ここにいたことなど、誰も彼もが忘れてしまう──彼女は、それを疑うことが出来なかった。


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